ときどき日記 03/02(後)

2003年2月28日 金曜日

『魔法遣いに大切なこと』08.「恋のバカヂカラ」

 うーん、「唐突」、全部これ。
 電話中に倒れるアンジェラが「唐突」だし、前置きもなく始まる恋の告白なんかどうしようもなく「唐突」、そしてひん曲げられる東京タワーに至っては「唐突」に過ぎて笑ってしまう。
 だから、徹底してクサす事も出来るけど…自分が見る前に、リアルタイムで見ていた友人から「今回はスゲエぞ!」とさんざ聞かされていたため、心の準備が出来ており、実際の所ショックは少なかった。

 構成が巧くないのが敗因かなあ。
 研修生・井上へと寄せる、アンジェラの感情のクライマックスが今回描かれた訳だから、前回、彼の初登場時点でもう少し伏線めいたモノを用意しておくべきだった。
我が身を省みず、子供を助けに車の前に飛び込んでいく勇気に心を強く動かされる、とか。
 今回だけにしても、冒頭に1分間程度、3人で会ったり話したりしていた数日・数週間の時間経過をダイジェストでパッパッと見せ、アンジェラの心に恋の感情が育っていく様をギリギリ分かってもらう事は可能だったかと。
エレベーター前で倒れるのも、ユメではなくアンジェラに置き換え、自分を抱きかかえてくれ世話を焼いてくれる井上へのリアクションを見せられれば、後半の「唐突」感はだいぶ和らぐと思う。

 ただ、今回は、描けているものがあるんだよね。
 それは、「恋の狂気」とでもいうようなもの。
自分の感情を制御して生きてきた『スタートレック』ヴァルカン人のようなアンジェラが(いや、「涙もろい」って性格だっけ…それは無い方が良かったなあ)、初めて「恋」「恋だと自分では思い込んでいる手前勝手な感情」に心を動かされ、戸惑い、不安定になってグラグラした状態から心が坂道を転げ落ちるようにスピードを増し、暴走を始めてどうにも出来なくなってしまう。
 なんて言うかなあ、聞こえは悪いけどストーカーの心理というか、片思いしてる女の子の名前を 机を並べて校庭に大きく書いたらオレの事振り向いて気持ちに応えてくれるんじゃないか、というバカな高校生のような勝手な思いこみ。
もっと近いのは、「私のこと、好きだって言ってくれないなら死にます」か(笑)。
 相手にしてみたら ただ迷惑なだけの気持ちの押しつけ、「狂気」、そういうものは感じ取れた。

 非常に残念なのは、アンジェラのキャラクターに積み重ねが弱いため、強く抑制されている彼女の心の壁が破れて暴走してしまう瞬間を、一種の「カタルシス」と取ってもらい辛い事。
心の動きが伝わってこないので、「やっちゃったなあ、アンジェラ」ではなく、「何してんだこのアニメの制作者は」と、引いた視点で見られてしまう。

 井上とアンジェラの、
「魔法が下手なのは自分自身の問題で」
「でも、いい所もある」
「そんなの、ありますかね?」
「優しい所とか」
(ちょい略)
「問題から逃げてしまうし」
「いつかは逃げなくなる」
「オレに付いて来いってタイプじゃないし」
「じゃあ付いて行ったらいい」
「そりゃ、しっかり者で魔法も上手、なんて人がいればね」
「居るじゃない、ここに!」
という辺りの、セリフの応酬でアンジェラの気持ちが高揚していく様子とか、大変に良く描けている。
 ここをクライマックスに、ボロボロ泣かせられる話に、十分出来たと思うが。

 鬱屈した井上の気持ち。
魔法遣いを目指しながら、魔法が巧く遣えない彼のコンプレックスを、感情の暴走で通常能力を遙かに超える力を発揮してしまった(心を受け止めてもらい、多少冷静になった彼女はタワーを元に戻せなくなる)アンジェラと対比しながら、「魔法遣いに大切なことは人を想う心のエネルギー。自分には何も出来ないと思っている限り、本当に何もする事は出来ない」という方向に持って行く事も可能だったかと。
 …ただ、「狂気」でのパワーアップを肯定的に捉えて良いのかどうか、って問題はあるか。

 描きたかったのは、前述の告白会話劇とか、折れ曲がった東京タワーという「絵」の上での告白への回答、そういうものだったんだと思う。
 普通は、描きたいモノだけ描いちゃダメで、そこに向けて伏線を引いたり様々な描写を積み重ねたりするものなんだけど…どうもこの制作者はそういうのが苦手らしい。
 ただ、何度でも言うけど、「狂気」「熱狂」そういうものが描けたのは大したものだと思う。
これは、資質として「描ける人」と「描けない人」が居て、物語のバランスを気にしたりするタイプ(オレもそう)にはなかなか到達出来ない境地なんだよね。
 だから本当に惜しい。
その「狂気」に巧く視聴者を巻き込めれば、記憶に残る素晴らしい話にも出来たと思うのに。



『ガンパレード・マーチ 〜新たなる行軍歌〜』04.「二人でお茶を− Duelist −」

 これ、ゲームとはかなり違う世界観なんだろうか?
キャラの性格付けが違うのはまあ良いとして、どうも世界は破滅にも、酷い戦乱状態にさえ瀕していないようで、どこでも割とのんきな生活が見られている。
 シリアスな物語として捉える必要はない、って事?
前回、戦闘中に出た死者の事が語られたけど、アレは「クラブ活動中の不幸な事故」ぐらいに考えれば良いの?
 確かに、ゲームでも、「戦闘」と「学園生活」がかけ離れた、互いにほとんど関係ないと言ってもいい世界を成していたけど…
それをそのままアニメにされても、戸惑ってしまう。
 このアニメで初めて『ガンパレード』世界に触れる人達は、もっとよく分からないんじゃないだろうか。

 速水が…「ぽややん」と言うよりも「無能」寄りに描かれているけど、これはコレでイイのかな?
 個人で戦いに出て行って生き残ってきたはずなのに、複座型になった途端にコケた状態から起き上がれなくなり、シミュレーション上でのミサイル発射に拒否反応を示す。
 んー、「あの状況ではミサイルを撃たないのが正解」というフォローも無いため、本当にただただ速水のヘタレさが悪いように見えてしまう…
「どちらの行動にも理がある」ぐらいに描いて欲しいような。
 舞の苛立ちばかりがよく分かる、まるっきり彼女寄りの視点で見ていてオッケーなのかね?

 ちょっとコミカルな日常の様子も楽しいし、決して悪くない。
もう一歩二歩、踏み込んでくれるとガーンと面白くなりそうに思うな。


2003年2月27日 木曜日

『出撃!マシンロボレスキュー』08.「激突!ジェット対ステルス」

 雪山で遭難した人々を救助に赴き、要救助者を挟んで、太陽とジェイ、ジェットロボとステルスロボの戦いが繰り広げられる。

 うーーん、やっぱり「救助活動」と「ロボットバトル」がまるっきり乖離してしまってるなあ…
高い山に降り立った太陽へと、体に無理がかかるため行動にはタイムリミットがある旨が告げられ、緊張感のある「時間との戦い」が展開していくモノかと思っている所に…薄着で平然とジェイが現れるのには、何だか笑ってしまった。
ブチ壊しだあぁ。
 「瀕死の遭難者」「太陽とジェイの生身の戦い」「雲の上でのロボット同士によるバトル」が、もう一つテンションを上げきれない演出も相まって、相乗効果ではなく相殺効果を発揮してしまい、感情を入れられない。
 戦いが始まってから後は、生存に厳しい環境を舞台にしている事など忘れ去っていたようだし。

 もうちょっと整理して…
 敵を「雪嵐発生ロボ」にでも設定し、ロボットを倒す事がそのまま遭難事件の状況改善に繋がる構造にするとか。
 あるいは、敵ロボットの猛攻により、ゾーンを展開する事も出来ず地上での戦いを強いられるジェットロボ。
その様子を背景として、少年二人のぶつかり合いをメインに描き(遭難者は搬出済みの方がいいな)、衝撃で崖が崩れ、酸素マスクを無くし、指令を送るコントローラーを弾き飛ばされ、ビームの熱で起きた雪崩に二人とも巻き込まれ、と、次々にケンカ(笑)の有利・不利、戦況が変わっていく様を迫力で押し切って描くとか。

 敵側、ジェイの命でさえも失いたくない!という太陽の心意気はなかなか結構。
でも…そうすると、一応は思考するA.I.を備えているらしい敵のロボットを破壊する事には抵抗を感じていない様子を、矛盾とも思ってしまう。
ロボットに人権なんか無いから…にしては、ジェット達の事は友達以上に考えているようだし。
 まあ、この辺はスポンサーとの兼ね合いの問題で、制作者にも如何ともし難い部分ではあるのだろうが。



 来た来た、今年もきっちり来た、花粉症が(;´д⊂)。
2月の頭から、ちらちらと兆候は出ていたんだけど。
 目が痒くて鼻水が止まらずくしゃみを連発。
仕事にならないので薬を飲むと、今度は眠くて起きていられない。
 ううう〜、甜茶をゴボゴボ飲んでるのになあ。
ヨーグルトも食べてるし。
ストレスと生活の不規則さは…まあどうしようもないとして。
 なかなか、簡単には治らないもんだね。

 あー、医者行って薬もらってくるかな。
コレさえ無きゃ、春の訪れにもっと心がウキウキするだろうに。
 同病の方、今年も何とか頑張って乗り切りましょう。


2003年2月26日 水曜日

 OVAの『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』を、2巻、4話まで見る。

 特に2話までは作画のクオリティーが映画並みに高く、それだけでも見応えがある(3、4話も悪い訳ではないけど、少々落ちるので)。
 えーと、1話目は本当に士郎 正宗調。
何だか分かり辛い所とか(笑)。
 でも、2話目はずいぶんと分かり易くなり、3話目は…士郎ワールドからは外れた、割にアリガチな内容になっているように思えた。
4話目は、3巻に続く内容なのでまだ何とも言えない。

 1巻目の巻末インタビューで、監督が「情報量を多くしようと心懸けた」と言っていたけども…
 確かに、士郎 正宗先生を先生たらしめている要因の一つは、物語・画面内に過剰に詰め込まれた情報量にある。
そらもう、ざっと読んだだけではとても理解出来ない、というか、一生懸命読み返しても理解しきれないぐらいで。
 それは、作者がこれまでに収集・学習してきた多岐に渡る膨大な知識を作品内に入れようとするために起きている事。
恐らくは、1作品内に通常入る情報量を100とするなら、本当は500ぐらい入れたいんじゃないかと思う。
でも、さすがにそれは無理なんで、あちこち切り落としダウンサイジングして、200ぐらいにしたモノが現存している作品群なのでは。
 それに対し、出来る限り情報を詰め込む事により何とか200にまで上げた、というのがアニメ。

 「切り落として200」「努力して増やして200」とでは、同じ情報過多でも出来上がる作品は全然違ってくる。
 背景を成している過剰情報を読み解く高揚感はないのに、物語のクライマックスとしてのカタルシスが原作同様に弱いのが、見終わっての満足感を薄くしている理由かな。
 と言っても、アニメスタッフの才能に不足がある訳ではない。
強烈な個性を持つ、天才的な作者の作品を映像化するのは、誰がやっても難しい、というだけの事。

 テレビシリーズとしては非常に出来が良い作品だと思う。
第3話の、ヒネったオチにも感心したし。
 原作者自身が手掛けたOVA『ブラックマジックM(マリオ)-66』以外には、士郎 正宗世界に迫る形での映像化作品は無い(押井版『攻殻』も全然別物だし)…というか、原作のプレッシャーに負けてなのかどうか作られるのは駄作ばかりな中、頑張った内容であるのは確か。
 見て、損は無い。
 取りあえず、完結まで見続けるかな。



『キディ・グレイド』18.「Phantasm/Reborn」18.「Unmasked/Face」

 未だに先が読めない、という点では面白いと言えるけど、ちょっと情報提示のコントロールが出来ていない印象で、見ていて混乱させられる。

 エクレール・リュミエールのコンビだけで、
・局長と補佐(?)になっている二人
・量産型になっている各六人、計十二人
・バイクスーツで現れるオリジナルのようでいながら姿形が違う二人
と、3種出ており、しかも量産型のうち2人だけはオリジナルに近いパーソナリティーを取り戻しつつある兆候が見え、混乱に拍車。
 視点として、「局長になっている(洗脳された・乗っ取られた)2人に、早く元に戻って欲しい」という希望を込めて見ていれば良いのか、「量産型の中から、元の個性を受け継いだ新しい2人が誕生していくのを見守る」のが正しいのか、しばらくの間 分からない。
結局は2つとも違い、17話の最後に現れたバイクスーツの2人が本物…なんだと思うけど。

 疑問点が多すぎるのも難。
 何故ニセモノはエクレール達の姿を模しているのか?
彼女達はノーブルズに対して反抗的な態度を取っていた訳で、どう考えても通常、局長にはなれないはず。そんな姿に化けてもメリットは無さそう。
上司であるノーブルズが何らかの計画に基づいて人事を行った、とするなら、何もエクレール達の姿にならなくても良いようなモノだし。
 量産型は、何?
その中で2人だけに人格らしきモノが生まれた理由は?
 バイクスーツの2人は、何のために式典に現れたの?
危険を冒して現れる意味は、特に無いように思うが。
 これら疑問に対し、キレイに(出来るだけ、ダーッと長いセリフによるものではなく)回答は示されるのだろうか。

 非常に高レベルな作画を保ってきたこのアニメだが、今回は少々残念な所も見受けられた(酷い、という程ではない)。
次回も2話連続放送するようだけど…現場の負担が心配。
 ここから、物語をどうまとめて、あるいはハジケさせて行くかで評価が決まる。
何のかんの言いながら期待している作品なので、頑張って欲しいなあ。



『ぷちぷり*ユーシィ』21.「全員集合!心をつなぐ歌声」

 全員の個性をよく活かした話。
 ぶつかり合い、バラバラになった心が、ユーシィ(と、ココルー)の懸命な努力によって一つになる とてもキレイなお話で、ラストに歌われる今回の内容をそのまま詩にしたような全員の歌唱も含め、胸に染みる。

 失意の余り心にもない言葉を発するユーシィに、本心を自覚させる 父親の言葉が巧いなあ。
 ゲーム『プリンセス・メーカー』を基にしているだけあって、このアニメでは「娘と父親」の関係を大きなテーマとして描いている。
トシなもんで、歌唱発表会場で見られた娘達の立派な姿に、恥も外聞もなくオイオイ泣いているオヤジ達を、笑うどころかすっかり感情移入して見ていたり(笑)。


2003年2月24日 月曜日

『明日のナージャ』04.「舞姫ナージャとミイラ博士」

 ミイラ博士と名付けられてしまうメガネお兄ちゃんと、ナージャがほのかに仲良くなる話。
 …これ、ここで入れなきゃならない内容かなあ?
 一座構成メンバーのキャラ立てがまだ出来ていないし。
前回加わった日本人男の子にしても、藁人形を居合いで両断する芸をイキナリ披露しており、「何の持ち芸もない自分に悩んで…」とか「またまた失敗を」とかいう一座に溶け込むまでに必要とされる過程をすっ飛ばした扱いにしてまで、何故この話?

 しかも、メガネ君との出会いによってナージャは、これまでにない程 楽しい思い出を作る旅の一座に属するものの宿命として悲しい別れを経験する、どちらにもなっておらず、何となく話をしただけだから別れを言えず旅立ってもまあいいや、という程度の感情しか持ち得なかった訳で。
 「星の瞳のナイト」と再会した衝撃を描きたいのなら、公演場面など飛ばして真っ直ぐ公爵家に行けば良かったようなもんだ。
 ミイラ博士は再登場するのかも知れないが…それにしても、印象の薄い描き方だなあ。

 ナージャの踊り、やっぱり良くないと思う。
上から糸で吊されているような、立ち位置が定まらない足の動きが特に安っぽい。
 娯楽が少ない時代とはいえ、このぐらいの踊りで人々からおヒネリを頂けるモノだろうか?
 何度も同じ踊りを、しかも足下まで映るロングで見せているのは、「子供達がマネしやすいように」という意図かね。
 『母をたずねて三千里』ではペッピーノ一座のシーンで、芸としてのバリューを増すために、踊り子と一緒に猿のアメディオを踊らせて見せた事がある。
 ダンデライオン一座にもせっかく子ライオンが居るんだから、同様の手法としてナージャと一緒に踊らせる事で、画面内の「楽しげな雰囲気」「見せ物としての価値」を強調してはどうか。
 途中、軽いストリップのような事をしているだけで「見せ物」としては十分だ、とか?

 ケンノスケ、「客が多く集まったのは、カラクリ車を暴走させた事が話題を集めたため」と言っていた。
前回も同様の話が出ていたが…
 言われる通り何のデメリット(車体が壊れる・公演中止に追い込まれるなど)もなく、メリットばかりがあるのなら、どこの街に行っても大通りをひとしきり暴走して見せれば良い事になるなあ。



『ギャラクシーエンジェル』41.「魔法のつぼ焼き」42.「極寒のホットホットドック」

 ギャグ物は、命を削る。
 基本的にギャグは、元々ある物を解体し、それをまた解体し、そして更に解体する、という工程で成り立っている。
 解体しながら新しい要素を付け加え、あるいは元からあるモノを再構築し、元本が減らないようにする事も不可能ではないけど、それは制作者の作品にかけるエネルギーが溢れている場合に限定しての話で(制作者のエネルギーを「解体」する事で作品を保たせている、という所)、やっぱり「破壊」と「創造」を同時に行うのは大変に困難。
 普通にやっていると、ギャグ作品の後期には作品中に「壊す」物が無くなって、笑いを起こしにくくなってしまう。

 などと考えつつ前半。
 アイスクリームの気持ちを知りたくて、自身、そうなってみるミルフィーユのボケ加減と、溶けかけた彼女の体を再生するのにイキオイが付いたのかケンタウロスに改造していくヴァニラの行動はおかしかった。
 が、今期だけでも何回目になるかの「己の欲望に忠実なエンジェル隊」を描いた話であり、新鮮さには欠ける。
 「オチを付けないのがオチ」という反則技のギャグは、強烈に印象に残る事もあって、何度も使えるモノではないと思うが…

 後半。
 シリアス話…だったのかな?
正直、「そう言われてもなあ」という内容で、どうにも。



 日曜日は、宇佐木 恵がワンフェスに出掛けていたので、先行販売されるコナミ食玩SFムービーセレクションの、恐らくはこれでジェリー・アンダーソン・シリーズは打ち止めになるんじゃないかと思われる(次は、『エイリアン』シリーズが予定されているようだ)『プレミアムパック』を買ってきてもらう。

 アンダーソン・シリーズ。
 『サンダーバード』と『謎の円盤UFO』は素晴らしく良い出来だったため、次も必ず買うぞ!と気負って入手した『キャプテンスカーレット』が…300円という値段を考えれば決して悪い品だとは言えないレベルだと思うけどイマイチ満足出来ない完成度。
原型師が替わった、とも聞いたが、本当なのかどうか。
 でも、続く『懐かしのSFビークル』はなかなかの造形で、特に『スティングレイ』のメカニカルフィッシュと、『ジョー90』(見た事無い)のトラック、『スペース1999』のイーグルには感心させられた。

 『謎の円盤』のラインナップに入っておらず、とても残念だった「コンピューター衛星・S.I.D」が最終シリーズの中身(他にも2種類あるけど)。
機体が白いのでちょっとヨゴレ(汚し?)が目立つものの、この複雑なフォルムを良く再現したもんだと感動。

 しかし、今更ながらアンダーソン作品のメカデザインは凄いね。
 スカイ・ダイバーなんか、潜水艦の先ッちょに戦闘機が着いてんだよ。
戦闘機ごと潜行し、UFOが大気圏内に侵入してきた時には後部潜水艦と切り離して海中から迎撃発進していく。
…普通、思いつかないだろうこんなの。
 『キャプテンスカーレット』の、ドライバーを衝撃から守るため(?)後ろ向きに座って前方モニターを見ながら運転する追跡戦闘車のアイディアもなかなか。
 胴体部のコンテナを切り離す事が出来るサンダーバード2号、それをシャープにしたような 同じく胴体にコンテナを持ちながら船体そのものはフレーム構造で出来ている「何を考えていたらこんなデザインが出てくるのか?」イーグル号も素晴らしい。

 『UFO』の月基地所属 宇宙戦闘機・インターセプターが、UFO迎撃用として機体前部に核弾頭を一基だけ装備している事について、どうしてもっと持って行かないのか?という話をよくする。

 が…
 UFOは光速に近いスピードで飛来している。
そのまま地球大気圏に突入しては粉々になってしまうだろうから、太陽系に接近した辺りでかなり速度を落とすものと思われる。
 そこで初めて機影をS.I.Dが捕捉、地球到達までの軌道が計算され、インターセプターの迎撃コースが指示される。
 その邂逅は、一瞬。
スピードが落ちているとはいえ、すれ違ってしまったら地球側のテクノロジーでUFOを追跡する事は不可能。
ただ一撃で破壊する事が求められる。
 だから、出来るだけ爆発力の強い核を用い、恐らくは対象の目視も出来ないままに、S.I.Dが指示するポイントへと核弾頭を「置いて」、指定された時間に爆発させる。
 その爆発で広がったエネルギーのネットにUFOが飛び込んできたら迎撃成功。
爆発の手が届かなかったら失敗。
2発目を発射するチャンスは無い。

 インターセプターの数を増やすべきとか、取りあえず核弾頭を一杯持って行って周辺にたくさん「置いて」おけば迎撃確率はもっと上がるはずとか言われるが、予算的制限、S.H.A.D.O.に対して批判的な目を向ける軍部による軍事力増強への妨害、誰がいつ宇宙人に乗っ取られるか分からない戦いで 多数の核弾頭を月基地に保有させておく事への不安、などなど、そう出来ない理由はいくらでも考えられるぞ。
 好きな作品についてグダグダと思い巡らせるのは楽しいやね(笑)って事で。
 『謎の円盤』見てない人には何の事やらサッパリ分からない話だろうなあ。


2003年2月22日 土曜日

『機動戦士ガンダムSEED』21.「砂塵の果て」

 聞いた所では、このアニメのオモチャは非常によく売れており、また視聴率も歴代『ガンダム』の中では一番、に近いほど良いそうだ。
 あー、うーん…そうなのかあ。
 じゃあ売れたらエライのか?と言うと、もちろんエライのだ!
個人的には作中でガンダムなどのメカニックを魅力的に描けて来たのかどうか疑問なんだけど、何であろうが、売れた物は売れない物よりも正しい
それが世界の選択である。

 虎、死亡。
最後まで、有能なのか無能なのか分からないキャラだったなあ。
 いや、今回も、圧倒的な戦力で攻撃をかけ、偶然にアークエンジェルの自由まで奪っておきながら それでも負けてしまった所を見ると、当然ながら有能ではないんだろうと理解したが。
制作者の意図としてはどうだったのか?と。
 ほとんど登場の前フリのためだけに1話かけ、凄腕パイロットなんだろうと思わされていたアイシャが、さほどの活躍も見せない内に遣い捨てられるキャラだった事にも驚き(ビビアンの都合もアリ?)。

 不思議なのは、今回の話は、前回1話丸ごと無しでも成り立つ、というより「無かったモノ」として作られているように見える事。
 捕らえられ、虎を目の前にしながら何も出来なかった自らへの怒りを顕わにするカガリ、モビルスーツ戦での「敵」という識別記号ではなく生身で顔を合わせた事によって虎に複雑な感情を抱くキラ。
これらは、前回示されていて当然の反応。
 逆に、前回あった、独房入りしていたサイの心情とか、フレイとの関係に変化を迎えたキラ、という辺りには今回まるで触れていない(フレイなんか画面に出ても来ない?)。

 先週まるで姿を見せなかった事もあり、虎とアイシャが最後の瞬間に互いを抱きしめ合うシーンに説得力が感じられないし。
チラッとだけでも登場させ、日常の風景の中で愛情が介在している事を描いて積み重ねておけば、その死の重みは全然違っていたと思うが。
 シリーズ構成の弱さ(混乱?)が、とにかく残念。

 余りにも無敵なアークエンジェルを含み、ツッコミ所は多い話だったけど、それでも戦闘がメインだと随分 見易い。
ガンダム装甲の電池切れ、という設定も久しぶりに画面に出たし(しかし…「ホビージャパン」誌に載っていた、新機体の機能には絶句)。
 今回みたいに派手な内容が続くなら、オモチャが売れる事も納得出来るんだけどなあ。



 テレビで放送された、ドラえもん『ぼくの生まれた日』を見る。
 監督は、この劇場短編シリーズをずっと手掛けておられる渡辺 歩 氏。

 毎度ながら、これまた素晴らしく出来の良い作品。
 驚かされる高品質な作画と、空間を感じられる背景が支える、元々胸を打つ内容だった原作にオリジナル要素を入れてまとめた脚本の巧さ、それを高いレベルで絵に変えていく演出の妙。
凄い、凄い。

 天に伸びていく木に「のび太」という名前を体現させ、古い親木から植え替えられ新たな生を得る幼木に 成長していくのび太を重ねる。
この辺りの巧さは鳥肌モノ。
 産婦人科院に向けて爆走していくパパを追う三輪車のアクション、若きパパの軽快さ・少女の名残さえ見えるママの可愛らしさも、目に心地良い。

 人間、すぐに不幸に浸ってしまう。
「生まれてこなければ良かった」「もう死んでしまいたい」は、一生の内に何度胸に去来するか数え切れないネガティブな想い。
 でも、「生まれてこられた事」「生きて今、ここに在る事」は、もうそれだけで奇跡であり祝福なのだと、この作品は思い出させてくれる。
 何かに疲れた時に見返すと、もう一度足を踏み出す力を与えてくれるだろう、子供にも大人にも価値ある傑作。


 …この劇場短編シリーズはこれで終わりなのかな?
最新の劇場版では、長編との併映は『パーマン(監督は、短編と同じ方)』になっているんだけど。
 非常に残念だが…まあ、これでのび太の誕生から幼年期の祖母との思い出、ドラえもんとのいずれ来る本当の別れも乗り越えていけるだろう成長と、そして両親が望んだ通りの真っ直ぐな若者に成長した彼の結婚、といった、本来のシリーズである永劫回帰のドラマからは離れた のび太の物語は、一応の完結を見たとも言え、終わるには丁度良いのかも。
 新作『パーマン』が、これまでの作品群に並ぶほど出来の良いモノである事を期待したい。
 それと、やっぱりこの監督さんには長編の映画か、テレビシリーズを手掛けて欲しいなあ。
凄いものが見られそうに思うんだけど。


2003年2月21日 金曜日

『魔法遣いに大切なこと』07.「魔法遣いになれなかった魔法遣い」

 驚かされるような魔法を遣った事件が起こらない話。
だから、サラッと流して見る事も可能なのかも知れないが…やっぱりあちこち気になってしまう。

 商店街の面々は、ガラスの修理(違法魔法状態からの回復)より先に、迷惑行動を繰り返している犯人の特定と捕獲を魔法遣いに依頼すべきだったんじゃないか?
それ無しでは…いずれまた迷惑行為が繰り返されてしまうだろう。
 事件の捜査をすべき、警察の魔法遣いは何をしているんだろうか?
以前、子供が迷子になった時にも見つけ出す事が出来なかったみたいだし、結構 無能?
 ユメが異常なまでの力を持っているだけであって、他の魔法遣いは大した力を持っていない、もしくは使用に当たっての条件が異様に厳しい、とか?
それにしては…今回使われたガラス修理の魔法なんか、はっきりガラス屋に対する営業妨害に当たりそうだけど、構わなかったのかな。
魔法遣いは、ガラス屋に頼むよりも高い依頼料を取らなければならない、とかいう規制でもないと。

 何も無い所から札束を作り出し、月まで往復しても平気だったユメが、今回、ガラスにかけられた魔法を、しかも2人がかりで除去するのには疲れた様子を見せた。
魔法力の使用量と疲労度の関係は、どうなっているのか?

 魔法遣いになるには かなり厳しい審査があるようで、合格出来ず、結局資格を取得出来なかった人達がポコポコ出てきた。
 この世界では魔法を使う素養は、限られた人間にだけではなく ほぼ全人類に潜在しているのだろうか。
 また、資格試験を厳しくする事にはどれくらいの意味があるモノなのか。
試験に合格する事で、水晶玉であるとか遣い魔であるとかの魔法遣い必須グッズを配布される、それ無しではロクな魔法が使えない、という事になっているならともかく。
試験の結果がどうだろうが、魔法能力を所有している事実に変わりはない訳で。

 「魔法遣い」という あやふやな存在と、「国家(?)が認める職業」という不必要なまでに現実的な設定を、組み合わそうとしたのが混乱の始まり。
 既存の魔女っ子モノ程度に、人間界に魔女(魔法を使える普通の女の子)が紛れ込んでいるが、「その存在も、魔法を使える事実も決して他者に知られてはならない」という、魔法の国の掟・魔女の不文律・経験から導き出した自制、どれかで縛られている、ぐらいにあやふやなままにしておいた方が、作るのは楽だったろうと思う。

 制作者のイメージでは、「魔法を遣える人」というのは例えば「非常に力が強い人」ぐらいなモノなのかな。
 で、その力を活かすべくプロレスラーになろうとか武道で身を立てようとか思っても、生半可な覚悟では無理、少々力が強いぐらいではプロレス団体の入団テストにも合格出来ない。
 合格出来なかったからといって、力持ちの人々は別段 町に出て無為に暴力を振るったり破壊的な行動をする訳ではなく、ほとんどは ごく一般的な必ずしも力を活かせる訳でもない職業に就いて、「オレ、若い頃はK-1目指してたんだ」などと昔話をしながら一生を終えていく。
 そのぐらいな存在と考えているんじゃないかなあ、と。

 その割には、とにかくユメの遣う魔法が必要以上に強力なため、「魔法遣い(ユメを基準にしてはイケナイのだろうけど)が怒りに我を忘れてしまったら、街一つぐらい軽く消し飛ばせるんじゃないか?」という気持ちにさせられてしまうので、「まあいいかあ」と制作者のイメージを受け容れる事に抵抗を感じてしまう。
 前述の「力持ち」の例で考えると、普通のプロレス志望者は「学校で一番ケンカが強い」程度で、主人公はそんなモノとはレベルが違う、「北斗神拳の伝承者」なんだ、と考えないと。

 …それにしては、前述した通り今回、大した事のない魔法を遣っただけで疲れた様子を見せてるのが…

 正直な所、基本的な設定やらキャラの性格付けも含み、まだ未確定な部分が多いんだと思う。
 見ている方が真面目に考えれば考える程、その未確定な穴に引っかかって、混乱させられてしまう。
 要らない設定は全部捨てて…
大学入学のために上京してきて、遠い親戚のお兄さん宅にお世話になる事になった主人公が、世間には絶対に秘密だが、魔法遣い。
同じ血のために魔法が使えるお兄さんの元、恋をしたり裏切られたりと様々な体験をしながら魔法遣いとして、それ以上に人間として、大切なことを学んでいく話にしたら良かった…いや、割と良くあるパターンになってしまうので「良かった」とは言えないけど、見る側も作る側も「楽だった」だろうとは思う。


2003年2月20日 木曜日

『仮面ライダー555』04.

 ヒネくれた作品だなあ。
 ここまで、特にヒーロー側は基本設定もキャラの内面も、全く紹介しないままに進んできた。
 そこに現れた、人助けをしたい男が、ごくマトモな反応として変身原理とか怪人の存在について疑問を投げかける。

 こりゃもう、制作者にとっては「待ってました!」な質問で、実はこのスーツの作動原理は何々で、それを持っている彼女の素性はこれこれ、怪人達はこうして誕生したモノでその目的は云々、と説明ゼリフを並べて設定を消化する絶好のチャンス。
 だが…
 尋ねられた相手の主人公(だよね?)巧は、そういった内情に全く興味を持っておらず、何も知らないので当然何も答える事は出来ない。
 わちゃー。アリか、こんなの(笑)。

 しかも、更に根性の悪い構成として、疑問を持った男・啓太郎は「人助けをしたい」というより「人助けをし続ける自分でなければならない(そのためには多少の犠牲など厭わない)」強迫観念にも似たものを持つ歪んだ性格の持ち主として描かれており、そういう、問題を抱えた人間に真相を知りたがらせる事によって、「(当然 視聴者も持っている)設定を知りたい気持ち」を肯定的に描かない
 設定を伏せたままで居る事を、巧く視聴者に認めさせているのだ。
 実に高度なテクニックだけど、こんな風に使って良いモノなのかどうか。
ヒネくれてるなあ。

 難としては、前向き気味になった主人公の気持ちが 少々唐突に思える事。
これまでのドラマの積み重ねによるモノ、というより、ぼちぼちキャラを能動的に動かしたいから、という制作側の意図の方が強く感じられてしまった。
 いきなり変形するバイクの理屈も不明。
これまで何も無かったのに、何故?
何らかの言葉か行動か状況がキーになって、変形するのだろうか?
 ライダーより強いバイクロボってのも、どんなもんかな。

 ロクでもないヒーロー側はもちろんだが、悲惨な境遇から行き過ぎの復讐に至る怪人側も感情移入の対象にはなり難いため、何を頼りに見れば良いのかが分かり辛く、取っつき辛い。
 視聴者 皆、付いてきているだろうか?
視聴率は絶好調なんじゃあ!というなら結構な事だけど。


2003年2月19日 水曜日

『明日のナージャ』03.「サムライ・ケンノスケ大暴走 !!」

 一座の面々どころか、主人公であるナージャのキャラさえまだ立っていないこの時点で、何故また新キャラを加えるのかなあ?
 展開を焦りすぎ。
基本設定を早く消化して、意図するドラマが語れるポイントまで辿り着きたいんだろうけど、これじゃそれ以前に視聴者を振り落としてしまわないか?

 今回の話にケンノスケを出す意味は薄い。
カラクリ車の故障による暴走、あるいはナージャがうっかりレバーを倒してしまって…という事でも良いだろう。
 新キャラを出すのなら、「どうしようもないトラブルメーカー」という性格付けがある場合を除き、基本的にはプラスの才能を示した方が良いかと。
峠で立ち往生してしまった(あるいはもっとせっぱ詰まった状態で壊れた)カラクリ車を、フラリと現れたケンノスケが修理してくれるとか。
 今回の描き方では、うっかり者だけど悪い奴ではなく、カラクリに興味はあるけど大して知識は無いという、際立った箇所が感じられず薄い印象しか残らない登場になってしまっているので。
 また、記者のキャラクターも今回 新登場させているため、視聴者の興味は2分割されてしまい、余計に印象が薄くなる。

 ケンノスケが車の暴走中にリタに気を取られたりして平気でよそ見をしている姿からは、緊張感が感じられない。
大きな質量を持つ車なんだから、人や馬車に衝突したら笑い事では済まないはずで、もっと必死さを演出しないと。
 かなりなスピードで走っている車に、何度も置いて行かれたナージャが、必要な時に追いついているのは何故?
 町に迷惑をかけ、警官にも暴行(笑)を働いた訳で、お咎めがあってしかるべきだと思うのに、それらは全て不問。
どころか、「良い広告になった」?
 …作り手の、「明るく楽しいばかりの話にしたいので、余り困った事にはしませんよ、キャラクターを追い込んだりしませんよ」という姿勢が感じられて、ハラハラドキドキが無ければならない話のはずなのに、ダレてしまう。

 暴走を止める所、団長が怪力を発揮するのは なかなか面白かった。
 どうせならこれを拡大して、カラクリ車を止めるべく、一座のメンバー全てがそれぞれの特技を組み合わせて見事な活躍を見せる話にしたなら、キャラクター紹介編としては非常に有効な内容になったのではないかと。



『機動戦士ガンダムSEED』20.「おだやかな日に」

 えーと、確かに見たはずなんだけど内容が余り印象に残っていない。
というか、内容なんかあったっけ?
今回の話、まるごとカットしてもシリーズにさして影響が無いのでは?

 キラもカガリも、前回 虎に捕らわれて普通なら殺されていておかしくない経験をした事など、気にしていないのか もう覚えていないのか心情的にはまるで引きずっていない様子。
 そういう体験をした事をアークエンジェルのクルーには報告したのかなあ?
していたなら、ロクな尋問も受けずに解放されたという事で、「敵側に寝返ったのではないか?」と疑われても仕方ない所。
…まあ、キラが敵側と仲良くするのはいつもの事か。
それをクルーが注意しないのもいつもの事。
 虎もまた、せめてキラに発信器を付けるとか尾行するとかしてアークエンジェルの位置だけでも特定するかと思ったんだけど、何しろバカで無能だからそういうのは思いつかなかったみたい。

 何というか、シナリオライターは前回の脚本を読んでから自分の本を書いているだろうか?シリーズ構成は真面目に仕事をしているだろうか?監督は思いつきだけで作品を進めていないだろうか?と、様々な疑問が頭の中に渦巻く出来。



 メタメタだったお仕事もようやく一段落。はーはー。
 で、ちょこっとゲームなどやる。

 『007/ナイトファイア』
 64で出ていた『007/ゴールデンアイ』と同じ、一人称視点による『DOOM』型アクションゲーム。
『ゴールデンアイ』をアホ程やり込んだモノで、その流れから買ってみた。
 うん、まあ細々変更はあるけど、64版が好きだった人間なら取りあえず満足がいく内容かと。
 ただ…
何故か、64版とは比較にならないぐらい3D酔いが酷く出てしまうため、長時間プレイ出来ない。
難易度(調整可)も操作性も悪くないが、酔いに耐えきれないばかりに、まだ一面もクリア出来ていない。
 何とかならないのかなあ、コレ。
何度も言ってるけど、ソニーと任天堂と、マイクロソフトも手を組んで、3D酔いしない周辺機器やらソフトの開発をしてくれないだろうか。
じゃないと、3D表現が多用されたゲームが出来ねーよ。

 『オペレーターズサイド』
 発売直後は売り切れ状態が続いた、音声でキャラクターとコミュニケーションを取る事で操作する『バイオハザード』風アクション・アドベンチャーゲーム。
 音声の認識率が非常に高いのにはビックリ。
「よけて、撃って、リロード」という指示を出すのに、一単語ごとに区切るよりも「よけてうってりろーど」と一連の言葉にした方が認識されやすい。
 基本的には非常に頑張ったシステムだと思うが、何故だか時々、例えば「さやか」というキャラクターの名前を何度言っても理解してくれず、10分間程ひたすらに名前を繰り返し続ける不毛な事態にも陥ってしまった。
使用推奨マイクではなく、『犬とあそぼう』というソフトに同梱されていたコナミ製USBマイクを使っているのが原因?
 何を調べさせるにも対象を指定しなければならないのだが、そのモノの名前が分からないと困ってしまう場合も。
そういう もどかしさも含めて楽しむゲームなんだとは思うけど。
 音声認識を除けば、実に良くあるタイプのゲーム。
でも、キャラクターとコミュニケーションが取れ、心が通ったように「錯覚」できる楽しさは、なかなか。
このシステムで恋愛シミュレーションゲームとか作ると、ハマりそうだなあ。


2003年2月17日 月曜日

『魔法遣いに大切なこと』06.「魔法遣いになりたい」

 ストーリーの構成が行き当たりばったり気味であり、「奇跡」を非常に唐突で安っぽいモノに見せてしまったのが敗因。

 現実に起こる奇跡なら、どれだけ突然で不合理な内容であっても構わない・仕方ないけど…
自作品中に「神」として君臨する存在の「作者」が振るう「奇跡」には、非常に厳しい使用条件がある。
 そりゃ作者には何だって出来る。
死からの復活なんか易いもんで、ついでに病院中の患者達から病を取り除いたり、世界人類から永遠に悩みや苦しみを消し去る事も楽々。
でも、それをやった所で「作者の幸せな妄想は、こうなんだな」という事を伝えられるだけで、感動にも何にも繋がらない。

 フィクションで「奇跡」を有効に起こすには、「奇跡」を受け容れられる周到な物語にして語り、お客様にもその存在を容認して頂く事。
 自身が作り出した世界に対して、「神」=「作者」は何でも出来る訳ではなく、実は非常に限られた範囲の関与しか許されていないのだ。

 今回、なんで普通のお兄ちゃんを魔法遣いにしちゃったかなあ。
「魔法遣いに大切なこと」じゃなくて、「魔法遣い『である事が』大切なこと」?
 この後の構成次第でフォローのチャンスはあるけど…見た限り、彼が魔法遣いである事に意味を感じない。

 例えば…
 「風鈴」をキーアイテムとして最初から紹介しておき、魔法で風鈴を出そうとするが少年の朦朧とした意識下から上手くイメージをすくい取る事が出来ないユメに対し、町中を駆けずり回って、季節はずれながらもあるだけ買い集めてきた大量の風鈴を病室中に吊しながら、
「これだけありゃあ一つぐらい同じ音色のモノがあるだろ?無くても…無くても生きろ!この一つ一つに新しい思い出を付けていきゃあイイじゃねえか!生きてりゃまだこれから、何だって出来るんだ!」
とか何とか、非常に不器用な叫びを上げるケラの必死さが少年の意識を戻していく、とか。

 万能である魔法遣いに出来なかった事を、単なる「人間」にしか過ぎないケラが成してしまう。
「魔法で出来る事なんか、ほんのちょっとだけ」という考えも、これなら活きると思うんだけど。



『花田少年史』19.「走れメロン」

 ネコが絡んだ話で、今回も気持ちよく泣けた。
 そんなに長い間約束を忘れていた男の子はどうかとか、列車で向かっている間にネコが命を落としてしまう非常に良い(悪い)タイミングもどうかとか、色々と巧く行ってない所があるんだけど、それを乗り越えて心に響いてくるのは…
いつも遊んでいた河原に向けて駆けていくガキ共が、本当に必死である事が伝わってくる演出・作画の技量と、誰の心にも大抵はあるペットとの楽しい あるいは悲しい別れの思い出とシンクロしてくる題材選びの良さ故、だろうか。

 ネコがあれだけ可愛い女の子に変身して来るとなると、オレの漫画ジャンルなら100%、○×△展開に突入している所(笑)。
 約束を忘れていた少年に対し、恨み言を言うどころか、自分を助け 一緒に遊んでくれたと感謝の気持ちだけを持ち続けているメロンにジーン。
イメージとしては、こういうのはネコより犬に合いそうな役割だが。



『THE ビッグオー』19.「Eyewitness」20.「Stripes」

 うーん、やっぱり面白いなあ。
 好き放題やっているようでありながら、実際はきちんと「失われたメモリー」というこの作品ならではの特異な設定を巡るストーリーになっている構成が上手い。
 今シーズンで ずっと脚本を書いている小中千昭 氏は、まるっきりダメな作品でもよく名前を見かけるが、『ふしぎ魔法 ファンファンファーマシィー』や『魔法使いTai !』など、非常に完成度の高い作品のシリーズ構成も手掛けており、評価が難しい方。
『ビッグオー』でのお仕事は素晴らしい。

 世界の謎に、深く浅く斬り込み始めた。
 オレはこの作品、「謎の真相についてカッチリとした設定を(恐らくはワザと)作っていない」だろうと思っているのだが、時折、「もしや、謎の全てに納得のいく回答が用意されているのでは?」と思える描き方もされており、ドキドキ( ^_^ )。

 19話目での、敵巨大ロボットの攻撃を、余裕あるサイドカーの運転でかわしていくノーマンのアクション。
逃げていたかと思えば、180度回頭してロボットの足下に突っ込み、サイドシートに座るR・ドロシーを持ち上げて座席下から現れたミサイルポッドで反撃(『ワイルド7』両国のバイクみたい)、そのまま反対側へとくぐり抜けて先に待っているビッグオーに戦いを繋いでいく、アクションの見せ方が実に巧い。

 警察に拘留されているR・ドロシーをまるで か弱い娘扱いで心配しながら、高速走行中には一言の断りもなくシートを持ち上げてミサイルを撃つ(バランスを崩してバイクから落ちたら大ケガ…いや、破損するかも知れないのに)、彼女を人間扱いしているのかそうでもないのかよく分からないノーマンがおかしい。
 ミサイルポッドのカバーが開いた際に「大股開き」な格好にさせられながらも、いつも通り無表情なR・ドロシーのラブリーさ(笑)には参る。


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