ときどき日記 03/08(前)

2003年8月15日 金曜日

 不穏な書き方で ご心配をおかけてしまい、申し訳ありませんでした。
 体調、今はそんなに悪くないです。
咳はまだ出ますけど 前ほどシンドイ訳ではなく。
 暖かいお言葉を下さいました皆様、ありがとうございました。
人の情けが身に染みます。
 大丈夫ですので お気遣い無く。


2003年8月14日 木曜日

 すみません、力及ばず、コミケの新刊は落ちてしまいました。
気管を痛めたようで、腹筋をギリギリ絞られるようなシンドイ咳が止まらないのが敗因。
 病院でもらった薬を飲んでいても、なかなか、体力の低下で回復力まで落ちているせいか、治りません。

 そのせいで仕事の進行も酷く遅れており、コミケの参加そのものさえ危ぶまれる騒ぎ。
 這ってでも…とは思っておりますが…
正直、不確定です。
 前日までには参加できるかどうか分かるかと。

 うう、こんな悲惨な夏は初めて。
 トシかな(それは禁句)。


2003年8月11日 月曜日

『機動戦士ガンダムSEED』44.「螺旋の邂逅」

 前回 大ピンチに追い込まれたアークエンジェル一行だが、種さえ割れれば問題なし、とばかりに逆転。
 フラガを打ち破ったクルーゼの新型モビルスーツも、その直後にフリーダム・キラによってあっさりと撃破される。
 んー…結局はキラ、そしてアスランさえ居れば どうにでもなってしまう訳ね。
 クサナギの自由を奪った紐状の物(テザー…衛星や宇宙ステーションを連結するケーブル…用のメタポリマーストリングの事、らしい。多摩Aさん ありがとうございました)を、自分たちで使ったワナを仕掛けるとか、逆転にアイディアが欲しかった所。

 イザークと対面して、そういえばディアッカって どうしてアークエンジェル側に付いたのか?という疑問が。
ミリアリアに好意を抱いたから、という以外には、取り立ててザフトを捨てる(捨ててない?)理由がない。
 ここに至った成り行きは示されており、強烈に個性を主張するタイプではない彼としては つい付き合いで…と考えれば、不自然だという訳ではないが。
 ザフトにアークエンジェルが襲われた際には、どうするつもりだったのかなあ。
不殺を貫くキラほどには超人性を持っていないようだし。
 ディアッカの感情は、もう少し時間をかけて描けばキラ・アスランの関係を補強する意味でも非常に有用であったかと。
それには既にシリーズの残り時間が不足しているか…
 何度も何度も今更な話だけど、こうなると番組開始当初のモタモタした展開が一層悔やまれる。
そこを詰めて、ドラマが大きく動き始める この後半部をもっと膨らませられれば……

 アズラエルの無茶な命令に、視聴者 誰しも感じるだろう意見を反論の形で加えるナタル。
 最近、作品内に、物語の都合に押し流されまいとする冷静な視点が存在しているように思う。
脚本が2名併記になっている事と関係があるのかなあ、というのは邪推
 この体制のままで「砂漠の虎編」を作っていたなら、副官か誰かが虎の行動に「それでは部下は犬死にです」とか何とか、呟いていただろう。

 フラガとクルーゼの因縁がようやく明らかになりつつある(長い伏線だったなあ)。
キラ誕生の秘密もココに?
 面白い。
でも、残った話数で物語をまとめきれるかどうかが心配。
「無理矢理終わらせた」と思われては、作品全体の印象が悪くなってしまうから。



『宇宙のステルヴィア』19.「なきんぼ おこりんぼ」

 女の子が集団で泣くシーンに無条件で弱いため、思わず もらい泣きしてしまいそうになる( ^_^ )お話だった。
 確か、『アキハバラ電脳組』でも、新たに加わった つばめが ひばりと仲良くしている事に不快感を示した他の仲間達と、最後に わあわあ泣いて分かり合う回があったかと。

 「分かり合う」と書いたけど、正確にはそうでもないような。
 男は何しろバカで単純なため、「分かり合えた」「分かり合えなかった」がハッキリしているが、女性はその辺複雑で…
 実際には互いに理解し合えていない関係を、涙を緩衝材とする事で つながっているかのように錯覚する・させる、いや「もう言葉など必要としない」関係へと「涙」を経る事によって強引に移行させてしまう したたかさがある、と言うか…
そういう意味では男の「拳で分かり合う」に近いモノがあるかも知れないが、男のそれは「外装を削り取ってバカな自分の本質を相手の前に顕わにする」行為であるのに比べ、女性の涙は「あやふやなままで互いの関係をつなぎ止めてしまう」働きがあるような。
 女性に嫌われそうだから この辺で止めとこう(笑)。

 志麻が、家族と離れた事でまず女友達に精神の安定を求め、次に、恐らくは まともに恋をするのも初めてであろう彼女は、好意を抱く異性である光太に依存したが、長い不在によって友達との間に距離を感じ(このぐらいの年頃だと、クラスが別になっただけでも友情が消えたりするモノで)、能力の差を見せつけられる事で光太とも同一化できない事実を思い知らされる。
 疎外感の裏返しとして極端に他者を拒み始めた志麻だが、「涙」によって友達との間に再度 適切な距離を取ってつながる(つながったと「思う」)事が出来、位置を定めて自己を確立させられたため、光太に過剰に依存する必要が無くなり、彼との間にも適度な距離が取れるようになった…
 と、いう感じの話だったのだろうか。

 ところで、宇宙人(?)はどうなったの?
 いや、こういう小さなドラマこそが このアニメの醍醐味だとは思うんだけど…
今回の話と、「人類に迫る危機」という大きな流れとの間に ほとんど関係が認められず、戸惑ってしまう。



 喉が痛くて断続的に咳が出、微熱まで。
風邪かなあ?と思い、薬を飲むが全然収まらず、ただ副作用で眠くなるばかり。
 商業誌の締め切りがムチャクチャ重なっている この時期に、体調を崩すのは拙すぎるのだが…
 すいません、同人誌、久しぶりに落ちてしまいそうです。ううう。


2003年8月8日 金曜日

『ボンバーマンジェッターズ』45.「ゼロとシロボン」

 自分が「自分」であるという認識を持ちながら、しかし実際は機械の体の中に封じ込められた、本体のコピーとしての存在である、と理解するのは どういう気持ちだろうか。
 更に言えば、オリジナルは既に消滅しており、コピーである自分が宇宙に唯一の「オリジナルに限りなく近い」存在だという複雑さもある。

 アナログのコピーであれば、どうしてもオリジナルとは違う…大抵は劣化した物になってしまう。
が、デジタルのコピーなら、オリジナルがどちらであったのか分からなくなるほど同一の物が出来るはず。
 ゼロの心の中に封じられたマイティの魂もまた、劣化しないデジタル的なコピーがなされているのなら、それはオリジナルと変わらない物と考えて良いのかも。
 あとは外見を、元の「マイティ」を構成していたのと同じ物質で再構成する事さえできれば、周囲の人間は勿論、本人さえも、自覚する努力をし続けない限りオリジナルでは「ない」事を忘れてしまうだろう。

 しかし、彼の外見は、外装さえ不完全なアンドロイド体(半分内面が出てしまっている所は、人間との差に苦しみ続けた『キカイダー』のよう)。
 「魂」を感じられる者以外には、彼をマイティだと認識する事は不可能。
 彼自身も、自分の姿を見、何も食べられない、恐らくは感覚もない体を折に触れて自覚させられる事で、「自分はコピーである」事を思い知らされているだろう。
実に残酷。
 …それにしては今回、お風呂に入って気持ちよさそうにする生物らしさを見せていたが…まあ あれは人間時のクセ・習慣に基づく錯覚の知覚(お湯に入る=気持ちよい)かも知れないし、また暖める事で不完全な機体へのオイルの巡りでも良くなるのなら、意味のない行動でもないか。

 ボン婆さんが彼に語った「ありがとう『ゼロ』、お陰で『マイティの事』を知ることが出来た」という言葉の距離感には、胸を突かれる。
それで、なお、彼をシロボンに逢わせようという優しさも。

 シロボンはゼロを変わり果てた姿の兄(と同等の存在)とは思わず、ゼロは幼く未熟だった弟しか知らない。
この すれ違いを、笑いにしたり感動にしたりの繰り返しで こちらの感情に揺さぶりをかけ、「マイティの良い所はないのかい?」「そんなの一杯ありすぎだよ」でジワッと、「大丈夫だよ、シロボン」でホロホロと大泣きさせられてしまう。

 いやー、上手い、巧いよ。
 基本的にコメディーでありギャグにもなって、馬鹿馬鹿しさもありながら、しかし「下らない」内容にはならず、泣かされる事さえある このアニメ。
 このバランス感覚は、奇跡的。



 衛星で放送していた『おじゃる丸 約束の夏 おじゃるとせみら』を見る。
 数多くの蝉の「遊びたい気持ち」が化身した姿である せみらと過ごす、子供達の夏を描いた作品。

 何年間も地中におり、地上に出てからは僅か数日でその命を終えてしまう蝉の一生って、なんか可哀想だなあ、と一度でも考えた事がある人なら、この映画はちょっと染みるだろう。

 妥協を許さず、一心不乱に遊ぶ せみらのパワフルな姿が、ひたすら鳴き続け子孫を残して命尽きていく蝉と重なり、楽しくも哀しい。
 いやまあ、それは終わってからの感想で、見ている最中は、強い日差しの中 遊び回る子供達の嬉しげな様子と、えらく牧歌的な自然風景が広がっている月光町の様子に、すっかり和んでいた訳だけど。
 途中、ドラマとして飽きさせないように もっと波乱を設けたりも出来たはずだが、そういうモノを無理に見せようとせず「まったり」感を楽しませるのが『おじゃる丸』の持ち味だから、コレでイイか。

 プリンひとつぐらいの事で腹を立ててしまう、大人げない(幼児だって)おじゃる丸。
 そのため、せみらの最期に会う事が出来なかった。
彼とはもう逢えないとさえ知る事が出来ないまま、約束の木の下で待ち続けるだけの おじゃる丸が切ない。
 それでも、短すぎる一生を友達と精一杯遊んで過ごした せみら、彼のおかげで大嫌いだった夏が少し好きになった おじゃる丸、どちらにとっても悔いの無い夏になったのだろう、と思える事は救い。

 すうっと胸に染み込んでいく優しい映画。
『おじゃる丸』で泣かされるとは思わなかったなあ(笑)。
 いや、実際にはテレビシリーズでも結構「泣ける話」があったりするのだが。
マリー婆さんが若い頃、トミー爺さんへの気持ちを諦める話なんて、子供と見ていたなら親の方が泣いてしまう哀しさだったし。



『カレイドスター』19.「家族の すごい 絆」
 そらの家庭に新しく妹が誕生するドラマを通じ、家族の絆が強く結ばれる、いい話だった。

 …という所で気が付いたんだけど、上記『ボンバーマン』『おじゃる丸』そして『カレイドスター』、どれも脚本は吉田 玲子氏が担当している。
 脚本が良ければ傑作になる、とは限らないが、悪い脚本から良い作品を作り上げるのは至難のワザだろう。
 3本とも、セリフに力があり、心に残った。


2003年8月6日 水曜日

『スクラップド・プリンセス』17.「つかのまの世俗歌」

 語られる、侵略者の本意。
人類に対し悪意や害意を持って来たのではなく、「その行動基準に多くの矛盾を抱えているイビツな」種族である我々が、他の星の知的生命体と不用意に接触して迷惑を掛けないように、地球に封じ込めておく事が目的だった。
また、人類自身の獰猛さ故に絶滅しないよう、監視して管理する目的も。
 その際、地球の狭さと宇宙に進出していける可能性に気が付いて、閉塞感を感じないで済むよう、文化レベルを落としてくれる細かな気遣いもアリ。

 大抵の宇宙人は「人類は宇宙のガン細胞であり生きてるだけで迷惑だから全員プチ殺しに来ました死んで下さい」などと、そう言われても困ってしまう理屈で危害を加えてくるため、追いつめられた人類は「やかましいわボケぇ!殺られる前にオノレのタマ取ったるわ!」と逆襲するしかないのだが、この作品の侵略者は非常に紳士的で、ある意味では親切とさえ。

 侵略者が持つ人類の自傷行為への考えは、確かにそうかも、と思わされる。
 中世風である この時代程度の科学力であれば、国と国との戦争がどれだけ酷くなっても、人類全体の存続が脅かされる事態にはならない。
 やっぱり「核」を持ってからだよね、もしかすると人類が全滅する危険性が出てきたのは。
今では、強力な生物兵器もあるかも知れないし、他にも絶滅に追い込める武器が開発されているかも知れないが。
 誰かがもう一回、核開発の遙か以前まで文化レベルを戻してくれたなら、人類自体の愚行によって「種」の存続が絶たれる危険性はずっと低くなるだろう。
 …その代わり、飢饉や病に対する技術まで後退する事で大勢が命を失うかも知れないし、必ずしも「幸せ」かどうかは分からないけども。

 「正義」と「悪」、「正しさ」と「間違い」が、劇中で語る者の考え方や立場によって くるくると入れ替わり、非常に面白い。

 似顔絵を描かれる間 澄まし顔でじっとしていたパシフィカが、描き終わった途端 一気に力を抜き、「だあっ」と のけぞってしまうのが可笑しい。
 2回も描いてもらうのに、同じく凶悪な顔に描かれたのは…単純にギャグなのか、「内面に潜む凶暴性」を写し取ってしまうのか。
 これをそのまま手配書にしたため(実際ほぼ同じ顔で手配されてるが)、実物のパシフィカを目の前にしても本人だとは気が付かないとか、逆に「そっくりだ」と言われるとか、もう一捻りギャグに出来た気もするけど、追っ手はシリアスに徹しており、バカをやる余裕が無さそう。

 食卓を挟んでのパシフィカのセリフ。
他愛もないご近所の話をし、料理の味を問い、「な〜んかさっきからハエが居るんだよね……お茶飲む?」と脈絡のない言葉をつなげる。
 ああ、食事中の会話って このぐらい無意味だよな、と納得でき、大変リアルに感じてしまった。

 シリアスもギャグも主要キャラの彫り込みも、物語の先行きへの期待まで含み、イイ感じになってきたな。



『D.C.〜ダ・カーポ〜』05.「メイドですから…」

 アンドロイド、エスパーの次は、ネコ耳メイドかあ。
もー何が来ても驚かないぞ(笑)。
 そんな視聴者の気持ちとシンクロするように、動揺するのは「意外に巨乳だな」とか そういう事だけで、ネコ耳とかメイドファッションとかには余り違和感を感じていない様子の主人公がおかしい。
 この流れからすると、後はもう、「霊体としての存在」「宇宙人」「主人公の女性型クローン」「未来人」辺りでも出すしかないのでは。

 メイド少女を割と致命的なドジに設定したのが、ちょっと珍しいかな。
ダメっぽかった『ToHeart』マルチでも ここまでは酷くなかった( ^_^ )。
まぁ、実体は深窓の令嬢みたいだからなあ、下々の生活など知る由(よし)もないか。
 そこから、懸命な努力で「役に立つメイド」へと成長を遂げる所、好感度ポイント高い。

 彼女もこれまでの例にならい、今回限りのゲストキャラか…と思えば、次回に引くの?
レギュラーになるのだろうか。
 それなら、アンドロイドもエスパーも主人公の家に転がり込んできて、次第に大所帯になりつつアニメ『シスプリ』のような集団生活を送る、という展開もあったかと。



『明日のナージャ』26.「フランシスの向こう側」

 細田 守演出回。
期待に違わぬハイクオリティーな出来で、素晴らしい。
 色々書きたいけど、それにはあと2回ぐらいは見返して、印象を補強した上で考えをまとめないと難しい。
いや、お話の内容自体は別段難しいモノではなく、見て、分かった、そのままの理解で構わないと思うんだけど、演出の意図とか そういう事を読み取ろうとすると、ねえ。

 シエスタ(昼寝)の必要性を納得させてくれる、スペインの「暑さ」を伝えて来る光と影の強烈なコントラストが印象的だった。
 また、普通に見れば さほど珍しい景観でもないと思うのだが、背景となる風景の切り取り方やカメラの移動、キャラの立ち位置と動線の設定によって、時折ドキッとさせられる画面作りが成されている。
例えば…庭園のゆるい階段を下りた所に小さな丸い踊り場(?)があり、その周囲と場の中心に水が流れていたシーン、何気なく見えながら「こんなレイアウトやら画面効果の使い方、一生出来ねえよ」という事実を思い知らされる巧さ。

 実写映像なら、あるいは何も考えずにロケに行った先の適当な所にカメラを置き、画面を撮る事も可能かも知れない。
 が、アニメ(漫画も)は、どこにどういう物がある風景を、どういう角度から写し取るか、という考え無しには何一つ絵にする事は出来ない。
 実写では難しい、「意図」で画面を埋め尽くす、という事も、アニメなら比較的実現が容易。
それだけに、演出家への負担は厳しいと言える。
 まあ、ルーティンワークで画面を作る事も出来る…というか、油断するとすぐそうなってしまうんだけどね。自戒を込めて

 一カットも弛まず、そこに必要な「意図」を考えつつ、作品全体の流れをも調整し続ける気力と体力。
また、それを演出するために必要な、テクニックの驚くべき豊富さ(同じ技法ばかり多用しては、一つしかないヒット曲を繰り返し歌う2時間のコンサートのように、格好悪くなってしまう)。
 そういうもの「も」、細田 守氏を特別な演出家たらしめて居るんだろうなあ。



 このHPを置いているJ-COMのサーバーがダウンしていたようで、まる二日弱、不通になっておりました。
 ご心配やご迷惑をお掛けした皆様、申し訳ありませんでした。
 「いや、別に、こんなHPどーだっていいし全然気にならなかった」という皆様、こんちくしょう

 実に困ったもので、プロバイダーのオマケ的な扱いとはいえ一応はお金を払って借りている形のスペースなのに、 ここまで長期のトラブルを起こされてしまうと…
他の会社に乗り換えようかなあ、と思ってしまいます。


2003年8月4日 月曜日

『ASTRO BOY 鉄腕アトム』17.「地上最強のロボット」

 強力無比なロボットであり、アトムの「噛ませ犬」となるべくして作られたプルートゥ。
ゴツイ姿と戦闘能力の高さ、大塚 明夫の声( ^_^ )から つい錯覚してしまうが、彼はまだ、全然 生まれたばかりの「子供」なんだよね。
 自分を世に送り出してくれた父親・天馬博士の期待に応えるべく、ただただ戦い続けるプルートゥ。
だが彼は、知性を与えられてしまった事で「父の命令に従って破壊すべき敵」との間にも「友情」や「優しさ」が介在できるのではないか?という事に気が付いてしまい、苦悩する。
 その気持ちを描き出す、「哀しみ」を たたえた目の表現が素晴らしい。
 今回は全般に作画レベルが非常に高く、ロリロリと媚びまくるウランや、動物マニアが大喜びしそうな変に色気のある森の生き物たちなど、画面から艶っぽさが感じられ、黒い意味でも(笑)手塚 治虫らしかった

 人間に近いと言われるアトムと、他のロボットとの違い。
 ロボット達は「目的」を持たされて生まれて来、それを果たす事を求められる。
「子守をしろ」「特定のスポーツ用」「街の治安を守るため」「世界最強となれ」など。
 それができない場合、修理され改造され、ヘタをすると廃棄されてしまう。
目的の不達成が、存在意義の否定にさえ つながってしまうのだ。
 対してアトムは、当初こそ「天馬博士の息子・トビオの代わりになる」べく作られたが、記憶のリセット(?)によって現在その目的は消去され、しかし周囲は それを良しとして自由に成長する事を許している。

 果たすべき目的が無い事(「人間の友達になる」という漠然としたものはアリ?)で、自分は何者であり 何を成すべきなのかを探し、自身で規定した後に、それを実現していく成長の余地が生まれる。
 アトムは、子守が出来なくても、スポーツに特化しなくても、地上最強でなくても、「アトム」で居られる訳だ。
 そう考えると、アトムは人間として「作られた」事ではなく、人間として「育てられている」事こそが特別で、重要なのだろう。
 人間に「生まれる」のではない、人間に「なる」のだ…って誰かの言葉であったような。
(フランスの作家であり思想家、ボーボワールの「女に生まれるのではなく、女になるのだ」という文を元にしてる?)

 いや、人間でも「一流大学へ行け」「医者になれ」「自分の会社を継げ」など、親が決めた目標を最初から背負わされているケースなど、珍しくもない。
 彼らは、生きる途中で親の期待を自分の到着点として理解し、受け容れる過程を経ない限り、ロボットと変わりないように「育てられてしまっている」、という事になるだろうか…

 ウランに、歌とは何かを尋ね、花の首飾りを拾い上げて渡し(次のカットで無くなっていたのは描き忘れていたのか作画の手間を省いたのか)、爆散する破片からウランを守る優しさを見せるプルートゥ。
 彼はここで、「作られた」目的を超え、より善いものに「育とうとして」いる。
 でも、無理解な親は そういう成長を許容できないモノなんだよね。
親=天馬博士の成長こそが求められる所だが…


2003年8月3日 日曜日

『機動戦士ガンダムSEED』43.「立ちはだかるもの」

 艦長となったナタルが指揮を執る、アークエンジェル級戦艦との戦い。
白と黒、2隻のアークエンジェルは、そのままマリューとナタル、歪んだ軍から離れ行くものと残るものの2つに引き裂かれた、心の表れかな。

 無能な上司と袂を分かつ事が出来たせいか、実に有能な様を見せるナタル、素敵〜( ^_^ )。
 劇中での扱われ方は「凄いヤツ」風だったのに実体はダメダメだった砂漠の虎と違い、実戦を画面で見て「やるなあ」と感じ取らせてくれたのは嬉しい所。
先にミサイルを「置いて」おき、そこにアークエンジェルを追い込んでいく手並みなんか、「ああ」と声が出るぐらい。
 かつての上司や部下を攻める辛さを押さえ(降伏勧告が、示せる好意の限界)手加減せず、艦長としての(恐らくは)初陣で勝利を収めつつある高揚もまた微塵も感じさせずに、軍人らしく与えられた職務を遂行していく彼女はとても格好イイ。
…行くべき道を見失っているように見えるアークエンジェル一行よりも、職務に忠実な彼女の方が輝いて見えるのでは、テーマ的にマズくないか?という気はするが。

 ただ…今回冒頭で示されたシミュレーションで、不慣れな部下のため艦の能力を発揮させる事が出来ず苛立つ彼女、というシーンは何のためだったのだろう?
彼女の指揮能力に寄らず、部下の訓練不足を原因としてアークエンジェルに敗退する、その理由付けのためかと思ったのだが、実戦では皆 テキパキと働いてくれてるからなあ。
 シミュレーションを受けていた時と実戦に出ていた時では、乗員が違うとか?

 地上戦でフリーダムとジャスティスに敗退したというのに、またもヤク中3人組のガンダムのみ(ザコも加わっては居たようだが)という不利な戦力で戦いを挑む、連合の神経が分からない。
アークエンジェル側は、戦力を増強しているぐらいなのだから。
 更に改造を加え無理矢理3人組の戦闘能力を引き上げたとか、乗機に新兵器を取り付けたとか、「今度は負けない」理由付けが成されているならともかく。
 また、そのような艦に乗り込んで出撃する連合黒幕のお兄ちゃんも理解不能。
オーブ攻めの時とは違い、直接攻撃に参加する艦なのだから、ヘタすると死ぬ可能性もあるだろうに。

 カガリの乗るクサナギに絡み、その自由を奪ったケーブルのようなモノは何?
ナタルの仕掛けたワナか…とも思ったけど、事前に発射したミサイルは別の役割を持っていたようだし。
 破損したコロニーの構成部品?
それならそうと説明があっても良さそうに思う。

 ニュータイプの煌めきを見せるフラガに爆笑。
その懐かしい光と音の効果はマズいって。
 彼とクルーゼの結びつきを示したんだろうけど、オールドファンなら目覚まし時計の音を聞くのと同じぐらい過敏に反応し、そういう自分に笑ってしまうぞ。

 いや、今回はとにかく「強敵となったナタルとの再会」を描けてさえいれば、それでオッケーなのだが。
 難点は抱えつつ、脚本も演出も、ラストに向けてテンションが上がってきたように思う。


2003年8月2日 土曜日

『HAPPY★LESSON ADVANCE』05.「ソワソワ★修学旅行」

 修学旅行ネタ。
普通、現実の奈良とか京都、あるいは一気に沖縄へ行かせるものだが…
「ツッコミ大仏」とか「男女でバンジージャンプすると永遠の愛を得られる心中橋がかかった清水風の舞台」がある所ってドコかね(笑)?

 修学旅行といえば、学生生活中でも最大級のイベント。
もっと時間をかけて、前後編にしても問題なかったと思うな。
 これ一話だけで、駆け足気味に終わらせたため、せっかく日常から離れた特殊なシチュエイションを用意できるチャンスを逃してしまったような。
まあ、「一軒家で5人の先生ママと同居」という「日常」の方が、修学旅行などより余程 現実離れしているのか。

 いや、少人数の班行動とか、夜中に旅館で2人きりとか、美味しい部分は押さえてあるので文句がある訳じゃないんだが。
 旅行ネタ好きだから、もっと色々なパターンを見せて欲しかったなー、というだけ。

 むつきの危険運転。
 学校の先生で かつ暴走ドライバー、というキャラを見ると反射的に『あずまんが』の ゆかり先生を思い出してしまう。
ふみつき辺りが心に傷を負ってガクガク震えながら「おばあさんがおばあさんが、逃げてー!」とか言うと笑ったかな(本当にそうしたら、パクリだとか貶されるだろうが)。
 スピード感のあるドライブシーンは、恐っ!を実感させるのに十分だった。

 布団に押しつぶされて、上下に重なった ふみつきと、気絶した主人公の唇が次第に近づいていく所。
イイねえ。
 他で見た事が無いシーン、という訳ではないが、ここで大事なのはオリジナリティーより「気持ち良さ」なので。
 今回メインに据えられた ふみつきの、間近に主人公を見てのドキドキ感と、聞こえないのを良い事にしての告白が楽しく、切なく、愛しい。

 帰りの列車内。
眠る主人公を膝枕してしまう格好になる ふみつき。
潔癖メガネ委員長の彼女なら普段は突き飛ばす所だが、周り中が旅行疲れで眠っており他人の目が無い事で、素直に受け容れられた。
 んー、布団部屋でも、不可抗力のキス(したのかな?)をきっかけにせず、誰かがドアをノックする音が聞こえた瞬間に主人公を突き飛ばす、という風にしておくと、対外的なイメージを頑なに守ろうとする余り素直になれない、でも本当は好意を表したい彼女の可愛さが際立ったかと。

 しかし…新キャラ・ながつきは、もう少し物語をかき回したり主人公の気持ちを問いただす役割を担っていくモノと予想していたが、既に無害化。
 他人の感情が上手く理解できない男装の麗人であり、それはそれで可愛いからオッケー、にも出来るんだけど。
 現状ちょっと、物語上の存在理由が薄いかな。

 オマケ、のようなオチには笑った。
 ストレス無しに気持ちよく見られる、楽しい作品。



テレビスペシャル『ルパン三世/お宝返却大作戦 !!』

 おお、思ったよりは全然マトモだ。
柏原 寛司氏が脚本を手掛けたスペシャルは ほとんど面白いと思えた事が無く、警戒して見ていた割には…まあ悪くないレベル。

 作画は、ルパンの赤ジャケット、次元の鼻、五ヱ門の顔立ちなどから、『新ルパン』と呼ばれるシリーズ2作目を元にしている事が分かる。

 冒頭、金庫を狙うシーン。
 次元による狙撃で電線を切り、非常電源に切り替わる一瞬を突いてハッキングし、用意したダミーの映像を監視カメラに流す。
久しぶりな気がする長距離スナイパー・次元が見られ、単純に嬉しい。
 その細工を、停止した空調のヒモ(ご家庭の扇風機じゃないだから、こんなの付けるかね?)で見破る銭形の切れ方も嬉しい所。
 指紋・網膜スキャンの突破は基本的な方法。
 キーを解除する電子装置は…誤魔化されているようで余り面白いモノじゃないけど、今日的には こういう見せ方しかないかな。
『007』でも扉の解除は、「不思議な機械によって行う」事になってるし。
 トランクを開ける時の、液体窒素スプレー(?)で凍らせ、脆くなった所で錠前を叩き壊すアイディアは、なるほど、納得できる。
 カジノ逃走中の「ゲッツ!」ポーズとか、萎えさせてくれる部分もあるけど、モーターボート・チェイスの最中に追っ手によって撃ち出されたロケット弾を、発光弾(かな?)をオトリに迎撃する次元は格好良かったねえ。
 この辺りまでだけでも、並のスペシャルより頑張っている。

 キャラクター。
 金髪の女傭兵。
冷酷でありながら、オーナーには激しい愛情を感じているという二面性は面白いと思う。
オーナーのキャラがハッキリしないため、どこにそこまで惹かれたのか…とか不明な所もあるんだけど、まあ彼と彼女、利用し合っているようで惹かれ合う、2人で1つの存在として描いた、という事か。
 彼女をきちんと凄腕に見せてくれるのは結構。
 敵対する五ヱ門、『新ルパン』では致命的なほど女に甘かったはず…ケガをしていた事もあり、手加減する余裕がなかったのかね。
いや、五ヱ門は、特に柏原シナリオでは「バカ」として描かれる事が多かったので、「女にも容赦しない剣士」にされる程度なら比較的良い方かと(笑)。
 斬鉄剣と斬り合えるナイフは不思議だけど…まあ あの剣の設定はコロコロ変わるから(笑)。
使われたナイフもまた、隕石から打ち出されたのかもね。

 ルパンが脱獄する時のプラスティック爆弾による手口、倒れてくる壁の、丁度窓の位置に立っていて助かるバスター・キートン喜劇のような銭形。
これらを何度か繰り返し、しかも最後には ちょっとヒネって見せるのは、上手い。
 次元のリボルバー拳銃への こだわりも、繰り返し語られ、それが敵との決着に関わってくる辺り、シナリオの妙と言える。

 これまでのシリーズへのオマージュなシーンも見受けられた。
 墜落するクラシック・プレーンで次元が頭の後ろに手を組んでいるのは『新ルパン』「死の翼アルバトロス」だし。
 アウトバーンで赤いスポーツカーに乗り換える一連のアクション。
ロングで全体を捉える間に、短く、ハンドルを握る手、ギアの切り替えなどをアップで入れる見せ方は、『新ルパン』のオープニングであったなあ。
 車とヘリのチェイスと、その機体を切り裂く五ヱ門は、映画『ルパンVSクローン』。
 バイクの後ろにマーメイド像を積んで走るシルエットのルパンは、『旧ルパン』エンディングから。
 シーンじゃないけど、オレのポケットには大きすぎらあ、な お宝は『カリオストロの城』みたいだよね。
サグラダ・ファミリアでの高所を目指す追っかけっこは、宮崎 駿つながりで『長靴をはいた猫』のよう。

 良くない所も、ある。
 冒頭の盗み出し方に比べ、お宝を返却していく過程には面白味が欠けている。
もう少し困難な課題を設けたり、タイムリミットをキツくすれば…
それともいっそ この辺りは全部切ってしまうという思い切った手もあったかと。
 トリックダイヤの在処はルパン以外には伝えないから連れてこい、とデータ中のマークに言われながら、それはそれとしてルパンがダイヤを手に入れてしまう所、話が上手く繋がっておらず拙い。
 五ヱ門と女傭兵、一対一の対決中に、マグナムで相手の銃を弾き飛ばす次元。
真剣勝負にこだわる五ヱ門は怒るだろうな…と思えば「かたじけない」…
言わないと思うよ、それは。
やっぱり五ヱ門が理解できてないような。
 サグラダ・ファミリアの完成像を見せる事を「宝」にしたのは なかなかのアイディアだと思うが、見せ方がもう一つ分かり辛くてスッキリしない。
 大抵は足を引っ張るだけの不二子でさえ( ^_^ )所々冴えた所を見せ、全体にキャラの扱いは巧かったけれども…ルパンのライバルだったドロボウ、マークを叔父に持つ女の子だけは、出す意味無かったんじゃないかなあ。
抱える中途半端な悩みも、うざったいだけで物語に絡んでこないし。
 などなど、あげつらおうと思えば いくらでも出来るが…

 面白いモノが非常に少ないスペシャル作品群の中では、「悪くない」レベルに達しているだけで貴重。
『新ルパン』シリーズの、長い一本、と考えれば十分満足がいく出来。
 アクションの面白味などは、コンテの良さに寄っている所が大きいと思う。
『真ゲッターロボ』『009』の、川越 淳監督の力かな。
 これぐらいの水準を維持できるなら、来年のスペシャルも楽しみに待てるのだが。

 ついでに声優さん。
 ルパンの栗田 貫一は…相変わらず「腰」の入ってない演技だけど、こちらが慣れたせいもあり、こんなモンかな、と。
 銭形の納谷 悟朗、最初登場した時は「ヤバイ」と思うほど力が抜けた声。
次第にまあ、聞けるレベルになったが、力強さは感じられない。
 五ヱ門の井上 真樹夫も、声に張りが無く…
 うーん、レギュラー勢の高齢化は深刻かも。
さすがにもう、「お疲れ様でした、ありがとうございました」にして、本気で入れ替えを考える時期だと思う。


2003年8月1日 金曜日

『宇宙のステルヴィア』18.「とおいこえ」

 80日間の不在により、仲間達との間に距離を感じてしまう志麻。
 『トップをねらえ』だと、ウラシマ効果によって年単位での差が生じてしまっていたなあ。

 彼女の孤独感を増した要因はもう一つ、「天才」と呼ばれ、扱われ、羨まれる事で生じる疎外感。
 落第生は自ら抱く劣等感によって周囲と距離を「取って」しまうが、優等生すぎる人間は周囲に引け目を感じさせ距離を「開けさせて」しまう。
 光太ほど、巨大な才能に恵まれる代わり、常人には必要な何かが大きく欠け落ちていれば、そんな些事に煩わされないで済んだのだろうが…
ただそれは、傷つかないで済むという事で幸せなのか、傷を(仲間と)克服し成長する歓びを感じられないという事で、不幸なのか。

 謎の勢力によるウルティマ消失・爆破は、人類の宇宙への足がかりであるステーションを破壊する敵対行動なのだとばかり思っていたが、えーと、よく分からん効果によってコズミックフラクチャーの到達を遅らせる作用をもたらした、とか。
その到達により地球破損の危機が生じるなら、この行為は感謝に値するモノなのかな。
 相手側にすれば、見ず知らずの人類を助けてやろうと一生懸命やってるのに、何だお前ら攻撃なんか仕掛けて邪魔しやがって、恩知らずにもホドがある終いにゃキレるぞコルァァ!って感じ(笑)?
 結局ウルティマ関係のミッションで、どのくらいの死者が出たのだろう。
その数によっては、コズミックフラクチャーにより発生するはずだった被害と比較して、納得できる程度の犠牲、と割り切る事も出来る…のかな?
 まあ、米軍の誤爆による民間人の死者数に比べれば。
しかも米の場合、目的が「相手のため」ではない訳だし。
 いや、このアニメだって、地球人のために起こした行動かどうかは分からないな。
そもそも相手がコズミックフラクチャーを作り出した張本人、という可能性もあるし。
これで一時しのいでも根本的解決にはなっておらず、いずれは地球に到達するモノでもあり。

 ところで、コズミックフラクチャーってそんなに地球に接近してたのか。
本来なら3日後着のはずが、60日後に伸びたようだが…
 もうちょっと危機感を持っても良いんじゃないか人類。
グレート・ミッションの不手際も、ウルティマでの作戦もそうだが、「死ぬ」「殺す」という事をあんまり真剣に考えてないようだなあ。
 シリアスとコミカルが奇跡的なバランスで混在していた『ムリョウ』だと、脅威に相対する人々が のんきに見えても構わなかった…それにあの世界には、いざという時には事態をどうとでも解決してくれそうな「超越者」が存在しているため、深刻になる必要もなかったし。
 が、油断すると死者を出す物語でキャラクターを「愚か」…とまでは言わず、真面目にやってない、と感じさせるのは、視聴者に要らないフラストレーションを溜めさせるだけで拙いかと。

 ウルティマ消失のテクノロジーって、この世界では普通?
そうでなければ、「宇宙人の仕業か」という疑惑が まず先に立ちそうなモノだけど。
 米ソ冷戦中の、UFOやら不思議なモノ何を見てもまず「ソ連の秘密兵器?」と考える疑心暗鬼の状態に近いのか?
 うーん…どうもこの辺りが実感的に分からないなあ。



 感想を書こうとして、困るやら嬉しいやら…なのが、他のサイトに、自分が感じたのと非常に近い感想が書かれているのを、自分で文章化する前に読んでしまう事。
 同じように感じてくれる人が居る、というのは単純に嬉しい。
 でももう、同じ事を再度 自分が書く必要はないだろう、とも思う。

 実際には、100パーセント同じ感想、という事はまずあり得ないが。
7割 8割一緒だと、残り3割程度のものをわざわざ文章に書き起こす必要があるだろうか?と(個人的に面倒がりな事もあって)考え込む。
 他の人とは違う事を思った、その残り僅かなパーセンテージの中にこそ、独特で面白かったり「そりゃ違うだろ!」だったり、とにかく読む人にとって価値のあるモノが含まれている可能性も あるんだけど。

 という訳で。
「思ったことと近い」と言って頂けましたのは大変嬉しいですMedia Generation様(『踊る2』感想)。
 つまりは、先にそちらで書かれていたなら、こちらが書く事に困っていただろう、って事ですね( ^_^ )。


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