ときどき日記 03/09(後)

2003年9月30日 火曜日

 タイムスリップグリコ第4弾
6箱買ったのに、ウルトラ関係は2つだけしか出ず。トホホホホ。
出来は良いんだけど…
 新しいデジカメを買った事もあり、ちょっと撮影。


 色合いを直したりと、少々細工してみました。
 カッコいいなあ。
 ところで こういうオモチャの画像をアップして、著作権関係は大丈夫…かな?


2003年9月29日 月曜日

『HAPPY☆LESSON ADVANCE』最終話.「ワイワイ☆お別れの日」

 今シーズンでの「売り」は、一文字むつきを「ママ」と呼ぶ転校生、九龍ながつきにあったのだと思う。
 しかし…正直な所、彼女を上手く使いこなしていたとは言いかねる。

 5人の女教師であり、ママ代わりとなってくれる年上の女性達と、一つ屋根の下で主人公は同居生活を送る、という、『シスタープリンセス』並に、いや一部はそれ以上に無理がある設定に、波乱を起こすのが ながつきの役割だったはず。
 …想像するに、このキャラは「上」からの指示で入れたものではないだろうか。
物語としては、どう見ても彼女を必要としていず、それどころか持て余しているのが明らかだったから。

 波乱は、起こしてはいけなかったのかも知れない。
アニメ版の『シスプリ』で、「君達の父親はドコにいるの?」とか「妹達はお互いをどう思っているの?」という疑問を劇中で表させては ならないように。
 本気で波乱を起こしてしまうと、色々な事を無視してようやく成り立たせている この作品の設定が崩れ、止めようのない変化が起き、「終わり」に向かってしまう。
永遠に心地良い日常を(客にも、疑似体験として)過ごさせるのが目的であろうこの作品で、「終わり」が見えてしまう事は許されまい。
 だから、ながつきは主人公を追いつめない。

 異物である彼女をドラマの中に組み込むべく、むつきを、主人公と並んで「ママ」と呼んでいる事から、「2人は兄妹のようなもの」という概念を入れてきたのには、上手い!と思わされた。
 この表現によって彼女は安定し、しかし本当に、既に事足りている物語にとっては、余計な存在になってしまった。

 決してつまらないシリーズではなく、毎回、なかなかに面白かったのだが、基本的にこのフォーマットで出来る事は第1シーズンで やり終わっており、それを超える「何か」が見られなかったのは残念。



 『機動戦士ガンダムSEED』がヒットした事について、浅〜く考えてみる。
 商売としてはプラモが売れた事が最も大きいのかも知れないが、その辺には詳しくないので、DVDの驚異的販売本数から、本編に好意的な人が多いのだろうと仮定して。

 物を売る時には、パッケージングが大事なのだと思う。
「広告に偽り無し」というか。
 ラーメン屋に入って出された物が、かなり美味しくても、自分の理解の中では「うどん」の範疇に入ってしまう味の料理であれば、多くの人は拒否反応を示す。
「美味いなら何だってイイや」と思えるのは、ほんの少数の、許容範囲が広い、些事にこだわらない人だけ。

 かつて、アメリカで作られた、『インデペンデンス・デイ』の監督であるローランド・エメリッヒによるゴジラ映画、『GODZILLA』があった。
 個人的には なかなか面白い怪獣映画だと思えて気に入っているのだが、世間的な評価は、取りわけ日本では低くなかっただろうか。
 よく聞かれたのが、
「ヘリごときに追われて逃げ回るゴジラはゴジラじゃない!」
「放射能火炎を吐かないじゃないか!」
「タマゴを産むとは何事だ!」
「元が恐竜ではなくイグアナだなんて言語道断!」
「ミサイルで死んでしまう弱さにはガッカリ」
というような意見。
 こんな「ゴジラとは呼べないシロモノ」を、名前だけ使って(騙って?)公開する事に、抵抗を示す人が多かった。
 アホんだらホンマにゴジラを愚弄しとるのは日本で正統な「ゴジラ」シリーズとして駄作を作り続けとる制作者の方なんじゃあ!…と、よくケンカをしたもので(笑)(最近の映画は良くなってるけど)。

 人には、持った「ゴジラ」のイメージがある。
それから外れてしまっては、一本の怪獣映画として どうだろうが、「期待はずれ」「つまらない」という評価になってしまう。
 例え映画として面白くなくても、ゴジラ像が守られている日本版シリーズの方に、より価値を見出してしまうのだ。
 多くの人のキャパシティーは、思うよりずっと厳しく、狭い。

 で、『SEED』。
 初めて見る「ガンダム」がこれだった、という人には、特に支障ないだろう。
 問題はオールドファン。「ガンダム」に固定観念がある人達。
 彼らにとって「ガンダム」とは何なのか?
「宇宙にまたがる戦争が舞台。スペースコロニーもあって欲しい」
「天才的な戦闘能力を持つ主人公が、心ならずもガンダムに乗り込んで戦う」
「一つの船に同年代の若者達と一緒に乗り込んで、色々葛藤しながらさまよう」
「ガンダムは凄く強い」
「敵対する側に仮面の男が居る」

…等々、こんな感じ?
 思えば、ファースト以降、これら「ガンダム」というブランドに求める要素を、全て満足させてくれたシリーズがいくつあったか?
 正統な続編である『Z』『ZZ』は、比較的 満たしていると思う。
しかし、ヒネくれ者の監督( ^_^ )が、違う物にしようとしている意図を、強く感じては しまう。
 『Vガンダム』は、もう 全然別物。
 『W』『G』は、独立しては面白いけれども、論外。
 『X』…実はコレもファーストに近いと思うんだけど、戦争が終わった後の話であり、地味な印象があったためか、「失敗作」にカテゴライズされてしまっている。
 『∀』。これ、「ガンダム」かなあ?好きだけど。

 考えてみると、『SEED』ほど臆面もなく、人々が求めるファーストの要素を取り入れ…そのままなぞったシリーズって、無い。
 忙しく働いているのであろうファースト世代だった人々にとって、毎週必ずは無理だが時折テレビをつけてみると、「ああ、ランバ・ラルね」「ジャブローに着いた訳ね」「ア・バオア・クーね」「おお、出た出たニュータイプの閃き」と、重ね合わせて分かり易く見られる事は、大きな利点でもあったろう。

 客は「ガンダム」に「ガンダム」である事を求める。
「ガンダム」である事以外は求めない、とさえ言える。
 プラモ・ゲーム・食玩などで周辺から「ガンダム」を求める流れが起きている今、意図せずかどうか、その「期待」に応える形になった事が、ヒットの大きな要因なのではないだろうか。


 …って強引に締めくくろうかと思ったけど、自分で書きながら だいぶ無理があるなあと(笑)。
 そもそも そんなに頭が固い層が、敵も味方もガンダム乗りという状況を受け容れられるのかどうか。まあ、『仮面ライダー龍騎』が、多人数のライダーが入り乱れる物語で人気を博したりしたけども。
 そのライダーシリーズの方は、「仮面ライダー」という枠から外れるような(本質的にはともかく)作品を創り、ヒットしている訳で、客がみんな頭が固いとは思えない。
 『SEED』だって、かなりファーストと違っている。特に連合からの離反以降は。
 大々的な広告の打ち方と、放送時間帯の良さもヒットの大きな要因だったと思うが、言及してないし。
(掲示板で、MATS さんから、「やおい要素」の指摘を頂きました。あー、そうかそうか、それもあったんだ)

 まあまあまあ、薄い思考実験だから、ね。


2003年9月28日 日曜日

『機動戦士ガンダムSEED』最終話.「終わらない明日へ」

 色々と物議を醸し出してきた この巨大な問題作も、ついに完結。

 フレイの死。
 スタッフとしては、フレイがもしもアークエンジェルに無事帰還できていたとしたら、どういう扱いにするつもりだったのだろうか?
 キラは既にラクスの下僕(笑)になっている訳で、その関係を無心に喜んであげられる程、少なくとも物語の積み重ねとして彼女は成長できていないだろうと思うが。
 フレイの存在を、目の前でアピールされている間しか思い出さない鳥頭のキラと再会しても、ドラマとしては酷いシーンしかできまい。
 だから、殺した。
どうにも、扱いに困ったので処分したという風にしか見えず、画面から一気に心が離れてしまう。

 その見せ方も、キラが発作的に脱出艇に近づきさえしなければ、クルーゼの標的にされる事もなかったんじゃないかと思える。
 「クルーゼが殺した」事実。
最終回まで来てキラとの因縁を強化しておきたかった、という程度の事情しか読み取れず、「フレイ父と同じ声をしている事」「フレイを拉致し、ザフトに連れ帰ったが行動の自由を許していた事(そうかと言って、可愛がっていた訳でも、虐待した訳でもないが)」「ディスクを持たせて返した事」これらの、ここまでの経緯が まるで無駄になってしまっている。

 死んでしまえば皆、仏、という訳でなのか、劣化ララア然とした霊体になってキラの元に現れるフレイ。
…ララアとアムロは、事前にニュータイプ同士の感応を見せているから、死をものともしない再会に意味があったが、キラには死んだ人間の魂を見る力など これまで無く、ヘタすると、「自分を肯定したいばっかりに脳内フレイに勝手なセリフを喋らせている」とさえ見えてしまう。
 で、何だか分からないけどもやたらと彼を「赦す」。それどころか、「謝りたかった」とまで言い出す騒ぎ。「あなたを守るから」とかね。
全部、「脳内フレイ」だと考えると辻褄が合うなあ。

 フレイは、一時期 物語を強力に引っ張っていってくれた功労者ではないのだろうか。
 誘拐以降、そんな彼女を「活かして」あげる事が出来ず、最終回ではきちんと意味ある形で「死なせて」上げる事も出来なかった。
 不憫。

 「悪いのは全部、私」とフレイに言わせる事で、汚れ無き「白」のままで居させられたキラもまた、十分に不幸な扱われ方だったのかも知れない。
苦しみ、悩み、泥だらけになりながら何かを掴んで もう一度立ち上がる過程を経なければ、魅力ある強い主人公たり得ないから。
 過保護なママに敷いてもらったレールの上を、障害物は小石に到るまで またママに取り除いてもらいながら、波乱無く(アトラクションのような波乱はアリ)進んでいったように思えるキラ。
そのため、「人間」になる事が出来ず、ママの可愛い「お人形」であるに留まってしまった。
 それは彼個人の責任ではないのかも知れないが、そんな育てられ方をしたキャラクターと、友達になりたいなどと視聴者が思えるはずもなく。

 キラが最後に戦う相手は、クルーゼで良かったのかな?
 アムロとシャアは、シリーズを通して描かれてきた対決の宿命があったし、アムロは「一兵士として戦い、生き残り、仲間も守りたい」だけで、「この不幸な戦いを止めたい」というような大それた考えなど無かった訳で、戦って終わっても良かったのだが。
 クルーゼとの戦いは、キラの一番の目的に近づくためのもので あり得ただろうか?
 まあ、アズラエル、アスラン親父、それからチョロチョロ暗躍していたクルーゼを皆殺しにすれば終わる、安い戦争だったみたいだから、意味が無いでも無いのかなあ。

 他、不満点を列挙。
 ナタル、そしてフラガが命がけで守ったアークエンジェル・マリューなのに、「生き残るだけの価値」を表すチャンスが与えられなかった。
 ラクスは、結局この戦争を終わらせる方策を、特に考えていなかった訳ね。
 生き恥を晒しただけに終わった砂漠の虎。
地上で死んでいても同じだったな。せめて特攻でもさせてやれば良かったのに。
 逆上して部下を射殺するアスラン親父。
まだ自分に正しく指揮権が残っている状況で、何故こんなアホみたいな実力行使?
「こいつを監禁しておけ」で済んだはず。
アズラエル、クルーゼと並んで安っぽい「キチガイ」に描かれており、醒める。

 クルーゼとの禅問答の最中、キラが、自身に投げかけられた否定的なセリフを回想する所で、フレイの「あんた、自分がコーディネーターだからって…」も思い出すのだが、何も ついさっき謝って消えていったフレイの こんな言葉を…
 クルーゼは結局何を言いたかったの?
人間はしょーがないものだから死んだ方がいいって?一対一で殺し合いしている時に そんな事言われてもなあ(笑)。
ナニガシか一年間のシリーズを通した積み重ねもあろうに、それに まともに反論 出来ないキラもどうか。
 クルーゼの仮面の下はどうなってたんだろう?
いや別に終わった今となってはさほど知りたくないが、明かす気がないならスタッフ、どうして意味ありげに隠していたのかは気になる。

 やっぱり、悪い責任者さえ死んだら それで終戦。
レビルが死んでもデギンが死んでも止まらない、巨大で個人の力が及ばない「戦争」とは随分違うな。
 連合首脳部にはブルーコスモスがまだ巣くっているはずで、これで争いが終わるとは思えないが…

 作画は良く、戦闘シーンへの枚数のかけ方は特に凄かった。
 画面的には…余りにもファーストガンダムから引き写したシーンが多く、懐かしいより先に笑って、醒めてしまう。
シリーズの入り口はファーストガンダムだったけど、出口までファーストの引き写しだったな。

 シリーズを見終えて。
 『電童』の監督が手掛ける『ガンダム』という事で、期待して見始めた この作品。
 中盤辺りは かなり面白い回もあったため、そのままテンションを上げていけば後半は名作化さえするのでは、と期待したが、フレイ拉致、バカなアズラエルの台頭、魅力のない連合3馬鹿ガンダム乗りのレギュラー化などで盛り下がり、最終回近辺のグダグダさ加減もあって、印象としては余り良いモノが残っていない。
ドミニオンとの激闘、フラガの最期など、レベルの高い部分もあったのに。

 物語が目指した方向は悪くなく、キラとアスランの確執、ナチュラルとコーディネーターの関係も、描きようによっては ずっと面白く出来たろうと思う。
 練り込みの不足と、シリーズ構成の弱さ。
何より、キャラクターを「コマ」としか考えていないような、内面の描き込みの薄さ、扱いの酷さ。
 そういうものが せっかくの素材を台無しにしていったのではないだろうか。
 残念な出来。



『高橋留美子劇場』最終話.「専務の犬」

 かつての親友でもあった現専務の犬を、無理矢理に預けられてしまう家族の悲喜劇。
 …というと、同劇場で既に映像化されているペンギンのエピソードと被りそうなモノだが、アレはペンギンを切っ掛けにして噴き出す団地内の人間関係がテーマであり、今回の話とはまるで別物。

 サブタイトルの「専務の犬」には、字面通りの「専務が所有している犬(ゴールデン・レトリバー)」という意味と、「地位が上である専務の言いなりになっている旦那さん(悪い意味で使われる「犬」そのもの)」という二つの意味をかけてある。
 物語の仕掛けとして、家の中で一番強い者を敏感に感じ取って擦り寄る犬と、強いストレスによる旦那の脱毛症が、非常に効果的に使われていた。
犬には最初から見下され、酷くなる脱毛症で示されていく旦那の鬱屈が、ラストの大逆転(伏線の巧さには唸る)でカタルシスにさえ換えられていく構成の見事さは、さすがトップを突っ走る漫画家!としか表現しようがない。

 派手派手なだけのバカ女に見えながら、所々で魅力ある人間性を見せてくれる愛人の声を、昔懐かしい平野・ラム・文が演じていたのも嬉しい所。

 シリーズ全体に。
 作画は安定していたとは言い難いし、演出的にも もうちょっと…な部分はあったが、原作のパワーを無くさない作りには出来ていたと思う。
 子供よりも、様々な軋轢に日々 汲々としているオトナが見て、息抜きになったり「分かる分かる」だったり笑ってしまう事で救われたりする作品。
 面白かった。
 次週からは『人魚の森』か。


2003年9月27日 土曜日

『住めば都のコスモス荘・すっとこ大戦ドッコイダー』最終話.「熱血バトルでドッコイ」

 流刑星の大地に朽ち果てた姿を晒すロボット・栗華。
…という、大変にショッキングなシーンから幕を開けた最終話。
 獄中のDr.マロンフラワーが呟く「楽しい夏じゃったなぁ…」という言葉が、陽気な「夏」の終わりを思わせ、秋、そして誰にとっても厳しい冬の到来を感じさせてくれる。

 大量の宇宙警察武装パトカーを相手に、力の限りの戦いぶりを見せるドッコイダー。
 小鈴が去って、コンビニご飯やお菓子の類ばかりを食べていたため底力が発揮出来ない、彼女の手作り料理でなければ、という鈴雄のセリフがイイ…けども、その料理って、とても人類が食べられるようなシロモノではなかったような(笑)。

 無力化される「熱血α波発生装置」。
「そのスーツには最初から…」と言いかける小鈴だが、発生装置が無いってのは第一話時点でもう明らかになっていたような。
 ここで落とすなら、無い事実は ひた隠しにされていた方が良かったかも。

 ドッコイダーを助けに現れるDr.マロンフラワー。そして、ヒヤシンス、エーデルワイス。
 同じ釜の飯を食い、楽しい「夏」を過ごした仲間として、敵味方の立場を超えてやって来るその姿にはジーンと来るが…
 脱獄のディテールがもうちょっとあっても良かったかな。
地球でのドッコイダーとの激闘を経る事でスキルアップしたDr.マロンフラワーの技術が、あるいは戦いのために新たな機能を組み込んだ栗華のパワーが、以前は不可能だった脱獄を可能にしていくとか。
 彼からの連絡と、地球へ戻る提案を受けたヒヤシンス・エーデルワイス 2人のリアクションも見たかった。
当然ながらの拒絶。ドッコイダーの正体、そして現在の窮地を知ってからの葛藤。両女性の意地の張り合い。彼女達にもよぎる「夏」の記憶。
 ココでも十分に「泣き」に出来たと思い、勿体ない。

「私たちは今、A級宇宙犯罪人として手を貸している訳じゃなくってよ。コスモス荘2号室住人、岼根沙由里として」
「3号室住人、梅木瑠璃として」
「1号室住人、栗之花栗三郎として」
「鈴雄ちゃんのお友達として、命を張って手を貸してる。文句があるならかかってらっしゃい」
「受けて立ぁぁぁつ!」
 この辺りのセリフの盛り上げ方は とにかく上手くて、鳥肌立ちっ放し。
 上に書いた「脱獄のプロセス」が無い事で、このセリフがより生きている部分もあり、そう考えるとココで考えたような事は蛇足とも。

 高性能戦闘メカ・オサバキーの襲来。
 大気圏を抜けるのに戦艦が欲しいという言葉に、ここにある、と余裕の笑みで答える小鈴。
 なんと、コスモス荘全体が宇宙戦艦だったのだ。
アパートが宇宙へ!まるで『sakusaku』(TVKテレビ)で増田ジゴロウが管理人を務めるアパートではないか!(知ってる?)
 しかし…何を思って戦艦に変形可能なアパートを建てたのかなあ?
宇宙犯罪人が反抗的態度に出た時の対処用?
それにしては、鈴雄の記憶まで消して地球を引き払う際にも残してあったみたいだし…
廃棄寸前の老朽艦だから どうでも良かった、と考えるには高性能そう(体当たりでオサバキーを撃墜する程の能力)。
 一機ずつのオサバキーの力は、あんまり大した事が無さそうに描かれている。
安価で量産でき、質より量を持って責め立てる戦闘機なのかな?

 宇宙戦艦コスモス荘を救うため、一人、オサバキー全てをコントロールする機体に向けて出撃するDr.マロンフラワー。
 「そこで年寄りの出番という訳じゃ」というセリフと、栗華との深い信頼関係を示すやり取りが余りに格好良く、泣ける。
 「小僧、楽しい夏じゃったぞ」と呟き、その最期を華々しい「祭り」にすべく どデカい花火を打ち上げて見せる。
 どうせ死んでないんだろう、とは思いつつ( ^_^ )、涙腺に来てしまう。

 相変わらず間抜けな姿のゴーレムを繰るエーデルワイス。
だが、対ドッコイダー戦のような「夏」っぽい陽気さが皆無の戦いに、怯えて自身は物陰に隠れ、震える。
 「妾に何が出来るというのじゃ?粘土細工一つロクに出来ない。友達も居ない!何一つ意味のある事など成し遂げた事が無い!妾なんか、妾なんか…」
恐怖に、幼少時から続いているのだろうトラウマが噴き出してしまうエーデルワイス。
 そんな彼女を認め、励まし、自分は友達だと、姉のように優しく語りかけるヒヤシンス。
「ヒヤシンス」
「ん?」
「ありがとう」
「……お馬鹿さん」
という通話と、喋り終えた途端に血が噴き出し、「夏の花火」を思い出しながら力尽きてしまうヒヤシンス。
 この辺りの畳み掛けは強烈で、メテオ…じゃないエーデルワイスびいきの身としては、やっぱり涙腺に来る来る。

 再び立ち上がったエーデルワイスが、「その姿でパワーが決定される」粘土細工ゴーレムを練り直し、初めて そら恐ろしい最強の姿にする、というシーンがあると更に好みだったかな。
 それは、友を得てようやく自信を持つ事が出来たエーデルワイス自身の姿を模したモノでも良いし、恋する鈴雄になっても良いし、友たるヒヤシンスにしても。
八岐大蛇のごとく、アパート住人全ての顔を持つモンスターとか。

 悪の企みの、実にあっけない幕切れ。
逮捕できるのなら、最初からすれば…
 証拠が無い限りは何も行動を起こせなかった、って事かな?

 ネルロイドガール、登場。
 力を得て、一気に施設を壊滅に追い込んでいくドッコイダー。
 格好良かったけど、もうちょっと苦戦とかドラマがあっても良かったような…まあ、この作品の本当の主役は悪役3人組の方であり、そちらさえ描ければ良いのだという事は、誰しも分かっていただろうけど。

 うーん、とにかく詰め込みすぎで時間が足りなかったなあ、という印象。
最終話だけで前後編ぐらいあれば、もっと色々できただろう。
 でもまあ、ポンポンと話を進める事での利点はあろうし、余りにウェット方向に流れるのも このアニメらしくないとは言える。

 全体に。
 第一話を見た時には、作画は良好でも、内容的には良くある しょーもないパロディー物になっていくとしか思っていなかった。
 が、エーデルワイスのエピソードなど、非常に良い所があり、コミカルなお話としても視聴者を楽しませるべく毎回趣向を凝らした出し物を見せてくれ、全く崩れない作画も含め、シリーズを終えてみれば「実に面白かった」という感想になる。
 もう1クールあれば…とも思うけど、負担の大きい各話バラエティー形式で、長くこのクオリティーを保つのは至難のワザだろう。
 いやあ、良いモノを見せてもらった。



 ここにアクセスした際、ページの右上に、手裏剣のようなモノが見えると思います。
別に怪しいモノではなく、試みに、「忍者システムズ」さんのアクセス解析を入れてみました事で、表示されるようになりました。
 一昨日かな?普段より相当に多いご来訪を頂いておりまして、どこか大手からリンクでもして頂いてるのかなあ?と思い。
 解析を入れた時点では既に来訪者様数が落ち着いていたので、よくは分かりませんでしたが…

 杉の木アンテナ 様、萌え萌えアニメ日記 様が大変に多く、これは多分 いつもの事なのだろうと思います。

 特需景気と思われるのが、魂は永遠に彷徨う 様の9月25日記載、『ボンバーマンジェッターズ』最終回感想リンク。
 そして、毎度お世話になっておりますMedia Generation 様の9月26日、同じく『ボンバーマンジェッターズ』最終回リンク集。
 このお二方。リンク、ありがとうございます。
 『ボンバーマン』最終回に感動した方は、上記リンク集など辿ってみるのも一興かと。
どちらのサイトも、ウチなどより ずっと深い、読み応えのある事が書かれております。


2003年9月26日 金曜日

『カレイドスター』最終話.「傷だらけの すごい 復活」

 期待を煽られ続けた「幻の大技」とは…
重力を無視して2人が長時間空中に留まり、互いに回転して見せたりする事だった。
 そんなムチャな!(笑)

 この動きを見せるだけでは、単に「馬鹿馬鹿しいアニメ技」だが、それを「死を寄せ付けないほど強い命を表現しており、見る者にまで生きる力を与える」技だと言い表してみせる事で強引に納得させ、力ずくで感動にまで持って行ってしまった。
 佐藤 順一の演出力があって初めてなし得る、「幻の大技」そのものぐらいに、命綱無し一発勝負の、ちょっとでも間違えば客の嘲笑を浴びて終わる可能性すらあった、危険な賭けとなるクライマックスだったと思う。
 で、もちろん賭けには勝った訳で、この人は凄いなあ、と感心するばかり。
 『ガラスの仮面』の「紅天女」でさえ、佐藤監督なら、何とか映像化できてしまうんじゃ無かろうか。

 全体に。
 次々に襲い来る困難を、友情と努力と根性で乗り越えていく、昨今珍しい正統派の少女向け(?)サクセスストーリーで、主人公のアクティブさもあり、見ていて元気が出る楽しい作品に出来ていた。
 これでキレイに完結…だと思うが、まだ続くのか。
嬉しい事は嬉しいけど、この後は何をやるのか、若干不安な部分も。
 まあ、スタッフが同じであれば、ナニガシかまた面白いモノを見せてくれるだろう。



『ガドガード』最終話.「この世の果て」

 最終回といっても、実際には途中で終わっており、地上波放送以外の方法で本当の完結を迎える様子。
だから、一本のシリーズとしては まだどうこう言えない。

 アラシは なかなか魅力的な女の子に描けていたと思うし、最後まで崩れない作画も好印象だが…
 ここまで見た限りだと、描こうとしている物語には、ロボットが必ずしも必要ではないような。
 ガドは、『指輪物語』の指輪のようなモノ?
突然与えられた力に、ある者は振り回され、ある者はそれを用いる事で本当の自分を掴む。
 ただ…
物語中での位置付けが あやふやなままだった事もあり、とにかくガド達に興味を感じられなかったのが痛い。
その巨大な力も実感出来ないのに、暗黒面を語られても面食らうばかりで。

 努力してまで真のラストを見たいか、と言われると…難しい所。
これで終わりでも、それはそれで納得してしまう。



『まっすぐにいこう。』最終話.「正直にいこう!」

 全4回しかなかったアニメ。それなのに最初の1回は見逃しており、何とも。
 嫌な所のない、ほのぼの優しい作品で、見ていて心が和やかになる。
深夜に放送する意味は無く、夜7時台に、『あたしンち』の裏にしてぶつけても構わないぐらいの内容だったのだが。
 いずれ長期放送するための、テストだったのかな?
 崩した犬の顔が好き( ^_^ )。



 先頃、関東に大きな地震が来るという噂があった。
それは、予言されていた期日を過ぎても何も起こらず、単に人騒がせで済んだのだが…
 今朝 起きた北海道の地震は、笑い事でない規模であり、被害も及ぼしてしまった様子。

 ドコの土地でも、誰がどう言ったとか関係なく、常に災害には備えて、家具を固定したり食料や水を多少は溜めておいたり、近所の避難場所を確認しておく事は無駄にならないだろう。
いや無駄で済めばそれに超した事はないんだし。
 そういうウチは…本棚が倒れてきたら、死ぬかも(笑)。


2003年9月25日 木曜日

『ボンバーマンジェッターズ』最終話.「進め!ジェッターズ!」

 胸がいっぱいになる優しいエンディング。

 「優しい」で言うなら、子供向けアニメなのだから、マイティが生き返るとかゼロの体を割って中から出てくるとか(!)、何とでも極ハッピーエンドに出来たのだと思う。
 でも、それは「嘘」。
ヘタをすると、子供騙しにさえ なってしまう。
 死んだ人間は二度と帰ってこない。
ゼロの体内に記憶されていた映像に、必死で呼びかけても答えが返る事はない。
 余りにも厳しく寂しい現実。
 それでも、「自分たちを怨みながら死んでいったのではないか」と自責の念に駆られ続けた者に取り、そしてその死を受け容れる事が出来なかった者達に取り、マイティらしい穏やかさと、仲間を求める気持ちと、揺るがない勇気を持って その最期に臨んだ事実を しっかり確認できた事は、言い様のない程の「救い」「安らぎ」をもたらしてくれただろう。

 「嘘」が無いという事では、ゼロの体内を貫いたシロボンのボムもそう。
 ゼロの中の「邪悪な部分」であるMAXだけを、取り出して消滅させるボムだったのだろう。
 しかし、「邪悪な部分」はゼロ…マイティにも含まれていたのだ。
あんなに優しい、お人好しのマイティの中にも、「闇」は隠れていた。
「彼は凄くいい人だったからオッケーでした」で終わらない、人間の捉え方のシビアさには驚くばかり。
 そして、心の「裏側」が死んでしまう事で、一体である「表側」もまた、死へと向かう。
 人は、正しい心だけでは生きていけない。
それだけを取り出せば、血も涙もないMAXになってしまう「闇」を誰もが「必要なもの」として抱え、それでもなお人は、マイティのように正しく生きていく事が出来る。
 深く重く、限りないほど優しく人を見つめるスタッフの、魂が発する力強いメッセージに、「闇」ばっかりのオレはもうボロボロ(;´д⊂)。

 映像だと知りながら、いつもは冷静なバーディが、声を限りに親友に呼びかける。
「マイティ、ここに居るぞ!」
 ミスティの元に届くゼロからのメッセージ。
あの日、彼女に渡す事が出来なかったジェッターズバッジをマイティは拾い、キレイに修理して いつか渡そうとロッカーに仕舞ってあったのだ。
添えられたカードに「直しておいたよ」の言葉。
 ツボでもう、泣かされっ放し。

 父親の再婚を受け容れるシャウト。
 彼女はまた、いつの日か成長したシロボンに、ジェッターズ・リーダーの地位を譲る事を告げる。
 少しずつ、変わり行くもの。
 バカな理由で再開されるDr.アインと総統バクラーのケンカ。
 再び「宇宙に一つしかないもの」を巡って始まるドタバタ。
 変わらず、懲りないもの。
 そして、マイティが変えて見せた、彼そのもののような素朴な花は、しっかりと根付いて沢山の花を咲かせ、穏やかに全てを見守り続ける。
 シロボンの心に輝く最後のボムスターは、視聴者の心にも送られたものだろう。

 面白い、良いアニメだった。
こんなにも真正面から物語やキャラの成長を描こうとし、ここまで見事に成功した作品は、そうは無い。
 特に、非常に難しい位置に居たゼロの内面を描ききった事は、どれだけ絶賛しても し足りないだろう。
 どこか衛星ででも最初から放送してくれないかな。
そしたら第一話から きちんと見るんだけど。とにかく侮(あなど)って途中まで見なかった事が悔やまれる(DVDをBOXで買って見るという手もあるか。ほとんどDVD買わないんだけど、これに限っては)。

 スタッフの皆様、お疲れ様でした。ありがとうございました。
 『ボンバーマン』という、制約の多い、作り辛い(いい加減に流して作るのなら実に簡単だろうけど)素材を用いて、こんなにも素晴らしい作品が出来たという事実は、後に続く者達にとって大きな勇気と、とてつもない心理的プレッシャーになるでしょう。
 アニオタで幸せだ。
 ああ、オレも頑張らなきゃ。



『宇宙のステルヴィア』最終話.「きらめきはこえ」

 お終い。
 困ったな…どう言い表したものだか……

 やるべき事はやっているし、物語もまとまっている。
でも、見終わった胸の内には不満が燻(くすぶ)ってしまう。
 アクセルを踏み込めば時速300キロぐらい出せる車で、終始50キロの制限速度を守ってのドライブに連れて行ってもらったような気分。
 車内は快適だったし景色も良かったし、楽しい道行きだったんだけど。
 世の中多くはアクセルを床まで踏んでも30キロぐらいしか出ない車であり、そもそも走れないような車だってあると分かってはいるんだけど。
 それでも、どうして一度でイイから秘めたポテンシャルを全開にして、圧倒的なパワーで振り回してくれる所を作ってくれなかったのか、その「力」を信じるが故に、満足には届かない到着点に感じられてしまった。

 前回、爆発、死亡したかと思われた(実際は誰もそんな事思わなかっただろうが)志麻は、何という事なく無事。

 光太、以前の感想で「志麻の想いを理解した」と書いたんだけど、アレは誤りで、全然分かっていない朴念仁のままだった様子。
 光太が志麻に掛ける言葉は、「何でそんなムチャするんだよ?」ではなく、周囲に、安全のために志麻の撤退を進言されながらも、それを無視しての、「ラストチャンスだ。信じてる。行こう、一緒に」であって欲しかった。
 「光太を目標として頑張る志麻」は描けていたんだけど、「頑張る志麻を理解する光太」は最後まで描けなかったような。
だから、彼には志麻が目指す「地点」という価値以上のものを感じられない。

 退避が進みつつあるステルヴィアに残り、迅雷に ちゅーをした蓮(保険医)は何だったの?
 危機的状況にも動じない悠然とした態度に、コイツもエイリアンか?と思ったんだけど…
 それなら、脱出が難しい宙域に進みつつある事にも構わず、全人類に向けた放送を用意すべくコンピュータールームに残り続ける大も、人間離れしてるか。
 エイリアンと人間の思考の差があんまり描かれていないもので、誰がエイリアンであっても不思議が無くなっている(誰がそうでも、同じぐらい不自然)。

 アルキオンにジェネレーターを届けるアリサ達。
 …先の爆発によって出力不足に陥っていたようだから、これで助かったんだろうけど、どうにも「ジェネレーターが届く都合に合わせて出力不足にした」事情が分かり易すぎて。
 もうちょっと危機的状況に出来なかったかな。
一射目の後ですぐにアルキオンが爆発。
それによるパワー(演算・通信に使うエネルギー?)不足が影響し、第二射も外してしまう。
このままでは最後の射撃も危ないが、強行するしかないのか…という所でジェネレーターが到着すれば、有難味が増したかと。

 全人類に向けての放送を行う大。
既に放送電波のスピードでさえ、数時間後、数日後にしか届かない距離にまで拡散している人類の居住域。
 「これが僕達、私たちの、始まりの記録にならん事を」という大(子供)の言葉。
 「この作戦は、俺達が宇宙に散らばる、いわば前哨戦だ。この先 人類が一丸となって何かをやるって事は無くなるだろう。ある者は太陽系に残り、ある者は外宇宙に向かっていく。そういう歴史になると思う。いや、歴史って物が無くなるんだろう。あるのはそれぞれの現在(いま)と、未来に向かうそれぞれの想いだ!」という迅雷(オトナ)の言葉。
 終わりであり始まりであり、種が空間の枷から解き放たれて拡がっていく、地球人類の「卒業式」を思わせ、ちょっとジーン。
宇宙の「学校」であった意味は、ここで生きる訳だ。

 ファウンデーション・ステルヴィア、消滅。
 でも、正直な所、余り感慨が湧かない。
学校そのものが魅力を放った事が無いからなあ。
 もっとこの舞台そのものを活かす、思い入れを作らせるエピソードが欲しかった。
 で、なくても、いくつか記憶に残る場所、志麻とアリサの部屋であり、ハシゴを伝って上り下りした巨大な筒状空間であり、メニューに飽きてしまったファミレスであり、夕焼けの見える通路、があった訳だから、それをパパパッと走馬燈のように( ^_^ )見せる事で、無くなって悲しむに足る「価値」を思い出してもらえたかと。(『トップをねらえ』でエクセリヲンが最期を迎える所など参考に)

 初佳と飛びたかった、という やよい。
良いシーンだと思うんだけど、効果的に使うには感情のもつれを ここまで、ある程度は引いて来ていないと。
 途中で仲直りは終わっているから…

 前回、意味ありげにアドバイスしようとしていた大だが、結局は志麻が自分で気が付いた、という事で、何も言わず。
何じゃそりゃ(笑)?
 何を言おうとしていたんだろうか?落ち着いていつも通りに?

 そしてラスト・シューティング。
 当然ながら上手く行くのだが…その引き金を引いたのが、感情移入を最後まで拒否する光太であった事で、ハラハラもドキドキもさせてもらえなかった。
 せめて もう一つ二つアクシデントを起こすものでは。
 成功後の皆のリアクションが弱い事もあって、取りあえずイベントを終えただけ、という印象すら受けてしまう。

 ネクスト・ジェネレーションの台頭。
 志麻弟もステルヴィアへ、かあ。
ママはよく平気だったな(笑)。男の子はどーでもいいのか?
 志麻弟と、アリサ妹の、運命の出会い。
ああ、アリサが帰省しなかったのは、そのチケット代も妹に送っていたからか。伏線だったんだな。
んー、でもそれならもっと、アリサがバイト三昧の生活を送っているとかしても良かったような…「奨学金」って仕送りに使えるようなモノだっけ?
日本育英会の貸与月額を見ると、とても仕送り出来るような金額ではないかと……まあ 資金が潤沢な制度もあろうし、未来の話だから、事情は変わってておかしくないか。

 成長した志麻達による歓迎イベントと、希望に燃える新入生達。
第一話と最終話が相似形を見せる事でまとまりが生まれ、それはそれで、感動的ではあったんだけど…
 「人類の卒業式」を劇中、見せてくれたのだから、志麻達はもうステルヴィアに留まる必要はなかったような。
「ある者は太陽系に残り、ある者は外宇宙に向かっていく」の言葉通り、地球上の学校で更なる勉学に励む者、宇宙でのミッション(ステルヴィア再建?)で己の技量を磨く者(マニピュレーターの天才に弟子入りしたアリサなど)、そして調査のため外宇宙へと出ていく志麻・光太の姿を示して終わっても良かったかと。
 それぞれ、光の速度をもってしてさえ遠い距離に離れながら、「そっか、卒業しても、みんな一緒だ」(『あずまんが大王』)と知る事で、終わらせるとかね。

 ところで、エイリアンはどうなったの?
ヒュッター先生がジェイムス教授と酒盛りしていたから、だいたい人類に対して あんな感じのポジションに居る、という事か?

 最初に書いたように、決して悪い出来のアニメではなかったと思う。
でも、不完全燃焼。
スタッフがパワーを出し切ってココまで、とは思えない。
 それは、全力を出した結果がこの作品、と捉えるより ずっと失礼な感想かも知れないが。
 50キロでしか「走らなかった」車は、乗客にとって50キロでしか「走れない」車と変わらない。最高時速がいくらであろうが、そんな事は客には関係ないのだ。
 次は是非、全速力の走りを見せて欲しい。
また50キロで走るなら、近道をするとかロスの少ないカーブの曲がり方をするとか、そのスピードでのベストの走りをする事に全力を尽くして欲しい。

 何はともあれ、スタッフの皆様、お疲れ様でした。


2003年9月24日 水曜日

 日本映画専門チャンネルで流していたので、映画『幻の湖』を見る。
1982年度作品。
 映画秘宝の「底抜け超大作」という本で紹介されたのを読んで以来、一度見てみたいと思っていたもの。
 監督・脚本は、脚本家として『生きる』『七人の侍』『砂の器』などなど、映画史に残る作品を数多く手掛けた橋本忍。

 ううう〜むむむ、何がしたい映画なんだコレ?
常識とかセオリーとか、そういうモノに捕らわれていると、絶対 途中で見るのを投げ出したくなる内容。
 ソープ嬢であるヒロインが、可愛がっていた犬を殺され、その犯人に復讐を誓う…
というのはまあ良いとして、その犯人を追及していく行動が、ゾッとする程の執念を見せる悪質ストーカーそのもので、彼女に感情移入するどころの騒ぎではなく犯人の方を「逃げろ!早く逃げろ!」と応援したくなる騒ぎ。
 犯人とヒロインの対決が、意味不明なマラソンで行われるのには、笑ったり呆れたり。
あんまりにも この下らない戦いが長く、しかも2回も繰り返されるもので、すっかり飽きてしまったり。

 映画の大筋はヒロインの復讐劇なんだろうと思うが、そこに謎の諜報機関員であるアメリカ人のソープ嬢や、謎の笛吹き科学者が絡み、イキナリ時代劇になったり(「アジャパー」みたいなポーズで串刺しになっている子供に爆笑)安いスペースシャトルが出たりと、予想も付かない方向への展開を次々に迎えつつ、琵琶湖を巡る物語は進んでいく。
 …と書くと多少面白そうかも知れないが、映画は2時間40分以上もあり、一つ一つのシーンがダラダラと無駄に長いモノで、実際見ている間の気分は「苦痛」(笑)。
無駄を削ぎ落とせば1時間くらいは短くできたと思う。
いや、無駄が無くなると、映画そのものが何も残らないか。

 東宝創立50周年記念作品らしく、北大路欣也、大滝秀治、隆大介ら豪華な顔ぶれが並び、必要とは思えない時代劇にも かなりな予算が掛かっている。
 それでコレかあ…東宝首脳陣も頭を抱えただろうなー。

 詳しいあらすじなどは、調べると沢山の方が語られているので、そちらを。
 暇で酔狂で人生を無駄遣いしたくて しょうがない人にお勧め。
それ以外の人は、紹介文を読んで笑うに留めた方が良いと思うな。



 映画『トゥームレイダー2』を見る。
 監督は、『スピード』で鮮烈なデビューを飾って以来、『ツイスター』『スピード2』『ホーンティング』と順調にダメ監督への道を邁進して行くヤン・デ・ボン。
 主演は引き続きアンジェリーナ・ジョリー。

 色々とアクションをやっているし、ポンポンと舞台を変えストーリーも速いテンポで進んでいくと思うのだが、見ている最中の気持ちは、とにかくダルい、だった。
 お話は、『レイダース』などの秘宝探検モノのパターンそのもの。
見知った話でも きちんと作ってあるなら良いんだけど、構成が荒く、行き当たりバッタリに感じられるばかりで…
 アクションも想像の範囲内であり、感心するには到らない。
サメをブン殴る所は さすがに笑ってしまったが。あれぐらいの馬鹿馬鹿しさで全編押し切ってくれればなあ。
 加えて、ララ以外のキャラクターに全くと言っていいぐらい魅力がないのも痛い。
 特に、彼女の恋人役になる訳ありげな男の「要らなさぶり」には驚いてしまうぐらい。
要らないというか、途中からは展開の足を引っ張る役にしか立ってないと思うな。コイツがダメなもんで、彼に惚れるララまでダメに見えてしまう。
 悪役もキャラが薄く、恐怖も憎しみも何ひとつ感じさせてくれない。

 クライマックスの盛り上がらなさは特筆もの。
 前作も どうかと思ったけど、コレよりはマシだったような気がする。
 もう終わってしまったのかヤン・デ・ボン。
『スピード』は好きだったのにな。
得意のアクション映画で この体たらくでは……まあ、シナリオが悪いって部分は大きいかも知れないが。

 ゲームを彷彿とさせる、アチコチに飛び移りながら高みに登っていくアクションとか、不敵さを感じさせてくれるアンジェリーナ・ジョリーの表情は良かったが…劇場にまで足を運ぶ価値は…どうだろうか。


2003年9月23日 火曜日

 映画『HERO 英雄』を見る。
 監督は、とても良い作品だった『初恋の来た道』のチャン・イーモウ。
 主演はジェット・リー。
脇には『初恋の…』で主演だったチャン・ツィイーも出ている。可愛く華奢な姿をしているのに、『グリーン・ディスティニー』といいコレといい、体を張った激しいアクションをこなしている事には驚かされる。

 この映画の画面効果のテーマは、「過剰」、「やり過ぎ」だろうか。
動きが早すぎる、回転しすぎる、飛びすぎる、落ち葉が多すぎる、矢が飛んで来すぎる( ^_^ )。
もちろんその「やり過ぎ」感が、見る者の満足感に換わる訳だけど。
 ワイヤーアクションを駆使した「飛び」は、やっぱり「跳び」より「飛び」と表した方がしっくり来る。
どう見てもジャンプしてるとか そんなレベルではなく、自在に飛行してるから。時々申し訳 程度に地面に足を付けているだけで。
 CGの生み出す映像が、重量や重力などを物理法則に従って出来る限り「リアル」に、現実らしく描き出そうとしているのに対し、ワイヤーを用いてのアクションは、あらゆる制約から解き放たれた「自由さ」を見せようとしている。
「嘘」から出発して「本当」を目指すものと、「現実」に人の手を加えて「フィクション(ファンタジー)」に変えていこうとするものの違いだろうか。

 内容は…なかなかトリッキーな構成をしており、どんでん返しの連続……というよりも、虚構の皮が剥がれて次第に真実が明らかになっていくような構造になっている。
見る間に物語がその様相を変えていくのは、刺激的で次の展開が読めず引き込まれるが、そのために、各キャラクターの内面に深く斬り込んでいき 観客に感情移入させていく方面のシステムに、支障が出ているような。

 王の暗殺、という主題にしても、設定としては理解出来るんだけど気持ちとしては、どうして暗殺者達がそんなにも情熱を燃やすのかが、納得出来ない。
 この辺は、土台になる知識の差があるのかな?
日本人なら、劇中に「聖徳太子」「徳川家康」「坂本龍馬」というような歴史上の人物が出てきただけで ある程度のイメージが湧き、過剰な説明無しでもそのキャラクターを分かってもらえるから。
彼らを殺そうとする人間のドラマも、ある程度 想像しやすくなるだろう。

 とにかくアクションが華麗であり、衣装やセットの色彩設計を含め画面が常に、絵画のように美しい。
 一度は見ておく価値のある映画だと思う。


2003年9月22日 月曜日

『住めば都のコスモス荘・すっとこ大戦ドッコイダー』11.「コスモス荘最後の日?でドッコイ」

 うわー、こんな大ボケギャグアニメで、こんなにも正統派に盛り上がる展開が見られるとは思わなかった。
確かに全体に(ギャグこそ外し気味だが)クオリティーは高く、シリアスさを感じさせるエピソードに出来が良いモノもあったが、それにしても…

 一方的に、何のメリットも受ける事のない形でテストを打ち切られた事に、宇宙人達はそれぞれ違った形で無念さをにじませる。
 居心地の良いコスモス荘の生活が きっちり描かれていたからこそ、この別れを、視聴者も一緒になって残念に思う事が出来る。
 そこからどういう形に展開させていくのかと思えば、新たに導入された超兵器を用いての宇宙規模クーデターかぁ。
 「宇宙を救えるのはドッコイダーしか…」
実に燃えるシチュエイション。逆境にあってこそ輝くのがヒーロー!

 宇宙人が地球を離れるシチュエイションでのお約束、「接触した地球人の記憶を抹消する」シーンを、目一杯の情感を込め盛り上げて見せてくれた。
 楽しかった、夏の祭りの終わり。
そして、穏やかではあるが何か物足りない気分を残す日常への帰還。
 時間がないので( ^_^ )あっという間に地球へと戻ってくる小鈴。
鈴雄の記憶を呼び戻すべく、もう一度 記憶操作銃の狙いを付ける小鈴。
「本当にごめんなさい、記憶が戻ってもきっと私のことを許してくれないと思う。でも鈴雄さん、私が頼れるのは、もうあなたしか居ないんです」
 うはー、これだ、コレが見たかったんだ!
 壊れてしまっていた銃に代わり、記憶の封印を弾き飛ばしたのは、小鈴の「お兄ちゃん」という言葉が引き金になった 彼女との強い絆。
 変身し、上空に到着した追っ手を睨みながら、小鈴を抱きかかえマントを翻して敢然と立ち上がるドッコイダーは、あんな間抜けなデザインにも関わらず、腰が抜ける程 格好イイ。

 次回、最終回の盛り上げ方によっては、途中イマイチな回があった事を忘れさせてくれ、「傑作!」の印象のみ残して終わる事が出来るかも。


2003年9月21日 日曜日

『ボンバーマンジェッターズ』51.「ボンバー星最後の日」

 とにかく熱くて、みんな必死で、緊迫感があり、でも「悲惨」ではない。
この奇跡的なバランスを、どうすれば取る事が出来るのか。
 当然、考えに考え抜き、計算も重ねているんだと思うけど、それだけでは ここまで巧く出来ないだろう。
 情熱、熱意。出来る事は何でもして面白いものを作りたいという、強い気持ち。
そういう作り手の「魂」が、作品をもうワンランク上にまで押し上げているんだと思う。

 合体ボンバーマンを倒したのは、1人の力だけではなく みんなに支えられる事で今、自分はここに立っているのだ、という事を心の底から理解して初めて投げる事が出来た、シロボンの最終奥義ボム。
 元の姿に戻ったメカードに対し、シロボンは怒りをぶつける…かと思いきや、誇らしげにジェッターズバッジを見せつけただけで走り去る。
このバッジに込められた幾多のエピソードが脳裏に蘇り、どんな言葉を発するよりも彼の成長を理解させてくれる。
 自分に危害を加えずに去っていってくれたシロボンに対し、後ろから攻撃を仕掛けようというメカード。
それを見て取り、最後に手を汚すのは、未来へと進んでいく子供ではなく、大人の仕事だとばかりにメカードにトドメを刺すオヤボンとダイボンがイカス(いや、死んでないみたいだけどねメカード)。

 メカードの打倒を願うバグラーを、厳しくたしなめるボン婆さん。
「ワシらはあと少しで死ぬから いい。でもこの子達はどうする?ワシらは自分たちのやった事を、この子達に押し付けて死ぬしかないんじゃぞ!」
 この言葉の重さ。既に、「押し付けて死ぬ」側に回ってしまった者としては、胸にズシリとこたえるセリフ。

 マックスからプログラムを送り込まれる事で、「自分」が浸食されていくゼロ。
これは…最終決戦の形として、思いつかなかった。
物理的にマックスを倒して終わりだとばかり。
 確かに、ゼロ自身がマイティの記憶をプログラム(データ)として保有している存在なのだから、展開に唐突さも不自然さも生じない。巧いなあ。

 乗っ取られる前に、シロボンの手で自分を破壊して欲しいというゼロ。
 追いつめられたギリギリで、抑えてきた感情が噴き出すシロボン。
熱い感情を吐露するその心の中で、兄の死と、兄と同じ心を持つゼロの存在が緩やかに解け合っていき、弱くて脆い自分から、嫌な事を「嫌だ」と言いながらも「押し付けられた責任」から逃げようとしない、より強い心を持つ自分へと成長を遂げて行く。
 時間をかけて描いてきたシロボンの悩みや苦しみが見事に結実化する、見てきて良かったと思える、価値あるシーンだった。
 また、シロボン・金田 朋子の熱演も相まって、ココでは ほろほろと泣かされっ放し。

 これほど緊迫した展開でありながら、ムジョーが持ってきた出前のラーメンをDr.アインがいつの間にか平らげていたりする息抜きが見られ、余裕を感じさせてくれるのも嬉しい所。

 うああ、来週が早く見たい。
でも、次で最終回なのか…複雑。



『スクラップド・プリンセス』22.「時を超えた超えた輪舞曲」

 キャンプ地で見せる、登場キャラ達の ごく日常を現した姿が楽しい。
しかも、単なるインターバルにならず、それぞれの立ち位置や関係、抱く気持ちを再確認させる機能を十分に果たしている辺り、実に巧い。

 パシフィカが、亡きフューレと共に過ごした「神田川」生活を端的に表す、風呂屋の下駄箱札を見つめ、記憶喪失期間の事は覚えていないはずなのにポロポロと涙をこぼすシーン。
 彼女の優しく 真っ直ぐな心根が見えるし、命をかけて守ってくれたフューレの分まで生きる権利(義務)を持っている事と、彼女が視聴者に取り感情移入に値する存在である事を、もう一度しっかりと伝えてくれる。

 次第に人間らしさを獲得しつつあるゼフィリスが、可愛いねえ。
 ピースメイカーの長であるらしい女性が、圧倒的な力を持つ(のであろう)エイリアンによって人類が絶滅してしまう事を恐れる余り、人類を地球という籠の中に囲い込む協力をしてしまった事について、正しかったのかどうか迷いが生じているような姿を見せる。
 むう、確かに、数人のヤクザ者に囲まれて逃げられなくなってしまった際、側にいる恋人を守るためには、取りあえず戦いを仕掛けて敗北し、その後 彼女をどうされるか分からないというような無謀な行為が必ずしも正しいとは言えず、オノレを曲げても頭を下げて金品など差し出し許しを請うてみる戦略が有効な場合もあろう。
それは、「自分が殴られるのが恐い」という理由ではなく、「そうまでしてでも彼女の安全を確保したい」気持ちが第1なのだが、あんまり相手には尊敬されず「このヘタレが」と嫌われてしまう恐れすらあり、報われづらい行為だよね。
 …っていうこの例えは作品内容に合ってる(笑)



『機動戦士ガンダムSEED』49.「終末の光」

 今回のキモは、何と言ってもフラガの最期と、アズラエルと対立するナタル、そして彼女の最期だろう。

 フラガで不満なのは、彼は「クルーゼとの因縁」を大きなキャラクター構成要因として持っていた訳だけど、命を終えるにあたって、その直接の原因がクルーゼではなかった事。
 アークエンジェル・マリューを庇っての死、という絵が欲しかったのだろうが…
 せめて彼の死を知って複雑な感情の動きを表してしまうクルーゼ、など、リアクションが欲しかった所。
「お前との戦いの決着が、こんなものであっていいはずがない!」(『ジャイアントロボOVA』)というぐらいの絶叫があっても良かったかな。

 アズラエル。
「生きる価値のない男」に、一貫して描かれてきたんだろうけど、とにかくセコくてバカで小物で、とてもじゃないけど連合の影の支配者には思えない。
 3バカ ガンダム乗りを、武装強化もパイロットの再改造も行わないままで いつまでも対アークエンジェル戦に投入し続けるのがバカだし、反撃される可能性を考えずに核を持ち出す短絡ぶりもバカ。
部下も連れず、単身ドミニオンに乗り込んで戦闘の最前線に立っているのは…バカだけど、立派だとも言えるかな( ^_^ )?普通、もっと戦場から離れた場所で指揮を執りそうなモノだから。
 しかし、今回の、いきなり短気を起こしてナタルに銃口を突きつける、この行動は頂けない。
何が頂けないって、これほど無理矢理な行動をキャラに取らせる事で、その「死」の理由付けにしようという製作者の考えは、本当に頂けない。
 どうしてジェネシスではなく、プラントを狙おうとしたのかも不明。
現状で一番恐ろしいのはジェネシスであって、プラントなんか後でゆっくり破壊して構わないはず。
ジェネシスは遠距離にあり しかも強固な防御システムを持っているため、手近にあるプラントを破壊して脅し、ザフト自らにジェネシスの破壊を迫る、という程度には知能を使ってくれると良かっただろうか。
 「悪辣なヒトデナシ」と「役にも立たないバカ」とでは、障害としての重さもスケールも違いすぎ、ために取り除いた時のカタルシスにも大きな差が生じてしまうかと。

 ナタル。
生粋の軍人、というキャラクター性で統一されていたため、それに即した魅力を持つに到っており、だから その死は「損失」と思える。
 現場での判断はありながらも基本的には上層部の命令を絶対として従う、軍組織を構成する良い歯車になる、事を目指してきた彼女と、フラフラしていて命令違反を恐れるより自分の感性に従うマリューの対比が、もっと良く描けてきていると良かったな。
 ナタル。命令に従おうとする余り、人として間違った所にまで踏み込んでしまった自分を思い、誤った命令になら抗う勇気も必要なのだ、と知る事で、これまでは理解できなかったマリューの在り方が正しかった(状況によっては、正しい事もあった)事を理解し、「あなたはここで死すべき人だ、私と共に」とアズラエルに言い放ち、軍の「悪い」部分を道連れに死ぬ事で、職責を全うし、また善く生きようとする一個人に還ったのだろう。
 ここは、もっと凄い名シーンになったと思うなあ。
周到な準備があれば、ナタルの葛藤が、死をもってさえ解放なのだと思える程にあれば、もっともっと泣かせられたし考えさせる事が出来たし、例え最終回なんて無くても大きなものを伝えられただろう。
 しかしまあ、このシーンだけで、今回30分見た甲斐があった、と思える、力の入ったシーンになっていたのは確か。

 あと、その他雑多な事を。
 カガリ。
種割れ。なんで?コーディネーターだったの?
それとも、種割れはコーディネーターのみが持つ特異な能力ではなく、「人」の次の世代なら みんな持っている力だったとか?

 クルーゼ。
 「他者より強く、他者より先へ、他者より上へ」と望む人間の気持ちを「業」と言い表していたが、それはともかく背景に示される絵が「運動会で一等賞」とか「勉強が出来る(出来ない?)」とかいうモノで、それぐらいは良いんじゃないか?と思ってしまった。
彼は、「運動会はみんなで手を繋いでゴール」「成績表、学力順位付けの廃止」を訴えたいのかな(笑)?
悪しき平等主義というヤツ?
彼の個人的トラウマを表したモノかね。
 これと、ラクスの唐突な「人が戦う理由への問いかけ」を長いモノローグで表す所には、覚めた。
ドラマとして上手く描けてきていないのに、制作者の考えをセリフで示したからテーマ消化終了、と思って居るんだったら それはトンデモない間違いだと思うな。
 『サルでも描けるまんが教室』で、「戦争漫画」を指して、「とにかく最後に『もう戦争は嫌だ』とか『命を大事に』とかキャラに言わせておけば、読者は納得してくれる」みたいな事を書いてあったのを思い出してしまった。

 ところで、キラ・フリーダムが戦艦を撃沈しているシーンがあったように思うんだけど、乗員総員退艦を確認済みでの事?無人艦だった?
もう面倒くさいから少しばかり死人が出るぐらいの事でガタガタ言うな!と開き直ったとか(笑)?

 取りあえずコレで連合の方は戦う気力を無くしたのだろうから、後はアスラン親父と決着を付ければ、それで戦争は片づいた…事に…なるのかなあ?


2003年9月20日 土曜日

『宇宙のステルヴィア』25.「さよなら」

 うーん、やっぱり残り時間が圧倒的に足りない弊害が色々と出てきている。
 最悪の危機的な状況を迎えているのであろうジェネシスミッションは…ちょっと実感的に分かり辛い描写になっているような。
宇宙規模の災厄と戦う姿を「実感的」に描くのは、難しいに決まってるんだけど。
 地球の危機が、絵に描いた餅に思えてしまうと、このクライマックスにも気持ちが入れきれない。
シリーズ前半で、さほど せっぱ詰まらないまま終わってしまったグレート・ミッションを見せられている事もあるから。
 脅威を「宇宙怪獣」という分かりやすいモノに変えて描いた『トップをねらえ!』は、あざとく巧かったね。
第4話での、「怪獣のリーダーになっている一体を、ブン殴って倒したら勝ち」という勝利条件なんか、アホでも分かるぐらい実感的。

 キャラクターの心情のまとめ方も、どうかなあ?
 追いつめられてテンパった姿を見せてしまう光太。
普段の様子とギャップがあるのは良いんだけど、マイナス方向への感情露出である事により、ここは魅力に繋がらず、「なんだコイツ」と思わせる反発の効果のみを残してしまわないだろうか。
 志麻。
キャラの立ち位置として こうでなければならないのは理解できるが、それにしてもデータのとりまとめぐらい、彼女1人に任せずステーションのオペレーターを全動員してかかってはどうか?と思わせてしまうのは拙いだろう。
 友人キャラの1人、小田原 大が、最終回を目前に控えて「切れる」様子を見せ始める…これもちょっと唐突な印象ばかりが先に立ち、「なるほど、コイツなら」と納得させてくれる所まで行かない。
志麻のプログラムを見て、何か、恐らくはプロジェクトの成否を左右するようなサジェスチョンを行うんじゃないかと思うけど、そういうキャラだったっけ?。次回、語る内容次第かな。

 まあ、とりあえず最後まで見てから。



 長く更新できませんでした。すいませんー。


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