ときどき日記 02/06(前)


02/06/15(土)

『ウルトラマンコスモス』…じゃなくて、緊急放送となった『ウルトラマンM78劇場』

 その冒頭と番組終わりに、
「「ウルトラマンコスモス」は出演者が平成12年、未成年時に起こした傷害恐喝容疑事件で警察に逮捕されたため、放送中止を決定しました。あしからずご了承ください。」
というテロップが流れた。
 ああ、やっぱり終わりなんだなあ。
嘘みたいだ。
 正直言うと、それ程は好きな作品じゃなかったんだけど、それでもこの終わり方はあんまりだろう。

 最近はグズグズになって来てたとはいえ、「暴力を肯定しない、優しいウルトラマン」を描こうとしていたシリーズで、主演役者が「傷害」そして「恐喝」の容疑で逮捕までされては、放送の継続はそりゃ難しかろうと思うけど…

 現状、まだよく事件が分からないので、万が一、とんだ冤罪である可能性すらある訳だが…言われている通りの行いを、情状酌量の余地無く していたとして。

 役者として、主演のお兄ちゃんの未来は完全に閉ざされてしまった事だろう。
それどころか、番組終了に伴い生じた莫大な損失金の一部でも支払いを求められるなら、人生そのものが破滅の危機に瀕してしまうかも。
 一生懸命に役を演じていたのであろう、他の出演者達はもっと可哀想。
不名誉な理由で出演番組が打ち切られ、自分の役だったキャラクターに決着を着ける(放送で公開する)事も出来ないのだから。
 もちろん、監督・脚本・特撮など、スタッフ達も。

 可哀想で済まないのが円谷プロで、制作費オーバーのためTVを一本放送する毎に赤字が増えていたらしいのに、これでソフト化やグッズの売り上げによる補填も出来なくなってしまった。

 とにかく主演のお兄ちゃんが出ているシーンを外してライブを撮り直す事。
出来るのはコレだけだなあ。
 テレビ放送はさすがにもう無理だろうから、DVDセールスなどの形で、撮り直したものをファンに向けて公開。
もしくは、DVDに特典としてシナリオを付け、主演役者が出ているシーンを全てカットした上で販売するなど。
いくらか制作費を回収する手だてを講じた方が良いかと。

 ただ…
子供達にはそれなりに人気があっただろうが、オタク受けは決して「最高!」と言えなかった作品なので、これだけミソが付いてしまった挙げ句にソフト化して、どれだけの販売本数が見込めるかは、少々疑問。
今すぐ出せばともかく、半年、一年後では子供達の頭からも、もう『コスモス』という番組の記憶がかなり薄れてしまっているだろうし。
 でもまあ、そこはファンサービスであり、自社ブランドに対する責任という事で。
新作『ウルトラセブン』ぐらいは売れる…かも。

 取りあえず、頑張れ円谷プロ。

 あ、ちなみに今日 放送されたアニメは、確か劇場版『ガイア』と併映されたモノで、箸にも棒にも掛からない子供騙しな作品(^ ^)。



02/06/14(金)

 今日は、ほとんどの日本人にとっては、日本がワールドカップで悲願の決勝トーナメント進出を決めた記念すべき日になったのだろうが、オタク的には『ウルトラマンコスモス』主演のお兄ちゃんが逮捕された、悲しい記念日になってしまった。

 特撮番組数あれど…何らかの要因で途中、役者の交代がなされた事はあっても(『バイオマン』のイエローフォーとか)、主演俳優の逮捕が原因で番組打ち切りが決まったのはコレが初めてだろう。
 円谷の屋台骨である『ウルトラマン』サーガでこの不祥事。
…出来る事なら、歴史から抹消したい気分だろうなあ。
 しかし経営的には、制作費がかなりかかる特撮作品の事、せめてソフト化してでも元を取りたい気持ちはあるだろう。
もしか劇場版まで公開保留になってしまったなら、被る被害額は…数十億か?

 とにかく、まだ事件の詳細が分からないから続報を待ちたい所だが、TVのニュースは9割以上の時間を割いて、日本サッカー勝利関係の放送をするばかり。
まあ、そりゃあそうか。


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『アベノ橋魔法☆商店街』11.「決断!アベノ橋☆戦場商店街」

 ううーん…
作画が悪いし、演出テンションも低い。
そもそも話自体がシリーズ構成的に存在意義が薄くて何とも…
 戦いに飽いた聖志が、ようやく あるみの言葉に耳を傾け、多元世界から抜けて現実に帰る事を肯定する、という物語に、レベルが落ちたバラエティー世界を見せられ テンションが落ちてしまった視聴者も感情移入しやすくなった、という意味のみにおいては存在意義があったのかも知れないが。

 それよりか前回、「ぽわぽわ?アベノ橋☆メルヘン商店街」で、陰陽師となった聖志が初めて意識的に世界を作り上げ、式神を使役していた所を見て。
 一時期の永井 豪先生作品の如く、作品世界をミックスしてしまう方法論に乗っ取って考えるに、これで『エヴァンゲリオン』も こじつけられないだろうか(^ ^)?

 『エヴァ』の世界は、全て対象者(シンジだろうなあ)を楽しませる(!)目的で、世界を創造する力を持つ誰か…都合良く自分も若い姿に戻り すっかり息子と危ない関係に陥ろうとする綾波か、歪んだ愛情の発露・ゲンドウか、意外とアスカか…が用意したモノ。
 次々に訪れてくる使徒は、式神。
 主催者たる陰陽師は、シンジを「楽しませている」と確信していた。
実は用意した様々なギミックが、あるみと同じくシンジを「えー加減にせェ!」と叫びたくなるような精神的崖っぷちに追いやっている事になど、まるで気が付かず。

 ……考えていた時には面白いと思ってたのに、こうして書いてみると、ツマランなあ(笑)。



02/06/12(水)

 WOWOW放送を録画して置いた、3回目か4回目の鑑賞だと思う、映画『未来世紀ブラジル』を見る。
 それほど見ているのに、今回も「ああ、こんな事もやってたんだ」という事に新たにいくつか気が付いてしまったぐらい、画面の隅々まで凝り倒している映画。

 元イギリス伝説のグループ、モンティ・パイソンの一員で、『バンデットQ』『バロン』『12モンキーズ』などを撮ったテリー・ギリアムが監督。
 らしいブラック・ユーモアが炸裂しており、この「黒さ」に付いていけない人は…単にシンドイ映画に見えてしまうかも。
 いわば、『空飛ぶモンティ・パイソン』の有名なネタ、「スペイン宗教裁判」の裁判官3人組が人々の生活を見張り 独自の判断で処刑もしている世界。
「バカ歩き省」が異様な程に力を持ってしまった国家の話。

 あ、ええと、主演は『007 トゥモロー・ネバー・ダイ』で悪のマスコミ帝国を牛耳っていたジョナサン・プライス。
 最初見た時には、ロバート・デ・ニーロが出ているとは気が付かなかったり(!)、モンティ・パイソン仲間のマイケル・ペイリンが主人公の友人役で出ているのも分からなかった(映画初見の時点ではモンティ・パイソンという存在をロクに知らなかったのだが)。

 官僚が情報を統制し、お役所仕事が蔓延した世界。
 逮捕状のタイプミスにより「タトル」と間違えられて拘留された、平和な家庭の夫「バトル」。
 残された者が、釈放するよう外から役所に訴えるも、「意見を申請する書類の書式が整っていない」と はねつけられ続け、その内に拷問により「バトル」氏は死亡、遺体はどことも分からない所に処分され、遺族には死亡の事実すら知らされない。
 役所内では、事件をたらい回しにして誰も責任を取らず、しかし誤認逮捕を目撃し、役所を非難し始めた女性を拘留して「情報剥奪(拷問などを使い、大抵 最後には死に至らしめる)」にかける手続きだけは粛々と進行していく。
 実に、ブラック。

 逮捕した人間から情報剥奪する際、機器の使用料から拘留期間の衣食住費まで、逮捕された者が支払わされる…というのがまた…
 実に実に、ブラック(^_^;)

 テーマが古びてないというか、今日でこそ生きるテーマというか。
 「役所に間違いはないよ」と言う、役所から来た床の修理係。
現実日本で、福田官房長官が「役所は悪いコトしないもんだ(だから罰則を作る必要などない)」とか言ってたのを思い出す。
 実際は、床に開いた穴に合わない修理材しか持って来てなかったため修理保留になり、しかもその後は、「どこかの部署でミスがあったため業務を完了できなかった」事実の責任を誰も取らなかったらしく、穴は開いたままで放置される(笑)。
それほどまでに無能・無責任な役所なのだが。

 ええと、ここからはラストのネタをバラしてしまうので、未見の方は読まないで欲しい。



 …いいかな?

 で、この映画はどこからがサムの「夢」になっているのか。
 最初見た時には、剥奪機にかけられて以降がそうだと素直に思っていたけど、もしかしたらもっと全然前、ジルと入ったデパート(?)が爆弾テロに見舞われ、突撃隊員がその辺に居た人間達を片っ端から捕まえて車両で運んでいる際、勝手に動き回るサムの頭に隊員が一撃を喰らわせた、あそこからもう「夢」に入っているのでは?
そのまま剥奪機に運ばれた、と。
 そう考えると、書類が雪のように舞い散る剥奪局内部のファンタジックさや、何故か場所も知らないはずのサムのマンションに現れるジル、いい加減なボタン操作でヘルプマンの部屋まで動いてしまうエレベーター、サムの妄想通りな格好で待っており しかも突然に愛が芽生えているジルの様子、ついさっきサンタの格好をしていたのに次に出てきた時にはスーツ姿のヘルプマン(これは、「剥奪」に長い時間が掛かった、とすれば不思議ではないが)、などなど、にも納得がいく。

 そうなると…
 この抑圧された映画世界の中で、サムとジルは せめて一時(いっとき)でも「愛」を知ったのだ、というのが「救い」になっているのに、実はそんなモノは何も無く、ジルはサムを迷惑な男だ、と思ったままだという事になってしまう。
 そりゃあんまりだ(;´д⊂)。
ブラック過ぎる。
 だからこの考えは却下したい気分。



 何度も見ているのだから、気に入りのシーンだけ跳ばし見をしよう、と思っていたのに、ズルズルと世界に引きずり込まれて最後までマトモに見てしまった。
 それほど、この映画には強い魅力がある。
 とにかく、空間の「広さ」と「狭さ」、「大きさ」と「小ささ」、「美しさ」と「醜さ」などを対にして描き込んでいくセンス素晴らしいの一語。
 未来のような過去のような、近代的なようなレトロなような、世界を飾る様々なギミックへのこだわりも心地よい。


 ここでは確かに天才の輝きを放っているなあ、テリー・ギリアム監督。



02/06/11(火)

 おおおお驚き。
 カウンターが190万を超えている!
凄いなあ。嘘みたい。
 ありがとうございます。
 またボチボチと…ほとんど日記だけですが(汗)更新して参りたいと思いますので、よろしかったら 今後ともご贔屓に。


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『ラーゼフォン』17.「迷宮への帰還」

 ラーゼフォン、東京ジュピターへ帰還。
 クライマックスの一段階前、ぐらいな所で、もっとグワーッと盛り上がって良いはずだが…

 綾人が、そもそもTERRAに所属している自分をどう考えていたのか分からず、「青い血のムーリアンである」と言葉で言われただけで短絡的に基地を飛び出した気持ちも分からない(血の色の確認は、普通 飛び出す前にするよな)。
 ジュピター内に侵入した所で、いきなり病院に入れられている展開の跳び方にも、???
まあ確かに、「病院」は某作品で効果的に使われていたけども。
 久しぶりに会った友達には、本当の事を言うでもなく、混乱させないために積極的に嘘をつくでもない。
 抵抗もなく母親と自宅に帰っておきながら、その青い血にはビビって大騒ぎ(精神支配を解かれたから?)。
 本当、キャラクターが無いなあ。

 立ち読みした「アニメージュ」の監督インタビューで、主人公を「他者に迎合して、積極的にキャラクター性を主張しない」人間にした、と言っていたと思うが、何と言うか大きな勘違いというか、その場合「キャラクターを主張しない」という強烈な「キャラクター性」が必要なのだが。
 碇シンジは、時折 確かにそういう風に描かれていた。
 そうしながらキャラに興味を持ってもらうには、主人公を「短気でケンカっ早く、涙もろくて 女の子にまるで免疫がない」とかいう分かり易い性格に描くよりも、遙かに高度な作劇技術を持っていなければならない。
 「ストーリーの都合に逆らわない」だけ、ってのは単に「キャラが立ってない」と表現されるべき。

 ヴァーミリオンの…どこだか知らないが狭い場所に潜り込んだ遙。
墜落して地面に叩き付けられた時なんか、パイロット席よりも大きな衝撃を受けそうなもんだが。
体、頑丈だねえ(^ ^)。
 ジュピター内 侵入後は、以前の侵攻作戦時とは違って、抵抗がなく迎撃部隊なども出て来ない。
だからといって、その辺の山中に偽装もせずヴァーミリオンを放置して、電車で移動する遙とエルフィの緊張感の無さにはビックリ!
 遙は地上に降ろしたが、ヴァーミリオン・エルフィはラーゼフォン奪回の任務を遂行すべく空から捜査を続けるとか。
いやまあ、そうすると「ムーリアン側も いくら何でもヴァーミリオンにいつまでも自由行動させる訳にはいかないだろう」「敵が数で押してきた場合、全機倒せる程 エルフィ機を強く設定してイイのかどうか」「また、破壊されかかった場合その後の展開をどうすればいいのか」など、お話作りが難しくなるんだけど。
 楽をしている話は、やっぱり「楽してるなあ」としか見えない。


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『あずまんが大王』10.「ドラフト指名」ほか

 大畑清隆による、教室の前でくるりと一回転してみせる ちよちゃんや、ちよちゃんの頭に下敷きを擦りつけ静電気を起こして 髪のウイング(^ ^)を持ち上げる大阪など、ちょっとした動きを付けた演出が そこはかとなく楽しい お話。

 クラス替えを不安がる大阪に、「なれます!また一緒のクラスになれます!」などと、安心させようとする言葉を繰り返し発する ちよちゃん。
 どことなく、単行本最終巻「だめ」「止まらんかった」で、大阪達を安心させるべく「大丈夫です、命かけます!」と叫んでいた様子を思い起こさせた。
 スケジュール的に…アニメの演出が本当に そういったコマを踏まえての事かどうかは分からないが(^ ^)。



02/06/09(日)

 もう都内で上映しているのはココだけじゃないのかなあ…
大泉の映画館で『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦』を見る。

 去年の『オトナ帝国』の完成度に驚いたオレとしては、以前『雲黒斎』で既に描いた時代劇を、もう一度扱う事には疑問を感じていたのだが…
 いやあ、凄い。
とにかく、こりゃあスゴイや。

 よく調べたなあ、戦国合戦の様子を。
歴史マニアの方はどう見るか知らないが…きっちりとした勉強に基づく世界の描き方に、いささかの揺らぎも不確かさも無い事には驚く。
 ハリウッドの、システム化され多額の投資も出来る環境とは違い、監督にかかる下準備の負担が厳しい日本で、ここまで…
 もちろん調べた知識の羅列などではなく、それをベースに、戦国時代に紛れ込んだ現代人・野原一家の気持ちと、逆に死に至るであろう戦を前に 平和な時代からやって来た一家を目の当たりにする侍・お姫様の心、が、丹念に描写出来ている。

 又兵衛と廉姫の、微笑ましくも胸が一杯になる、切ない恋。
身分違いの恋を、子供向けだからと甘くいい加減には描かず、しかし絶望的な距離にも しない、絶妙のバランス感覚。
 だからこそ…(ちょっとネタバレなので以下数行、背景色に変色)
 いや、分かるんだけど。
お話としては もの凄く綺麗にまとまっており、これで100点なんだと思うけど。
 …大勢のオトナな観客に60点ぐらいな採点をされてもイイから、馬鹿な話だったなあ、と言われても構わないから…違う終わり方であって欲しかった。
 と言いたくなるのは、無骨で純粋な「青空侍」又兵衛が、すっかり好きになってしまったから。

 舞台を、歴史に埋もれる程度の埼玉の小城に設定したのがイイ。
タイムトラベルモノを作る時の「旨味」は、超豪華な歴史上の有名人スター・システムが自由に使える事なモノで、織田信長とか秀吉とかと出会わせてしまいたくなりそうだけど。
 それは、野原家の所在地に彼らの領地が存在しなかったからかも知れない…でもまあ、遠征の際にたまたま埼玉に寄っていたとか何とか、無理矢理こじつけは出来るよな。
 戦を重ね、大切な家族を失くし、意に染まぬ政略結婚をさせ続けても、結局はいつか消え去ってしまう自分達一族の定めを知った城主、という辺り、設定の意味が見事に活かされており、泣ける泣ける。

 合戦シーンの迫力とリアリティーは、黒澤映画を入れても なかなか見られない程の高いレベル。
 和製『プライベート・ライアン』かと感じた、「次の瞬間、自分が死んでいるかも知れない」戦場の恐ろしさ。
 避けられぬ敗戦を前にしての城内の様子など、緊張感の出し方も巧い。
 
 そこに、「嘘」である野原一家が混じり込んできて生じるフィクションの面白さ、一家が必死の形相で、馬鹿馬鹿しい戦いを繰り広げる事で起こるカタルシス。
素晴らしい。

 ああ、このぐらいでは全然 誉め足りない。
オレの文章力じゃあ、面白さの10分の1も表現出来ない。
 とにかく騙されたと思って見て欲しい…
と言っても、もう劇場では不可能か……
 ビデオが出たなら、是非。

 DVDを出してくれれば買うのに!


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『おジャ魔女どれみドッカ〜ン!』19.「お父さんは素直になれない!?」

 お話としては…2家庭を一度に扱う意味が余り無いとか、寿司屋はともかく風呂屋の方はオヤジの厳しさも見られなくて娘の苦労が実感出来ないとか、手伝いたいと言いだしたハナ・ももこに得る所があったのかどうかなど、気になる所はあるけど、何しろ「父の日(…は来週だが)スペシャル」にふさわしい、オヤジを喜ばせるツボの突き方が上手い お話。

 「娘より仕事の方が大事なのよね」と感じている娘2人が、暫し与えられた自由時間と、普段の視点とは違う方向から見た父親の姿に、「お父さんは娘には甘いものよ(おんぷ)」「父親ってね、みんなぐらいの年頃の娘と話すのが、照れくさいものなのよ(おんぷ母)」という言葉の意味を実感する。
 この辺、オヤジにはもう涙が止まらない…だろうね(^ ^)。

 銭湯にやってきた小竹のパニくり具合、ナニワの商売人魂を見せる あいこのしたたかさ等、細かい所も楽しい出来。


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『サイボーグ009』33.「結晶時間」

 むー、以前の「意志を持った機械化都市」エピソードの前に、コレを入れて欲しかったなあ。
そうすれば009にとって003はとても大事な存在、というのが より分かり易くなったのに。

 作画が良好!
 お話も、原作から膨らませた爆発事故への対応ジレンマと その解決法など巧い作りで、最後まで画面に見入ってしまった。

 しかしギルモア博士、加速時間で一ヶ月以上も通常時間に戻れなくなる恐れがあるのなら、食事はどうするとか酸素は吸入出来るのかとか問題が大きそうで、「そのうち直るから心配するな」じゃ済まねえだろ!って気も。

 ジョーの手を離れた瞬間に止まる石、足で跳ね上げた位置のまま固まる波、手で触れると燃え上がる紙切れ。
細かく考えると まあ色々だけど(^ ^)、「絵」として感じるSFっぽさが楽しく、それらが「一人きりの009」を より浮き彫りにしていく、見応えのあった一本。



02/06/08(土)

『満月をさがして』10.「芸能界の掟 !?」

 芸能界的「おはようございます」の意味が分からず、無邪気さ故 ベテラン歌手に対して礼儀に適った対応が取れず、接近してくるカメラに驚き、レーザーを必死で避けようとする満月。
今時、小学生でも もうちょっと業界ズレしていると思うが(^ ^)。

 でも、レーザーについては…
スポーツの応援などに一時期 用いられたレーザーペンみたいなモノの光を、直接 目に受けると失明の危険性がある、って話が無かったっけ?
オレも、「電子レンジの光を扉越しにでも見ていると目に有害」なんていう話をこの前まで本気にしていたし、今でもジーッと見続ける事には抵抗を感じてしまう。
 あんまり満月を笑えないや(笑)。

 今回のテーマ。
「心に響く歌を歌いたい」という満月の気持ちも分かるんだけど、「仕事として歌う」演歌歌手の気持ちも、とてもよく分かる。
 一年365日、いつでも「BEST」の状態で仕事をするのは不可能
調子が酷く悪い時でも投げ出さず、必ず「BETTER」な仕事を見せるのがプロだろう。

 満月の歌に、ひたむきだったデビュー当時の気持ちを思い出す演歌歌手。
 逆に、ステージで、演歌歌手が生で歌うのを目の当たりにした満月が、その「プロ」としての凄みに震える、というシーンもあって良かったかなあ。


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『東京ミュウミュウ』10.「最後の仲間、まぼろしの一匹狼」

 オーディションに乱入してきた歩鈴が、火を噴くやらドラを乱れ打ちするやらの狼藉を働くのが楽しかった。
アレだけ頑張ったのだから、変な役にしてでも舞台で使ってやる度量の広さがあってイイんじゃないか監督。
 ざくろが写し出された新聞(だっけな?)のシルエット写真と、旅行に行った際のスナップ写真、ざくろ写真集からの切り抜きを重ね合わせると全部同じ縮尺、ってのはムチャだろう(^ ^)と思うが、歩鈴がやると割と許せてしまうから不思議。

 アクションなどに結構 根性の入った作画が見られた。
このレベルをキープ出来るなら、オタク層 人気も もうちょっと見込めるだろうけど…


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 ハードディスク容量を圧迫する、WOWOWで録画しておいた映画『ワンス・ア・ポン・ア・タイム・イン・アメリカ』の、4時間近くある完全版をようやく消化。
 監督は、『荒野の用心棒』のセルジオ・レオーネ。
 主演はロバート・デ・ニーロ。ジェームズ・ウッズ。

 ギャングものの代表的な一作として よく名前を目にする作品で、ずっと気になっていた。
 見終わって…うーん、うーん、難しいなあ。
 バイオレンスがキツかったり、気持ちは分からんでもないがその生き方はどうだろうか?と思える所もありで、「面白い!」と言うのはためらわれる。
 でも、若い頃の危ない雰囲気、老齢に達してからの何とも言えない味わい、を1人で演じ分けるデ・ニーロは素晴らしく良いし、心に残るシーンがいくつもあって、「つまらない!」と表する気にもなれない。

 色々と仕掛けのある映画で、一度見ただけでは全貌が把握しきれていないのだと思う。
 物語としてもだけど、単にシーンとして、結局 彼は「あんなモノ」に身を投げて自殺したのか?とか、ヌードルスが見せる満面の笑みの意味は?とか。
 何度か見直すと分かる…のかなあ?
でも、とにかく長いから(^ ^)。

 少女時代のデボラを演じる、これがデビュー作となったジェニファー・コネリーがとにかく美しい!
その「掃き溜めに鶴」なイメージには見とれてしまう。
 成長してからの姿を演じた別の女優さんも、ギリギリまあ納得 出来なくもない…程度にはジェニファー・コネリーの雰囲気を残しているのだが…やっぱり美しさの次元が違うなあ。
 彼女のテーマ曲のような「アマポーラ」が、不器用な生き方しか出来なかったヌードルスの悲しさと共に、胸に染みる。



02/06/06(木)

『フィギュア17』「ずっと側にいてくれますか」

 3回前の放送分、相沢翔を失った哀しみに彷徨う つばさ、という、シリーズ中でもかなり重要であろう話の後半部分を、痛恨の録画失敗により見逃してしまった。
ココを見ていないと その後のキャラクター心情が理解出来ないのではないか、と思い、DVDソフトを購入でもして補完し、それから続きを見ようかと考えていたのだが…
 えええ、見てない話のソフト化って、今月の後半なの?
 ……そんなには待てない。
 耐えきれず仕方なく、ここ2週間分を見てしまう。

 あああ、やっぱり よくは分からない(;_;)。
でも全ては自分の責任。
分からない事は分からない事として、諦めつつお話を追う。

 ヒカルの励ましで、何とか立ち直ったかに見えた つばさだが…
翔を失った事で大きくバランスを崩してしまった その心。
つばさは、心の欠損してしまった部分を代わりに「ヒカル」という存在で埋め、元通りの満ちた精神状態になったかのように振る舞っているだけだった。
 ここまで…
ここまでやるか!

 すっかりヒカルに依存し、僅かな間だけでも離れてしまう事を恐れる つばさ。
彼女は、ヒカルが他の男の子達と親しく話をするのに気遣わしげな視線を送り、「取られて」しまうのではないかという不安と、嫉妬…?さえも感じている様子を見せる。
 普通、描かない(描けない)よな、ここまでは。
 キャラクター描写の深さには、驚かされるばかり。

 そういうギリギリ崖っぷちで精神的均衡を保っている つばさだが、頼みのヒカルの身体に異常が…
 どうなるのかなあ?
翔を失った辛い事件にも、きちんと お話として(テーマ上はもう役割を果たしているので)のオトシマエが付けられるのかどうか。

 ところで、「つばさ」が好意を持ったのが「翔」で、彼は大空を「翔(かけ)る」気球に惹かれ、空遠くに去っていった。
今更ながら、色々良く考えてある作品。


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 WOWOWの『13デイズ』を見る。
 監督は、面白い所もあったけども全体的には…な『スピーシーズ 種の起源』、これまた火山噴火の所は面白かったが他は…の『ダンテズ・ピーク 』を撮った、ロジャー・ドナルドソン。
 主演はケビン・コスナー。

 お話は、キューバ危機を扱ったモノ。
 いやあ、結構面白かった。

 確かに、酷く一面的な見方をした作品ではある。
平和を愛する正義のアメリカに対し、汚いソ連はコソコソとキューバに核ミサイルを持ち込んで、先制攻撃を狙う。
正しく賢明なケネディー大統領と、ケビン・コスナー扮するケネス・オドネル大統領特別補佐官は、悩み、苦しみながらも、どこまでも平和への道を希求する。
 悪の帝国然としてのみ描かれるソ連もナニだけど、その末端器官として主権もヘッタクレもない、上空を偵察飛行する米軍機を撃墜する人間が居るだけの土地にされているキューバもヒドイ扱い
国として上映禁止 措置じゃないかなあ、この映画。

 でもまあ、「史実モノ」としての限界があるとはいえ、危機また危機、内外に存在する様々な問題を、知恵と勇気で「割と何となく」(笑)乗り越えていく お話は、そこそこに緊迫感を孕みつつ推移し、飽きさせない。
 特に、オレがキューバ危機について全然詳しくない事もあって、見て何の益も無かった『アポロ13』よりは楽しく見られた事だ。


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 あああ、終わっちゃった。
漫画『あずまんが大王』、4巻目を読む。

 笑った笑った、というのはいつもの事だけど、「ヤママヤ」には「おおおっ!」と驚かされ、自由登校期間、ちよ宅に集まってくる仲間達に軽くのすたるじーを感じ…そして、卒業、の話にホロホロ泣かされてしまった。
 4コマの形を取りながら、連続モノとしての積み重ねが生きている物語。
スゴイや。

 単行本を読み終わるのが辛かった。
この「別れ」を見た後では、まだまだ続くアニメ版を見る目も変わってしまうかも。
 面白い漫画を読ませて頂いた。
ありがとうございました。



02/06/05(水)

『天地無用!GXP』10.「洗礼」

 この作品で初めての、シリアスな海賊との戦闘が描かれた。

 いやあ、しかし、光学迷彩に身を包み音もなく忍び寄っては海賊を血の海に沈める霧恋が、体一面に返り血を浴びた格好で、きちんと「怖く」描かれているのに驚く。
 「死神」霧恋の、恐るべき殺人技能の優秀さ。
普段のお姉さんぶりからは想像も付かない。
 作品テイストに従うと、もうちょっとギャグっぽい処理で終わらせそうなモノで。
そのギャップが、確かに衝撃的であったのだが。

 そういう彼女を目の当たりにして、衝撃の余り身動きも出来なくなってしまう西南。
 霧恋の この姿が、のほほんとしてばかり居るように見えたGPの実体なのだろうか?
なら、彼女が西南の入隊に、あくまで反対した理由も分かる。
 また、幼い頃からよく知っており、自分に好意を抱いてくれている事も感じていた西南に、同じGPに所属し続ける限り いつかは「死神」姿を見られてしまうだろう事も、彼女にしてみれば耐え難い苦痛であったろう。

 そういう姿を晒しても自分を助けに来てくれた事には感謝しているのに、同時に恐怖をすら感じてしまった自分を情けなく思い、「強くなりたい」とボロボロ涙をこぼす西南。
 うむ、主人公だ(^ ^)。
男の子は こうでなくっちゃ。


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 えーと、確かパーフェクTVの局で放送していた、OVA『超人ロック・ロードレオン』を見る。
 …というか、オープニング後10分ぐらいはマトモに見たと思うが…
作画も演出も お金を取れるレベルに達していない典型的なダメOVAで、原作を読んでいて先の展開が分かっている事もあり、早々に挫折。
 ま、もう13年ぐらい昔の作品らしいから。今更だな。



02/06/04(火)

『あずまんが大王』09.「触れないなら」

 アニメの『うる星やつら』について…ええと、監督だった押井 守本人がだっけな?
「漫画だとラムが あたるに電撃を喰らわせた所でシーンが終わり、乾いた感じが出る。しかしアニメの場合、電撃の後に、『溜息をつくラム』というカットを入れる事で漫画とは全然印象が違う、ウエットな感じになってしまう」
というような事を語っていた。

 で、今回メインに据えられたキャラクター、榊。
 漫画だと、猫など可愛い物が好きなのに逃げられたり噛まれたりのカワイソーな子だなあ、という位の印象に留まるが、アニメになり、猫に逃げられた後の哀しげな視線、可愛いモノに触れない定めを負った自分の手の平をじっと見つめる様子、まで描いてしまうと…
「可哀想」という所まで、気持ちが行ってしまう。

 自分自身の体が大きく、可愛い、というイメージから遠い事を酷く気にしており(恐らくは、幼少時から彼女を表すに「可愛い」という表現が使われていない)、それが「カッコイイより、可愛いの方が、その……強いという言葉に表れている。
 自分が可愛くなれないなら、せめて可愛いモノを集めたい、可愛いモノの近くに居たい、という気持ちが強いんだろうなあ。

 などと勝手な解釈をしていると、何だか切ない。
 そういう印象の付加はキャラクターの価値評価について、マイナスにならず、プラスに働いていると思う。
 でも、可愛いよね、榊(^ ^)。


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『ラーゼフォン』16.「他人の島」

 うううー…
もう言うだけ馬鹿馬鹿しいので某アニメとの類似点を語るのは止めて、と。

 翌日の告白を控えて、勝負下着など買い出しに行った帰り、たまたまキム&八雲がベタベタと話をしている車内に同乗、ショックを受ける恵。
 …だーかーらぁー
「たまたま」パターンは前々回、さんざん やっただろうに。
いくら便利でも(便利すぎるからこそ)、何度も使っちゃイカン。
 キムもキムで、友達が告白をし、玉砕をする運命が翌日に迫っており、しかもその原因は自分の存在にあるのだから、もうちょっとそれを引いた感情表現をしても良さそうなもんだが…あんな明け透けに幸せそうに八雲とベタついておいて、翌日ボロボロ泣いて恵に詫びてくれても、全然 誠意(友情)が感じられない
いっそ「何が悪いってのよ?」という態度を見せてくれた方がいいぐらい。
 キャラの薄っぺらさが何とも。

 2人の人間が言葉を交わすが、互いに相手の言には注意を払わず、喋りたい事だけ喋っている、というシーンも…
ギャグとして使うならともかく、通常、1話一回ぐらいに止めておくのが吉。
 余り何度も繰り返すと、キャラそれぞれの考えが食い違って(無視し合って)いるというより、キャラを殺してでも演出技法に走ったな、という印象しか残さない。

 前々回、疑問もなくラーゼフォンに乗って戦ったというのに、今回は落ち込んだり不満タラタラだったりと、気持ちが理解出来ない綾人。
またその心情が、前回一回、彼と全く関係ない(彼が出てさえいない)話を挟んだ事で、より理解し辛くなってしまっている。
 恵と背中越しに、互いに全く違う問題について、噛み合っているような噛み合ってないような会話を交わす辺りも、何だかギャグみたいでねえ。

 ラーゼフォン乗り逃げにしたって、組織として綾人を、冷遇する事はあっても厚遇する事はなく、ラーゼフォン機体が厳重な管理下に置かれていたとも思えず、「ムーリアンである」事が分かっていたにしては余りにも対応が間抜け。
持って行かれて当然だろう。

 「謎」で誤魔化していた人間関係も、整理がつき始めてみれば存外に安っぽく感じられてしまった。
 うーん…



02/06/03(月)

 サッカーに全然詳しくないんでナニだけど。
 ワールドカップ、ずいぶんとチケットが無駄な事になってるみたいだなあ。
それに対して、全く責任を取ろうとしない責任者達の言葉がまた、腹が立つ。

 FIFAって何なの?
ワールドカップを始めたのがこの人達なのかも知れないけど、最初に始めた人が未来永劫権利を握ったままいるべきだ、って事でもないだろ。
 こんな無能集団からは、実行に関する権利を取り上げてしまえばいいのでは。
もしくは、全く新しく世界的サッカー大会を開催するとか。
で、その運営をどこか有能な企業に任せるなり、参加各国から代表を出して新たな実行組織を作るなりすれば。
 コミケにおける米沢代表とは違って、「彼がやらないと誰もやらない」「彼でないと出来ない」ってモノじゃないような気が。
 オリンピックのサマランチ一派もそうだよなあ。
 日本の、オリンピック代表を選出する委員会もね。

 まあ、いいんだけど。
スタジアムに赴くどころか、サッカーのテレビ中継すら見ていないオレがどうこう言う問題じゃないか(笑)。


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 WOWOWで映画『シャフト』を見る。
 ええと、監督はジョン・シングルトンという人らしいが、知らない。
 主演がサミュエル・L・ジャクソン 。

 公開時の予告で見られた格好良い映像とテーマソングから、胸のすくアクション・ヒーロー物になっているのでは?とか思って見たが、出来は…うーむ。

 主人公シャフト、「刑事」という立場でありながら、余りにも常識外れの(かといって痛快ではない)行動が多く、見てて馬鹿馬鹿しくなってしまう。
こんな「何してもイイ」世界なら主人公、悪い奴を見つけた瞬間に撃ち殺して回れば面倒無いのでは?と思えて。

 馬鹿馬鹿しい主役と敵対するに値する、強烈な悪役が存在すれば、それでもバランスが取れたのかも知れないが…
人種偏見を持つ大金持ちの息子が物語上「敵」であったはずなのに、途中から街の顔役である男を参入させ中途半端に描いた事で、どちらもキャラクターが薄くなってしまっており、何とも。
 ドラ息子はクライマックスに登場すらしない扱いだし、顔役はまたバカの上にえらくセコいスケールの奴だったりして、「無敵主人公」がそんな程度のモノと戦ってくれても ちーとも嬉しくない。

 格好良かったのはオープニングだけ。
時間の無駄をした。


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 昨日書いた『009』感想に追加。

 メカ・ギルモア博士の正体とか、004にロボット004をぶつけて来た目的とかがよく分からない、と思っていたが…

 ギルモア博士って、今でこそ好々爺 然としているが、元々はブラックゴーストでバリバリ人体改造など行い強力な兵器を作り出すためなら手段を選ばない、正しいマッド・サイエンティストだったはず。
 が…彼はどこかで「人間」である自分に目覚め、009達を連れて脱走に及んだ訳だ。

 その時、ブラックゴーストに捨ててきたマッド・サイエンティストとしての自分の半身が、今回のメカ・ギルモアという形で現れた、って理解はどうか。
 「感情」「人間性」などという不合理な要素を排除し、効率のみを優先して彼が作り上げた「完成された兵器」の姿がロボット004。

 またそれとは別に、004側の心理として。
 ハインリヒは、他のサイボーグ達よりもっと、外見からさえすぐに分かるため、自分が既に生身ではなく機械仕掛けである、という事を常に意識しながら生きねばならない宿命を背負っている。
 その事から、心の表面には浮かび上がってこなくても、深層心理では仲間内で最もギルモア博士に抵抗を、反発を、もしかすると憎しみさえ感じていた可能性が。
 そんな彼の心の底にある「黒い」ギルモアの具現化が、今回登場したメカ・ギルモア博士。
博士を疑う心の象徴が、人間である自分を完全に「殺して」しまったロボット004。
 単なる機械人形に変わった自分自身を倒し、「黒い」ギルモアを、「博士がこんな事をするはずがない」という言葉と共に撃ち倒す事が出来た時、彼は初めて博士に感じ続けていた わだかまりを乗り越える事が出来たのかも知れない。

 あるいは今回のお話は、現実には存在せず、004の心の中でだけ起こった事なのかも……にしては傷だらけでカフェに現れていたから、そうじゃないんだろうけど(^ ^)。
 と、いうような事を考えて見ると、ラストで無闇に人間くさい、情けないとさえ言える姿を晒す「人間」ギルモア博士に、珍しく大口を開けた笑顔を見せる004が染みてくるような。



02/06/02(日)

『仮面ライダー龍騎』18.

 昔懐かしい問題作『超光戦士シャンゼリオン』の主人公が、脱獄ライダーとして登場。
能天気バカな かつてのキャラクターとはまるで違う表情を見せ、役者としての懐の深さを窺わせてくれる。

 いやしかし、短絡的で凶暴なこの脱獄犯(暴力を振るう様子なんか、子供は怖がると思うなあ)や、悪辣な社長子息ハッカーお兄ちゃんなど、より悪い奴らが出てきたためか、悪徳弁護士など全然マトモな人間に思えてきた。

 主人公側にくっついた占い師ライダーも、単に平和主義者で「戦いを止めたい」と思っているのではなく、「自分の占い通りだと自身も死ぬ運命にあるから」というのが大きな動機のようで、内心に怖いモノを含んでいるかも、だし…
 いやいや、一筋縄でいかないキャラクターが揃ってきて、面白くなるばかり。
スゴイや。


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『サイボーグ009』32.「機々械々」

 年輩者には懐かしい名前の、芦田 豊雄がコンテと作画監督を手掛けた話。
脚本の「江古田豊」も芦田 豊雄らしいから、1人三役か。
 この方、超が付くベテランで、『宇宙戦艦ヤマト』第一作TVシリーズの作監から(もっと古くからやってるけど)、『銀河漂流バイファム』『超力ロボ・ガラット』『魔神英雄伝ワタル』などなど多くの作品でキャラクターデザイン・作画監督を務め、駄作で有名な85年版『吸血鬼ハンターD』では監督、涙が出る程ヒドイ作品だった『AMON デビルマン黙示録』を監修。

 作画はともかく、それ以外の分野の仕事では出来不出来の差がかなり激しい方なので、不安を持ちつつ見ると…
 ああ、なんだ、結構イイじゃないか。
 個人的に作品中で一番好きなキャラである004がメインに据えられている事、「人間」と「機械(兵器)」の間で揺れ動く心情を追っていった事などが、ポイント高い。

 「正確な射撃だ、それゆえコンピューターには予想しやすい」(『機動戦士ガンダム』ランバ・ラル)というように、004の攻撃を事前に全て予想して行動してくるロボット004。
 その裏をかいたのは…
床に落ちていく、フクロウの卵が入った巣を、我を忘れて受け止めた行動。
あくまで「サイボーグ」であり、人間としての「優しさ」を持ち続けた004の「心」。
 戦闘ロボットには理解出来ない、自分の命よりも大事なものがある、という考え方。
「だが我々は愛のため、戦い忘れた人のため」戦い続けるサイボーグ戦士達の生き方そのものが 勝利に繋がっていく構成。
見事(原作通り?)。
 何度も、シミュレートした幻の動きを追い、自分の計算の何が間違っていたのか理解出来ない様子を見せるロボット004の姿に、カタルシスが倍加する。

 欲を言えば…
その後の、本物・ニセモノが互いにジャンプをしながらマイクロミサイルを撃ち合う所。
ここでもう一度、ロボットは004の跳躍限界高度にミサイルを撃ち込んだ、が、004の怒りと、挫けない人間の「心」が、スペックを越える力を発揮させ(それこそが「サイボーグ」であり続ける彼らの強さ)、それより高く跳んだので攻撃は外れた、という事を理解させる演出があると、更に気持ち良かったかな。

 戦闘中に首がクルクル回るロボ004など馬鹿馬鹿しいとも思えるシーンがシリアスなドラマ中に混じったり、ラスト、カフェに歩いてくるシーンがやたらに長いとか、ギルモア博士をからかったコミカルなシーンでテンポが悪く ダレてしまう、等々、問題もあったが…
 押井作品『攻殻機動隊』での、「自分とは、どこまでが自分なのか」「既に自分は『機械』ではないのか」という哲学的なテーマまでは行かない「人間である事の弱さと強さ」「人であり続ける誇り」を力強く肯定してくれる。
少し前に描かれた作品である『009』を、今、もう一度 作る意味を感じ取れる、意義のある話だった。



2002/06/01(土)

『ウルトラマンコスモス』48.「ワロガ逆襲」

 うーん、惜しいなあ。
もうちょっと、ストーリー面で整理が付いていれば「傑作!」にも化けた可能性がある話だったのに。

 EYESと防衛軍との共同作戦に主眼を置きたいのなら、まずその葛藤を描くべき。
共同戦線を張る前に乗り越えるべき壁が見えず、盛り上がれない。
 死の直前まで追い込まれるムサシ=コスモス。
恐怖を乗り越えて もう一度 戦場に立つヒーロー、という事だったんだろうけど…
まず大怪我を負う所が情けない。
子供を庇って、とか、突出しすぎた防衛軍を庇って大怪我を負い、それがEYES・防衛軍の(今回の)相克原因になるとか、いくらでも やりようがあったのでは?
自分の死体(?)を目にする辺りも、それが事実だったのか悪夢だったのかよく分からないし。

 やたらテンションが高い戦車隊お兄ちゃんの熱演は良かったが…
戦車が破壊された所から、エンジン再起動・大活躍までに中途半端に間が空いてしまい、イマイチ。
 だいたい戦車の砲撃なんか全然効き目がない相手だったのだから、元気に走り回らせるより、半壊した車体のエネルギーを集めて放った最後の一撃が、対コスモス戦に集中していたワロガの弱点を貫いて…とかいう見せ方にした方が生きたかと。

 そもそも、ワロガって何しに来たの?
病院を壊しに?

 うーーーーん、惜しい。
頑張ってたと思うんだけど、色々な所に力が入り過ぎたり逆に力足らずだったりで、結果的には暴投気味の一球になってしまった。


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『東京ミュウミュウ』09.「愛しのお兄様、思い出は写真の中ににゃん」

 実はブラコンであった みんとのお話。
 好みの題材だったので、もうチョイ押し込んでくれれば泣けたりしたのかも知れないが…

 幼い頃は仲が良かったのに、成長するに従って疎遠になってしまった兄妹。
恐らくは、大実業家(?)の長男である事に伴う責務と過剰な責任感が、日々を楽しく過ごす事を敬遠させているのだろうけど、ココ、もうちょっとはっきり原因を描き、「実は全て妹のためだった(仕事は自分が継ぐから、みんとには自由にバレエをさせて上げて欲しい、など)」という辺りに持って行けると良かったかなあ。
 現れたモンスター。
妹の前に立ちはだかって庇う兄。
ここではやっぱり、視聴対象年齢も考えれば「ぼくの大事な妹に手を出すな!」と、はっきり気持ちを言葉にした方が。

 見せ場な、幼少時の回想から引いている「花束を妹に渡す兄」のシーンも、演出にメリハリが無く盛り上がらない。
フラッシュバックなど使い、もっと あざとく(^ ^)やって欲しかった。


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 発売中の「アワーズ」7月号に載っている『コミックマスターJ』

 面白いのはいつもの事なんだけど、今回は、「漫画表現に対する規制」という余りにもタイムリーなネタ。
 基本的にはギャグな内容の漫画だが、真っ先に規制の網が掛けられるであろう当事者であるが故、今回はさすがに笑えないと言うか手に汗握ってしまった、と言うか(^_^;)。

 規制のために失業するエロ漫画家が激増、という所でのナレーション。
「漫画家などというドグサレ人生を歩んできた者達に再就職の道など残されていないのだっ!
……壮絶に実感的であり、納得 出来過ぎて、チワワのように震えながら泣きそうになってしまう。

 次回に続くようなので、基本的に単行本でしか読んでなかったんだけど、こればっかりはネタの完結まで雑誌で読む事にしよう。


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 テレビで放送されたものを録画しておいた、映画『サトラレ』を見る。
 監督は『踊る大捜査線』の本広克行。
 主演は安藤政信と鈴木京香。

 サトラレ、という、自分の考えを周囲の人間に無意識に伝えてしまう超能力者が存在する異世界。
その能力者は、世の中に大きな進展をもたらす程の天才的な知能をも同時に持っており、しかし自身が「サトラレ」である事を知ってしまうと自我崩壊に陥る危険性があるため、四六時中、極秘に警備が付き、彼をガードしていた。
 そこに、鈴木京香が扮する、自衛隊医官で精神科医の女性がやって来て…

 うん、面白い映画。
 とにかく「サトラレ」という存在が無理のカタマリで、映画開始当初は「何だそりゃ?」という気持ちになってしまい、物語に入り込む事に抵抗がある。
 そこを、細かな描写の積み重ねと、特に「笑い」を混ぜる事で客に「アリ」にさせてしまう手腕が見事。

 主人公と精神科医、主人公と祖母、と、題材が途中で別れてしまっている気もするが…
聞いた所では、2編の原作をまとめて映画にしているそうだ。

 文句を言えば…サトラレ青年が余りにもピュアすぎるとか、普段考えている事が少なすぎとか。
日常の迷惑さが もっと顕著な方が良かったなあ。
 手術の際に発生した「助けたい!」という強い気持ち、胸を熱くさせる「愛情」。
これらが、パターンだけども、足は治っているはずなのに車椅子から立ち上がる事が出来ない少女や、全然真面目に回復しようという気持ちが無い不良入院患者達に、生きる「気力」を与えていく、という構成も加えると、更に「泣き」が強化 出来たような(何となく、それらしい事はやってるんだけど)。
 コレをハッキリさせれば、主人公に手術して欲しいと望む病人達が押し寄せてくるラストに、もっと説得力が出たかと。

 まーとにかく、細かい事はおいといて強引にでも笑わせ、泣かせてくれた。
『踊る…』もそうだったが、見終わって、入場料やら時間を無駄にした、とは客に決して思わせないサービス精神が素晴らしい!
 本広監督は、日本映画界には珍しい、エンターテインメントが撮れる監督だよなあ。



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