ときどき日記 03/11(後)

2003年11月29日 土曜日

『ふたつのスピカ』05.「おかあさんの顔」

 1話まるごと、アスミの回想話。
 母親の死にまつわる顛末は ここまでにもチラチラと語られており、それらを総合したようなものだったが、アスミ自身が臨死体験(という程ではない?)をする事で亡くなった母親と再会していた、というのは、初めて明かされたエピソード。

 …アスミが 川に落ちる前に、三途の川はどのようであるのかスケッチをしながら想像しているシーンがある。
川 含むあの世の風景が、余りにも普通であり現実と変わらない所からすると、全てはアスミの見た夢だった…という可能性も。
 でも、最後に母親がスケッチブックを見る所では「母親の視点」になっているので(夢だと、視点が変わったりとか理不尽な事も起こりうるけど)、そういう意図は無いんだろうな。
 第一、それじゃ あんまり可哀想だし。

 火傷で視力を奪われており、すぐ側にいるのが娘だと分からない母親。
 名前を明かすと現世に帰れなくなると言われ、親子の名乗りをする事が出来ないアスミ。
 もどかしい関係のままで歩き続ける2人の、哀しくて寂しくて、しかし穏やかで優しい旅。
これで童話を一本書けそうな、良くできた状況設定。

 名前を不用意に明かす事によって自由が制限される、というのは『千と千尋の神隠し』に限らず、多くの創作物や人の考え方として存在する概念。
 この作品の場合、名前を知らせると、本来無関係なその世界と自分の間に関わりが出来、切り離せなくなる…ぐらいの理解で良いだろうか。
 三途の川がある あの世なのだから、その向こうに閻魔が居るなら、彼に名前を知られると本来記載されていないはずの自分の名が閻魔帳に書き入れられ、「死」を確定されてしまう危険性があるため、とも考えられる( ^_^ )?

 包帯だらけの母親の顔を、スケッチブックに描くアスミ。
現世で描いたのは表情の無い包帯の固まりだったが、話をし、暖かさに触れる事により、今度は包帯の表に、見えないはずの「笑顔」を 心で感じ取ったままに描き入れる。
ああ、巧いねえ。

 三途の川を一人で渡る母親が、川の半ばを超えて…だろうか、包帯も火傷もない元のままの きれいな姿に戻る。
 ここでもう、ホロリ。
 二度と現世に帰れない換わりに、彼女は、苦しまされ続けた現世の「肉体」という楔(くさび)からも解放されたのだ。
 そして、優しく導いてくれた女の子が成長した自分の娘だと知り、長く目にする事のなかった娘を、遙か遠くにとはいえ、目視する事ができた。
 娘を守って火傷を負い、苦しんだ末に命を失い、全てと別れる最後まで来た母親が娘に対して叫んだのは、「アスミはこの川を渡ってはダメーっ!アスミは、生きていてぇーっ!」という、まだ、その「命」だけを思う言葉。
 喜びと悲しみと、再会と永遠の別れと、愛と、様々な感情がここに交錯して、見る者の心を揺り動かす。
 いやあ、泣けた泣けた。
良い、巧いお話でした。

 次回はまた試験に戻る様子。
今回 明かされた、過去での体験が生きる展開になるのだろうか。



『プラネテス』09.「心のこり」

 ハチマキの宇宙における先生・ギガルトが、軌道保安庁の監査員として登場。
以前、ハチマキが大きな失敗をした回想シーンで登場していた人だな。
 普通なら印象に薄かったキャラかも知れないが、何しろ声が若本 規夫なので、忘れようもない(笑)。

 戦争映画における軍曹のように、巨躯を持ち厳しくありながら、陽気で頼りになるギガルト。
関わった全ての人から愛され、特に彼が指導を手掛けた者達からは絶対的な信頼と尊敬を得ている。
 大抵は不遜な態度で人に当たるハチマキでさえ、この「先生」の言う事だけは子供のように素直に聞く。
彼に取り、「先生」は父親のようなポジションに居るんだろうな(いや、原作通りなら実の父親も存命、だけど…)。

 ハチマキが、タナベを意識し始めている事が はっきりした。
しかし、イキナリ彼氏の有無を聞くとは…それとなくでも何でもない、アホみたいにストレートな気持ちの表し方だな( ^_^ )。
 加えて、タナベに好意を抱くチェンシン、そんな彼に思いを寄せるリュシー…と、三角、四角関係が進展。

 月面でその死に立ち会ったローランドがギガルトにとっての「先生」であり、彼自身も病魔に蝕まれている、という厳しいリレーションも。
 流れで行くと、「生徒」であったハチマキ、そしてタナベでさえも いずれは…と感じてしまうんだけど、その辺への救済措置は講じられるのかどうか。
 ギガルト「まで」は宇宙開発の黎明期であり、放射線の防御も十分には成されていなかったが、現在の宇宙船・宇宙服なら被爆はほとんどゼロだとか?

 違法廃棄業者とのバトルは、単純に楽しく見られた。
 先制攻撃として、アームで敵の噴射ノズルに一発喰らわして逃げられないようにすれば…とか思ったけど、デブリ屋が、無用なデブリを増やす危険性のある行動は取れないかあ。
 ギガルト・ハチマキ師弟コンビの戦いぶりがイイねえ。
「正義」と「悪」なんていう概念を持ち出す いつも通りなタナベの言葉も、この状況には噛み合っていたように思える。

 危機一髪に、格好良く登場する軌道保安庁。
ハチマキ達の超人的な活躍で事件が解決する…という形にしないのがリアルで今日的であり、『踊る大捜査線』などを連想させる所。
 その保安庁員に、ハキムの姿。
同じくギガルトの生徒同士、という事で、ハチマキとの間に因縁を結ぶ構成は見事。
 ハキム…アニメではどういうキャラになっていくのだろうか?



 ……と、見終わってニュースを見れば、H2Aロケット打ち上げ失敗


2003年11月28日 金曜日

『無人惑星サヴァイヴ』06.「僕らはゲームをしてるんじゃない」

 サバイバルをかけた陸地の探検。
巨大肉食トカゲなどの出現で、「ジュブナイルとして」楽しく見られた。

 今回 最も印象に残ったのは、ベルとシャアラのやり取り。
 火をおこす役割を任され、手を血だらけにして必死で頑張るベル。
彼を心配するシャアラは、十分努力をした事を説明すれば誰も文句を言ったりしない、と言い、厳しい火おこしの中止を提案する。
 が、ベルは、「オレは、どれだけ頑張ったかのゲームをしてるんじゃない。みんなが生きるために、どうしても火は必要なんだ。夜中に火が無ければ獣に襲われるかも知れない。そうなったら、オレがどれだけ頑張ったかなんて、問題じゃない」と言い、手を止めようとしない。

 シビアな、非常に良いシーンでありセリフだったと思う。
 そうそう、「努力したから偉い、と言われるのは義務教育まで」…ってイジワルな言葉を昔、聞いた事があるな。
 子供向け作品だからといって説教臭いのは閉口だけど、伝えたい何かを持って創作に臨むのと そうでないのとでは、違いが出て来て当然。



『GUNSLINGER GIRL』06.「報酬」

 色々と詰め込んだ話であり、少女を殺人マシーンにしたという基本設定にも物語的意味付けをしてあったので、悲惨さが無く、割と普通に見られる内容だった。

 バイオニック・ジェミーのごとく強化された耳で離れた席での会話を聞き取り、おとなしげな少女の外観を活かして犯人の油断を誘い接近、強力な拳の一撃で大のオトナを悶絶させる。
なるほど、有能。
 さすがに幼い少女を相手には、どんな人間でも攻撃前に一瞬は躊躇する。
が、「条件付け」によって殺人の禁忌を無くされている少女達には、僅かのためらいも無い。
これじゃ、最初から勝負にならないな。
 士郎 正宗先生の作品だと、この ちょっと先の事象として、「外見と戦闘力(脅威)はイコールじゃない、という認識が普及した世界」が描かれ、登場キャラクターはそれを当たり前として行動している。

 ヘンリエッタが希望する「報酬」は、『ローマの休日』アン王女のように、スペイン広場でジェラートを食べる事。
 映画と同じく、課された自分の宿命から解き放たれ、ひととき自由と恋人気分を味わいたい、という意味もあっただろうか。

 彼女とすれ違うテロリスト達が、自分たちの恐るべき敵である少女を「守るべきもの」と認識してしまう、皮肉な終わり方もなかなか。
 ヘンリエッタ達を可哀想に思い、守られるべき対象と捉える読者・視聴者への「毒」が含まれたセリフかも。


2003年11月27日 木曜日

『R.O.D -THE TV-』06.「ライトスタッフ」

 ライトスタッフ…正しい資質。

 二宮金次郎像に否定的な視線を向けるアニタ。
歩きながらまで読む必要はないと考える彼女が、ねねねの著作を手にとって読み出すや、階段を上る間も読みふけってしまう。
この「韻」の踏み方が、実に巧い。
 この辺で、彼女にも三姉妹として(血の繋がりはなくとも)十分な本好きの「資質」が眠っている事を伺わせてくれる。

 徹夜明けなのであろう ねねね。
「抱っこ」だの「ちゅーしちゃうぞ」だの、普段の彼女らしからぬ(そうでもない?)言動を見せる。
 この前までアニタを縮めて「アタ坊」呼ばわりしていたが、今回の呼称は「チビ太」。
赤塚 不二夫つながり、という発想か(笑)。
こういうアダ名みたいなモノが、日々進化したり退化したりで変わっていく事、あるある。
 しかし、もうバリエーションはお終いかな?
「おそ松」だの「バカボン」だの「イヤミ」だのも使えない事はないだろうけど、僅かながら元の名前と共通点を設ける、というのが自主的な制約になっているとすると難しい。

 ああ、勝負衣装なのか何なのか、可愛い来客をチャイナドレスで出迎え、ねねねが苦労して仕入れてきたのであろうケーキを勝手に出して、本好きな久美を無理矢理 妹にしてしまおうと企むミシェールが、実にイイねえ。
バカで( ^_^ )。
 でもまあ、アニタが現れるまでは本だけが友達だった、という久美にとって、この過剰なまでの歓迎は素直に嬉しかったんだろうな。

 頬を赤らめて ねねねを抱っこし、「命に代えても」久美を無事 家まで送り届けると宣言して、彼女と手をつないで歩き出す、ちょっと調子ッ外れなマギーも楽しい。

 久美が、アニタと本という2人(?)の友達を仲直り(??)させようと試みる説得。
最近は余り読まなくなってしまったけど、元・本好きとしては、心に染みた。
 彼女は、本を愛せる「資質」を有していた訳だろう。
 もしかしたらこんなに強行に自分の意見を主張するのは初めてだったのかも知れない久美が、体をよじって言葉を絞り出し、最後は力尽きて床に座り込んでしまう演出。
非常に良く、その必死さが伝わってきて、巧い。

 本当、キャラに関しては、制作者の頭の中にしっかりと「生きた」像を結べている事が伺えて、挙動を見ているだけで幸せな気分に。

 参観日にやって来る姉たちと ねねね。
一昔前の学園ドラマのようだが、こーゆーのは単純に気持ちイイねえ。
 血の繋がりは無くともミシェールとマギーには、アニタの「姉」としての正しい「資質」があり、他人だった ねねねも既に同じ(彼女は「母」の「資質」?)かと感じさせてくれる、キレイな終わり方だった。


2003年11月26日 水曜日

『まぶらほ』07.「あっちゃった…」

 ゲストキャラとして、主人公の幼なじみである女の子が登場。
 しかし…レギュラー女子3人の内、玖里子についてはまだ彼女をメインに据えたエピソードすら無い状況下で(アクが強い性格だからそれでも印象的ではあるが)、この子を出す意味はあったのかなあ?

 文化祭の演劇を描くにしたって、祭りの楽しさも準備の大変さも無く、余り盛り上がれない。
 それにしても、主人公のクラスメート達は、実に陰気に性格が悪いなあ。
人の良い主人公とのギャップを生じさせてキャラを立てるためなんだろうけど、露骨すぎないだろうか。

 ここまで、決して悪い出来の作品ではないが、強烈に印象に残るエピソードが無く、キャラに「萌え」も弱い。
 いっそ物語は諦めて、今回の話でも、主人公へ特別な気持ちを抱くゲストの女の子に対して、レギュラー3人が、それぞれに違う反応を見せたり 降って湧いたライバルを排除すべく共同戦線を張ったりなど、面白いリアクションを示す所に最も力を入れてくれれば、「萌え」要素だけは強化できたと思うんだけど。



 年末までのお仕事スケジュールが、泣きたくなる程 詰まっている事を、今更ながら確認。
…とは言っても、本当に忙しい方達からすれば まだ全然、遊んでいるようなものだろうけど。
 来年早々に単行本が出ます。
詳しい事は、また後日。

 あーうー、とにかく頑張りますー。


2003年11月25日 火曜日

『クロノクルセイド』01.

 作画は安定しているし、アクションも頑張って入れてあり、キャラの立場や基本的な性格も分からせてくれ、第1話としては決して悪くない出来。
 でも…逆にどれを取っても強烈な印象を残す事が無く、全体に食い足りない印象。

 森山 大輔先生による原作の魅力は、キャラクター造形・お話の構成も もちろんだが、とにかく圧倒的な画力…表情の付け方の巧さ、緩急自在のコマ運び、抜群のレイアウト能力など、画面から発せられる「力」に読む者が引き付けられる部分が大きいと思う。
 それを週間のTVアニメで再現しろと言っても無理な話なのは、当然。
 …出来れば、元がOVAである『SPACE PIRATE CAPTAIN HERLOCK』や、『R.O.D -THE TV-』ぐらいのクオリティーでアニメ化して欲しくは、あったんだけど。

 これから、レギュラーのキャラクターが増えてくると お話はグッと面白くなってくる。
そこまで視聴者を「よくあるアニメ」と飽きさせずに引っ張って行けるかどうか。
アニメならではの優位性を示していけるのかどうか。
 原作を読んでいるなら、見る必要ナシ…とは思わせないで欲しいな。


2003年11月24日 月曜日

『円盤皇女ワるきゅーレ十二月の夜想曲』08.「猫耳八甲田山」

 前シーズンでもあった、ネコ耳侍女軍団の慰安旅行話。
 ネタを前期から引いて来る、繰り返しのギャグなども入っていたが…
全体に、低調な上がり。
 笑えたのは、遭難しての真田の妄想パートぐらいで、後は…
 物語としての「仕掛け」だった、レギュラー侍女4人の名前を真田が覚える過程も必然もぼやけていて、空振り気味。

 今シーズンは どうもイマイチな出来の話が多いような。
電波なコーラスの様子など、楽しかった所もあるんだけど…
 黒ワルキューレが絡んでくるのであろう、ラストに向けての物語の盛り上げに期待するしか。



『瓶詰妖精』07.「11月」

 いつも通りの ほえほえ〜とした お話…かと思いきや、妖精達が触れる「生」と「死」を通り抜け、「命の継承」までを描いていく、ちょっとジーンと来る内容。

 すうっと胸に入ってくる優しいお話で、良かったと思うけど…
 シリーズの中で こういう「異色作」だけを、いつもより価値の高いモノであるかのごとく扱ってしまうのは、多分あんまり良くないんだろうな。
 強い意志を持ち「何も無いお話」を描き続けている通常のシリーズも、割に気に入って楽しく見ている。
ただ、掛け値なしに内容が無いモノで、構えた感想は持ち辛いんだよね( ^_^ )。


2003年11月23日 日曜日

『君が望む永遠』08.

 ええと、孝之が死んじゃう、というのが現状を一番 問題なく解決しそうに思うけど、どうだろうか。
 遙以外、水月とか茜は、コイツが「もうドコにも居ない」という事を受け容れさえすれば、精神のバランスを取り戻し、しっかり生きていけるのでは。
 いやー、遙にしても…意外にこういうタイプの方が立ち直りは早かったり。

 孝之が、病室の遙とコトに及ぼうとするのには、笑ってしまった。
やりたいだけかよ(笑)!
 水月と感情的(肉体的にも?)すれ違いが続き、救いを求めたのかも知れないが。

 久しぶりに遙の病室を訪れた水月は、頬を染めて孝之の優しさを語る遙を、笑顔で見つめておきながら、部屋に帰ると彼に「もう遙に会わないで!」と言ってしまう。
その醜さと、愛しさと。
 遙が健康な女性であれば、あるいはその要請を当然のものとして会わない決心を出来たろうが、孝之を頼り切っている「弱者」であるため、簡単には切り捨てる事が出来ない。
「弱者」は、弱いが故に強いねえ。
良く出来た設定。
 孝之の体だけは自分の側に留める事が出来たが、そのためにかえって心は離れさせてしまう水月。
 「献立考えるのって結構楽しいのよ、食べてくれる人が居ると、さ」と言い、彼のために嬉しげに食事を作る水月を、カップラーメンを食べたから食事は要らない、という「絵」で拒絶する演出がなかなか。

 しかし、キリッとして仕事に出掛ける水月を見送りもせず、背中を向けて部屋に寝そべり、気のない返事を返す孝之の描かれ方は、ダメなダンナ像そのもの。
 物語をダークサイドに向かわせる大きな役割を負わされており、彼を「このクズ野郎!」と視聴者に思わせないためには、行動全てにフォローを入れる精緻な描写が必要とされていると思うのに……
あんまりスタッフに愛されていないみたいだな(笑)。

 ファミレスのバイトは、アホ娘2人の行動と言動による息抜きの効果だけを担っていると思っていたので、店長の娘の設定は意外。
これだけで終わり?後でまた意味を持ってくる?



『ふたつのスピカ』04.「遠い日の記憶」

 閉塞感も不安感も、もっと演出して良いと思う。
アスミの部屋以外は一切カメラに写さない、ぐらい徹底しても良かったかと。
…男子側も描かなければならないのは仕方なくとも。
 試験官側の思惑を見せてないのが、非常に効果的なので。

 ドミノだけで終わるんだと少々食い足りない…と思いっている内に、急減圧というイベントでの振るい落としが発生。
淡々としたドミノ並べだけをさせ、無茶な事は一切しないテストかと思っていただけに、この「異常事態発生」にはドキドキ。
 ここで脱落して行く受験生達の姿を見せるのは、俯瞰的には現状が分かり易くなっていいんだけど、やっぱり閉塞感のガス抜きになってしまうので、あくまでアスミ達だけのリアクションを見せた方が、不安の演出度合いは高くできたと思う。
 ただ、あくまでジュブナイルな内容だと思え、『サヴァイヴ』と同じく「過剰」になってしまう事へのブレーキは仕方ない部分もあり、難しい所。

 ここからは、アスミの回想シーンに入るのかな。



 映画『ティアーズ・オブ・ザ・サン』を見る。
 監督は『トレーニング・デイ』(未見)のアントワン・フークア。
 主演がブルース・ウィリス。
 内戦下のナイジェリア。
そこでウォーターズ大尉に下されたのは、米国籍を持つ女医を救出する事だった。
しかし、彼女は難民達を見捨てては行けないと言い張り…

 うーん…まあ、割に良くあるお話。
 物語を動かす最大の動機になるべき、ウォーターズ大尉が命を賭けても難民達を救う理由が弱い。
 「危機に瀕している人々を助けたい」という気持ちは非常に人道的で結構だけど、作戦の度にそんな事を言っていては、軍人なんかやっていられないのでは?
これまでは、一度もこういう事態に巻き込まれなかったのだろうか?

 この映画、元々は『ダイ・ハード4』として企画されていたモノをベースにしているとか。
 主役が軍の大尉ではなく、一介の刑事で、政変の異国に置き去りにされた嫁さんを助けるためとか何とかいう理由で入国し、軍人が命令を絶対として機械的に嫁さんだけを救出しようとするのに対し、浪花節で難民の救出を言い張り、やがて軍人達との対立から和解を経て、最後には友情へと変わっていく、とでもすれば、まだ素直に見られたと思うんだけど。
 何というか、冷静な視点が無く、米軍人をイイ者に描きすぎ。
「アメリカ万歳」映画も それはそれで嫌いではないし、馬鹿だなあと思いながら割に抵抗無く見るんだけど、この映画からはさすがに違和感を。
 お話のアリガチさ加減により、見ている間に余計な事を考える「余裕」をこちらに生まれさせてしまったのも、敗因か。

 日々伝えられるイラクの現状などのハードな「現実」が存在している事がまた、この映画にとっては(特に、アメリカ人以外の観客にとり)マイナス要因として働いていると思う。
 いや、当のアメリカ人も、これ、楽しく見られたのかなあ?
米軍部隊・難民達のキャラクターなんて、とにかく薄くて誰が誰だか見分けも付かないため、個々の人間のドラマではなく、「正義の米軍」が「困っている他国の人々」を「助けてあげた」という図式が、余計 露骨に見えるんだけど。

 単純にエンターテイメントとしても、戦闘シーンなどに それなりの迫力はあるものの、飛び抜けて他のこの手の映画より優れた箇所は見あたらず、ブルース・ウィリスのファン以外は無理に見る必要は無いかと。
 戦場に取り残され脱出を計る「ダイ・ハード」な感じなら、この前見た『エネミー・ライン』の方が、まだしも それらしかったな。



 日記を書いたりなど、自分がやるパソコン作業はほとんどVAIOに移行したんだけど、ヨメは頑固にMacを使い続けている。
 そのMacのシステムがイキナリ飛んでしまい、復旧に やたら時間がかかってしまった。
とほほー。


2003年11月22日 土曜日

『GUNSLINGER GIRL』05.「約束」

 これまでの身ぎれいな担当官達と違い、クラエスが付いたのは、頭の禿げた風采の上がらぬ、元大尉であるオッサン。
その事が、より一層 見る者に「現実」を突きつける。

 義体を持たされた少女達は、それまでの記憶も、人生の痕跡も抹消されて、「条件付け」により担当官への絶対の信頼が…自らの死さえ厭わず担当官を守る忠誠と愛情が、強制的に植え付けられる。
 整った身なりの若者達がその相手であれば、まだしも本物の「愛情」が介在しているのでは、という想像を入れる事ができるが、今回のオッサンは……基本的に そう悪い人間ではないと思えるが、それでも、「嘘」の関係であるのは あきらか。

 この作品は、危険。
 「萌え」作品に近い骨格を持ちながら、物語としてはその暗黒面を描き、そればかりではなく、創作者としてのダークサイドをも、隠すことなくハッキリと見せてしまっているから。
 作者は、何でも出来る。
作られたキャラクターを、どれだけでも幸せに出来る。
 いや、正確には、「幸せ」であるかのようにキャラ本人にも、見る者にも思わせる事が出来る、という事だが。

 こんな風に、プリミティブに見せてしまう制作者が居るとは…
 この作品で描かれているのは、間違いなく「美味しい」要素なのだ。
だが、甘い糖衣を取り去り、稀釈しない「生(き)」のままの「萌え」と呼ばれる事が多い構成要素を物語に織り込むと、それは余りにも強い劇薬・猛毒に変わる。
 酸素は生きる上で必要なモノだが、同時に人を殺す働きもある訳で。

 見続ける事で、「ダークな物語である」という事から受けるマイナス感情以上に、心の最奥部が不安に晒されていく。
 楽しんで見ていた作品群の「実体」の一部が、ここに、本来 見せてはならない姿を現してしまったから。

 「見てみろ、この慌てぶりを。怖いのだ。怖くてたまらずに覆い隠した。恥も尊厳も忘れ、築き上げてきた文明も、科学もかなぐり捨てて、自ら開けた恐怖の穴を、慌てて塞いだのだ」(『AKIRA』)

 もちろん、このような物語を経なければ辿り着けない場所がある。
そうしてしか、得られないものもある。
 でも、この作品は、そういう目的に向かって進んでいるのかどうかさえ分からない。
 だからこそ、面白くスリリングで、目が離せない訳だが。

 えーと、何を書いてるのか分からない人は、分からないままで( ^_^ )。
別に、こんな事、思う必要など無いのだから。

 エライ物を作ってるなあ、制作者。
 それは、意図してなのかどうなのか。



『君が望む永遠』07.

 深化していく人間関係。
 孝之によって精神のバランスを危うくされながら、また彼に依ってギリギリ自分を保っている水月。
 遙の方に彼の気持ちが傾いていくのを予感した彼女は、引っ越しにより「同居」という強固な既成事実を作る事で、気持ちをつなぎ止めようとする。
が、孝之の「まだ、いいよ。遙が落ち着いてからでも」という玉虫色の返答に、ブチ切れ。
 そりゃそうだろうなあ。
彼女には、孝之に「上げられるモノ」が、もう何も無い。
全てを差し出し切ってゴール間際まで辿り着いたものの、そこで突然のペースダウン。
 と、後方から「かつての恋人」「病人となり、以前にも増して被保護欲をかき立てる存在」というターボを備えた遙が、猛烈なスピードで迫って来る。

 ヘタすると、「遙にはボクが付いていないとダメなんだ。キミは強い女性だから一人でも大丈夫だよね」というような決めゼリフにより、必死で保ってきた明るく気丈な女というイメージがアダに変わって、捨てられる恐れがある。
彼を失ってしまっては、この3年間は何だったのか?
そしてこの先は何を頼りに生きていけば良いのか?
何もかも無くしてしまうではないか!(「自由」を手に入れての明日がある、と思うけど、恋愛の当事者はそんな事まで思い至らないモノで)
 こうなっては なりふり構っていられない!
 …という状況に、水月は追い込まれている訳だろう。
 可哀想だねえ。

 自分には似合わない「憎悪」を表出し続けなければならない(と、自分で決めてしまった)茜は、いっそ崩れて孝之に頼ってしまいたそうな儚さと、切なさを示す。
 この子の心が楽になる瞬間も、早く見たいなあ。

 非常に分かり易く丁寧に描かれる女性キャラの心理に比べ、やっぱり主人公の気持ちはスポイルされている。
 「空白」になっている分、見ている自分自身を容れ易いとして同一化し、2人の女性の間で引き裂かれる「楽しみ」を味わってみる。
また、遙・水月のどちらかに深く感情移入し、はっきりしない主人公との関係にヤキモキしてみる。
あるいは客観的に、「いーかげんな男に惚れちゃったのが悲劇だねえ」と面白がってみる。
 このアニメは、そのどれでも許す、間口の広い構成になっている。
…他のキャラが強い魅力を放つ、三角関係が基本の物語だからこそ成り立つ手法で、他の作品で同じ事をしたらエライ目に遭うだろうけど。

 巻末のオマケ劇場。
泣きながらの水月の訴えと、ギャグな絵柄での「知るかボケェ」という投げ捨てた対応のギャップがおかしくて、つい笑ってしまった。
 このコーナーで笑ったのは初めてかな。


2003年11月21日 金曜日

『R.O.D -THE TV-』05.「やつらは騒いでいる」

 のたのた〜とした日常メインのお話から、一転 舞台をルーマニアに移してのアクション編。
 トランクから溢れる札束ならぬ本束、「ドロボーからドロボーをし、本を自由にしてやる、コレ正義の味方」というセリフ回し、そして湖にたたずむ中世風のお城など、『カリオストロの城』を意識してる?と思われるフシが。
 そうなると、「脈打つ肉の書」ってのはクラリスか?
清楚な少女を表すに、「脈打つ肉」はナイだろーと思うが(笑)。

 紙製の鳥を破砕する謎の攻撃など、正体不明の間は敵のイメージが不気味で面白かったが…「音」を使っているのだ、と分かってからは、演出のテンションで見せ切りはしたもののバトルに関するストーリー的な意外性は薄かったような。
 紙を使った壁で消音効果を発揮させる反撃も、絵だけ見ては少々分かり辛い。
…かといって、「今のシーンを説明しよう」なんて事をしてはダサくなってしまうし、難しい所ではある。
 いや、「紙使い」という斬新すぎる能力に対して、「音使い」にしてもこのぐらいの見せ方では弱いかな、と思っただけ。
 まあ、ここまで満点以上の内容を常に見せてくれたシリーズに甘えて「もっともっと」ばかり言う、ガキのワガママだね。

 音使いを表すのに、その声がサラウンド環境だとグルグル回って聞こえるように設計されていたのが、楽しかった。

 日常では一番役立たずの長女だが、作戦行動に入ると強いリーダーシップを見せ始めて、イイねえ。
 超音波・低周波攻撃により他の2人は精神的ダメージを受けるのに、彼女だけは影響を受けない超然ぶりも心地良い。
「奇妙に感情のバランスが取れている」のではなく、「最初から破綻気味なので関係ない」とか…

 コウモリが棲み、ドラキュラ城を思わせるその主が用いる凝った仕掛けを破るのに使われるのが、ただ腕力だけで投げつけたブラム・ストーカーの「ドラキュラ」原書である皮肉。
「神経過敏バリアー」を打ち倒すには、「無神経アタック」が有効なのだ!(『1・2のアッホ !!』より…古すぎて知らないか)

 非常時だからこそ現れてくる、三姉妹関係の彫り込みが興味深かった。
 音使いとの戦いを終えて、耳をやられたマギーにアニタの声は届かないけれど、その「心」は正しく伝わっていく、という見せ方など、最高に巧い。
 執事(?)の狙撃に到っては、サービスし過ぎな印象。
 アニタを守るためにバラけた「ドラキュラ」本を嘆く長女を見ると、前回 図書館の大量の本を紙片に換えてしまったのも、取り返しは付かないみたいだな。

 エンディングを変えて、読子の探索に失敗しガッカリして帰った ねねねを「絵」で見せ、本来なら落ち込む所であろう彼女が、寝相の悪い三姉妹にしがみつかれて「救われる」まで、前後編でも十分に もっただろう内容を僅か30分にギュギュッと押し込む贅沢な作劇は、お見事!の一言だった。



『フルメタル・パニック?ふもっふ』11.「五時間目のホット・スポット」

 シリーズ最終回。
何だか中途半端な話数のような。
 CMなど見ていると、ソフト化の際には未放映話が収録されるようなので、それを入れると切りが良くなる?

 最終回だが、取り立てて、らしくない内容で、宗介が持ち込んだ生物兵器の容器が解放されてしまう事から起こるドタバタ。
 ごく普通の学園生活の中に、宗介という異質な軍事バカ(笑)が紛れ込む事で発生する非・日常的な風景・「パニック」がこの番外編シリーズのキモだと思うので、それには正しく分かり易く沿った内容であり、構えた最終回よりも「らしい」と言えるだろうか。

 生物汚染されたと知ったクラスメート達の絶望、自分だけ助かりたいのかと問われて防護服を脱ぐ宗介の行動、そして、憎しみを捨てて誰かを責めるのを止めてくれと、責任が全て自分にあるのでなければ立派だったろう演説をする彼…こう見せて「タメ」を作り、悪鬼のような表情で一斉に彼に飛びかかる かなめ達の行動(ココの作画は素晴らしく、何度見ても笑ってしまう)でドッと「解放」する。
 かなめの理性に溢れた演説(「案外 安上がりな散りざま」もあったが)、それに心打たれるクラスメート達、という感動的な展開を見せておいて、一人分しかないワクチンの存在を知らせる事で一気に教室内がギスギスした雰囲気に変わる所。
 「あたふた」だの「あたっちめんと」だの「あたたたたたたたた…」だのばかりで、なかなか「あたり」の紙が出ない抽選箱を前に苦悩する生徒達を見せ、犯人である宗介が当たりくじを引いてしまう事で彼らの怒りが頂点に達し、またもバトルシーンに移行。
その怒濤の勢いのまま なし崩しに教室をなだれ出ていく生徒達などなど、今回は演出による「タメ」「解放」間のギャップの出し方が非常に巧かった。
 これが、ギャグの基本。

 かなめも参加したリンチ(笑)では されるがまま無抵抗だった宗介が、彼女不参加の2度目の襲撃には、相手がクラスメートだろうと構わず容赦のない反撃をする。
 この割り切り具合が壮絶。
基本的に、かなめ以外は どーでもいいんだなあ。

 宗介が かなめを保健室に連れ込むのは、裸になっても困らないように…だと思ったんだけど、そういう細菌だと知るのは連れ込んだ後。
 という事は、「そういう意図」があったという事?
いやー、朴念仁な彼にそんな気の利いた事(?)が出来るとは。
 せめてベッドの上で穏やかに死を迎えさせてあげたいと思った?
でも、服を脱がせるのが謎だし…
 説明書に「服を脱いでさえいれば大丈夫」と書いてあったのを、意味も分からず その通り実行したのかな。

 全体通して、非常にクオリティーの高いギャグアニメだった。
 強力な原作があった事と、一度アニメ化されていて、今作はその上に積み重ねる形で作れた事が、プラスに働いたのだろうか。
 是非とも続編が見たい所。
オリジナルエピソードを入れても、このスタッフでなら、大丈夫ではないだろうか。



 お陰様で来訪者様数が3,000,000を超えました。

 毎度のご贔屓、誠にありがとうございます!

 絶望的なまでに飽きっぽい自分が ここまでHPを続けて来られましたのも、全て皆様のお陰。
 これより先も、ウダウダとした益体(やくたい)もない感想文を連ねて参りたい所存でございますので、末永く生暖かい目で、見守ったり突っ込んだり罵倒したりして頂けますと、大変にありがたいです。

 節目なので何かしら記念の絵でも描いて…と思ったのですが、悲惨なスケジュールの進行が続いているのと、ヨメさんに「あんたのHPで絵の事なんか、誰も期待してないんじゃないの?というか、主催者が漫画家だって事さえ知られているのかどうか」と言われ、全くその通りだなあ、と思ったので、いつも通りの更新にしたいと。たはは。


2003年11月20日 木曜日

『カレイドスター』33.「汗と涙の すごい ロゼッタ」

 ロゼッタが、絶対無理な空中ブランコ芸を成し遂げる約束をしてしまった事から始まるお話。

 焦るロゼッタに、お前にはどうせ出来ないから…じゃなくて、そんなに慌てる必要はないと、ごく基本的な体力作りなどから教えていく そら。
 何をしようと無理なモノは無理で。
「やれば出来る」「根性があれば どうにかなる」といった無茶な精神論になっていない辺りは、好印象。
 ただ…前シーズンのクライマックスで、どう考えても体を壊しそうな大特訓を経て大技をモノにしていた そらの行動としては矛盾を感じないでもないが( ^_^ )。
まあ、ロゼッタはまだ子供だからね。

 ジャグリングを習いたいという子供達の焦りを取っている内に、自分の気負った心まで楽になってしまうロゼッタ。
ストーリーの流れは大変に良かったと思う。
 ボールの扱いがヘタな男の子の手を取って、コツを伝授してあげる所。後ろに跳ね上がった一瞬だけ見える海岸沿いのカレイドステージを目当てに夢中になって漕ぎ、ブランコの楽しさを知る所など、ロゼッタの気持ちがキレイに伝わってくる演出で、巧い。
 お腹や足の筋肉を意識して描いている作画も、「鍛えた女性の色気」を伝えてくれ、目に嬉しかった。

 うーん、面白いなあこのアニメ。



『D.C.〜ダ・カーポ〜』20.「すれ違う気持ち」

 ロボットやエスパー、ネコ耳メイド達が出てこなくなり、主人公を巡る女の子2人の熾烈でシリアスな争いが続く。
 それでも余り嫌な気持ちにさせない不思議さは、キャラクター達に「肉体」が感じられない(感じさせていない)事によるのかな。
ファンタジーな印象はあっても、リアルに「人」だとは思わないから。

 主人公を挟んで対峙する音夢と さくら。
 さくらに詰め寄られて感情の揺れを見せる主人公の腕を掴み、「私のものよ!」をアピールする音夢が、実に「女」でスゲエ(映画『ラーゼフォン』でも同様のシーンがあった)。
一昔前はドラマなどに、一人の女性を男2人が争いあってる所で、女性が「モノじゃないのよ!私の意志を無視しないで!」と涙ながらに叫ぶシーンがあったような気がするけど、現在では逆転。

 女性は、他の男と争ってでも奪うモノである→女性とは楽しく付き合えればいいよね→周りの女性はみんなオレの事が好きなんだ→女達さあ、いくらオレに夢中だからってケンカしてまで取り合うなよ、迷惑なんだよな…という感じで、激しい女性地位のインフレ化が(笑)。
 しかしまあ、今回示されたような状況があったとして、男は、「モテモテで困っちゃうねえ」と楽しむ余裕などなく、とにかく居たたまれなくて「逃げたい」ばっかりじゃないだろうか。



『プラネテス』07.「地球外少女」

 ローランドのキャラクターが微妙に違うな。
原作では療養しているだけだが、アニメだと復帰に向けての意欲が、筋力を維持するためのハンドグリップによって、より分かり易く表されている。
 それがあるために、彼の宇宙への執念→不治の病である事を知らされた絶望、のギャップが更にはっきりと感じ取れる訳だ。

 月面産リンゴ。
低重力のせいなのか、やたらと巨大でイビツな形に育ってしまっている。
 重力の制約が少ない事で大きく育つ、という意味では、ノノと同じ扱いであり、ハチマキよりも身長がありながら まだ12歳である彼女の真相を明かす、前触れとして機能。

 仲良さそうに病室でハチマキとダウトをするノノを目にし、心の揺れを見せるタナベ。
 原作では この時点で彼女は未登場だが、上手くストーリーに組み込んである。
自身でも気が付かないまま、ハチマキへの好意が「先輩」に対するものから替わりつつある事が描けていて。

 原作でのハチマキの印象的なセリフであった「宇宙じゃ健康でいつづけるのが いちばん難しいんだ」が、アニメでは、無い(それらしい説明はあるけど)。
 むき出しの構造材やケーブルが廊下を這い回る、いかにも無骨な原作 月面都市と違い、アニメ版では そこそこに暮らしやすそうな場所に見える。
月まで巨大観光船が通い、ただ生きるだけでもコストがかさむはずの月面都市に「ニンジャ」の生存を許す。
 アニメ版の宇宙は、恵まれた住環境とは言えないまでも、そういう場所なのだ。

 原作のノノは、可哀想に思えた。
 アニメのノノは、「自分とは違う環境下に住む少女」。
 海を知らない、という部分にしても…
例えばオレは、身近な郷里の海を知っているが…そこは海面がドス黒くて重く、単純に「キレイだ」と賞賛できるものではない(キレイに見える事もあるけどね)。
沖縄などの青くて透明度の高い海の側で育った人から見れば、オレだって十分に「美しい本物の海を知らない、可哀想な人」に成り得るだろう。
 東京に出てきたばかりの頃、夜空が都市の明かりの照り返しで明るいため、星が余り見えない事に酷い違和感を感じていたものだが、今ではすっかり慣れ、逆に帰省した際に見る、降るような星空の方にこそ馴染めなくなってしまっている。
 人は、何にでも慣れる。
どこででも、どうにかして生きていける。
 「アニメ版の月面都市」に生きるノノであれば、見る者が「可哀想」などと感じる必要はないだろう(見て何も感じない、という事では、ない)。
そこはもう、意地を張って言うのではなく もっと自然体で口に出来る程に、「人間の世界」なのだから。

 このアニメでの宇宙は、全体にもう「人間の世界」になっているように思える。
だから、過酷の一言に極まる宇宙を舞台とした原作とは、ストーリー自体は ほとんど改編無く同じでも、受け取る印象が かなり違ってしまう。
 「良い」とか「悪い」ではなく、「違う」という事。
 「原作宇宙に冗談ニンジャが存在する余地なんか無いだろ」と思っていたが、アニメでは「冗談ニンジャも存在する宇宙」として組み直した、また新しい感慨を残す物語を見せていくのかな。

 宇宙にいる事に迷いを感じてしまうハチマキに、「宇宙で死ぬ」覚悟を伝えるローランドと、「宇宙で生き続ける」自分を見せるノノ。
その狭間でハチマキは、宇宙への「覚悟」を得てゆく。
 原作が名エピソードである事にもよるだろうが、今回は出来が良く、面白かった。
このレベルのキープを期待したい所。



 あーうー、一段落。
 でも、これからは年末まで、悲惨な進行が続く。
うう…いや、お仕事を頂けるってのは有り難い事なんだけどね。


2003年11月17日 月曜日

 いつもの悲惨なお仕事スケジュールに突入。
 『プラネテス』とか感想を書きたい作品もあるんだけど、そんな場合ではなく ちょっとお預け。ちぇっ。
 えーと、多分水曜日になれば更新できるかと。

 では仕事に戻ります〜……


2003年11月16日 日曜日

『鋼の錬金術師』07.「合成獣が哭く夜」

 愛娘・ニーナと犬を合成して、人語を解するキメラを作ってしまうタッカー。
…なかなかに強烈なイメージ。
 タッカー父が、人を人とも思わず自分の研究の事しか頭にない狂人であればともかく、娘を愛し、他者の気持ちを理解する心を持つ「人間」である事を描いた上での この所行。
余計に業が深いというか、救われないというか、救えない。
 酷いお父さんではなく、優しいお父さんが、追いつめられて示す(いや、追いつめられずとも表れてきただろうな)「魂の暗部」。
幼い子供の視聴者には、トラウマものの内容だったかも。

 人外のモノに換えられながら、まだ父親への思慕の念は消えず、彼を殴り続けるエドの裾を引っ張って止めようとするニーナ。
汚いなあ(誉め言葉)、ちょっと泣けてしまった。
 ニーナ「だったもの」を楽にしてあげる役割を、エド以外の者に託したのは「優しさ」かな。
替わりに、手を下した者が修羅の道に堕ちてしまったようだけど。

 人間に潜む暗闇を描くのに容赦がない、會川 昇脚本にふさわしい内容(原作に依る部分が大きいにせよ)。
腹にズシリと堪えた。


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