2003年12月19日 金曜日 |
厳しい年末進行のお仕事、ようやく一段落。
全部終わった訳ではないけど、とりあえず。
ううう、今回は辛かった。
久しぶりに布団で寝ます。
起きたら、ぼちぼち更新したいと。
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2003年12月16日 火曜日 |
あと ひと山…ここさえ超えれば…
布団で寝たいなあ。
イスで寝るのにも慣れたけど。
まともな更新は、もう少しお待ち下さい。
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2003年12月13日 土曜日 |
日本映画専門チャンネルで放送していた、映画『世界大戦争』を見る。
1961年作品。
特撮監督が円谷 英二。
ズシリと重い内容で、59年の映画『渚にて』を連想させる所も。
仕事をしながら見ていたんだけど、後半ではボロボロ泣いてしまう。
忘れかけていた とても大事な物を思い出させてくれる映画。
自衛隊派兵…といった今だからこそ、より見ておく価値がある内容かも知れない。
『無人惑星サヴァイヴ』08.「生きるために大切なこと」
サブタイトル通り、「生きるために大切なこと」を きっちりと描いた お話。
ここは、いくらでも避けて通ったり綺麗事で済ませたり出来る所なのに、真正面から描いた誠実さと、しかも描ききったと言える制作者の力量には、驚かされるばかり。
本当、何を伝えたいかというビジョンをしっかり持っている作品だと思う。
あー、もうちょっと書きたい事あるのに……時間がぁぁ…
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2003年12月11日 木曜日 |
『まぶらほ』09.「つかっちゃった…」
主人公の使用可能な魔法回数を増やすべく、そういう効能があるという温泉へ。
…という所から視聴者が当然 期待するサービスシーンは、玖里子の積極的な行動があって前半部はそこそこ良い雰囲気だったと思うが…
後半、イキナリ野球勝負になる所で一気にテンションダウン。
「(サービス一杯だろう、という)期待を壮絶に裏切ってやる!」ってギャグもアリだけど、その場合、客に怒りとか失望とかを感じさせる隙を与えないほど怒濤の勢いで、無茶な展開を押し切る必要がある。
しかし、それどころか今回の後半部は失速気味でダルくさえ なっており、不満を感じさせる時間が十分すぎるぐらいに設けられていた。
せっかく玖里子と主人公、2人きりの旅行にしたのだから、接触時間が長いので、主人公に対して抱く彼女の気持ち(純粋な好意)がチラチラと現れて来るエピソードにした方が、意外な可愛らしさを演出できて良かったような。
このシリーズは、お話の内容を どうこうと言う物ではないため、とにかく3人のヒロイン、そのキャラクターを大事に大事に扱う事で勝負するしかないと思うが。
年末進行継続中…
映画見に行きてえ〜。
旅に出てえ〜。
すみません嘘です分かってます頑張ってます寝てませんホントはちょっとだけ床で寝ましたごめんなさい(業務連絡)。
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2003年12月8日 月曜日 |
西原 理恵子先生の単行本「できるかなV3」を読む(あ、リンク先Amazonで ご購入されましても、こちらには一円の紹介料も入りませんのでご安心下さい)。
ファンなんで単行本は大抵持っているけど、その中でもコレは、凄い!
ナニが凄いって、冒頭の対 税務署バトルの下りが、頭クラクラしてくるぐらいスゲエ!
怖いモノ無しだな…シャレでも何でも、税務署を敵にする事を公に言うのは、さすがに
みんな避けるんだけど。
しかし、タブーにメチャメチャ踏み込んでいるだけの事はあって、笑える笑える。
声を上げて大笑い。
ここまでやられると、「納税は国民の義務」とか何とかいう常識論では読めず、もう
ある意味「ファンタジー」であり「ダークヒーロー物」の域にすら突入していて(笑)、もの凄く面白かった。
税務署に呼び出されて、「あたしの金を盗む泥棒が おまえ来いと。おまえの金を盗むから来いと」と叫ぶ西原先生には、惚れる。
『プラネテス』10.「屑星の空」
ああ、ハチマキがタナベに彼氏の有無を聞いたのは、チェンシンに頼まれての事だったのか。
メールでも掲示板でも そう指摘して頂いていたが…その通りでした。鋭い!(分からない方が鈍い?)
でもまあ、ここいらは、「え?ハチマキはタナベが好きだと自覚したの?」「何だ、チェンシンのためか」「いや、でも
それらしい所が見えるぞ、やっぱり好きなのか?」という具合に視聴者の感情をアチコチさせるのが目的のドラマ運びだろうから、その通りに踊らされてみるのも
また楽し( ^_^ )。
この作品では、「デブリ」が、その話で描かれたキャラクターを象徴するモノとして扱われる事が多い。
今回は、ユーリの亡き奥さんが残したコンパス。
「方角を知るため」の物であるコンパスを探し、自分自身の行くべき「方向」を見失いかけているユーリ。
…といっても彼は大人なので、自分の感情を上手く処理できないハチマキや、もっと酷く気持ちの乱れに振り回されるタナベのように、他者に迷惑をかける事はないのだが。
表に見えない分、心の内の傷は癒えることなく、遙かに深かったのかも知れない。
遺体は行方不明で、遺品さえ回収されなかった奥さん。
彼女の縋るような目が焼き付いて離れない彼に取り、自分を探してさまよっているように思える彼女(の遺品)と再会する事は、どうしても必要だった。
あの時、残していった彼女は自分に何を望んでいるのか、知るために。
コンパスに手が触れようとした瞬間に、ユーリを襲うデブリの群れ。
緊迫感がここで弾け、怒濤のアクション展開が続いて、原作を読んで先が分かっていても手に汗握ってしまう。
また、これを通してハチマキ、タナベらのバラバラになった心が一つになっていく構成も巧い。
デブリに弾き飛ばされたコンパス。
本来なら彼から大きく引き離されたはずのそれが、気を失ったユーリを引き上げる手となって現れ、いつの間にか彼の伸ばした手の内に握られているという運びの上手さ。
自分の「お守り」だと言っていた彼女のコンパスに彫られていたのは、ただ夫の無事だけを思う「ユーリを守って」という言葉。
コンパスは…ユーリに、彼女が自分自身よりも大事に思っていた存在として、生きるべきだと「方向」を示したのだ。
母船からの無線音声が途切れ、帰る「方向」を見失っても、「上等だこのォ!自力で上がってみせらぁ!」と啖呵を切り、それを自分一人で迷いもなく実行して見せるハチマキがまた、話の中でいいポジションを占めてるよね(最後はフィーのアームに助けてもらったみたいだけど)。
デブリ回収屋が「造花」というデブリを増やす、ラストに強い思いを込めて。
アニメでのオリジナルなエピソード(原作のこの時点では未登場のタナベや、チェンシン、ギガルトなど)を非常に巧妙に織り込み、見応えのある内容に仕上がっていた。
WOWOWで放送していた『ディーン・クーンツのブラック・リバー』を仕事しながら見る。
『ファントム』『戦慄のシャドウファイア』『邪教集団トワイライトの追撃』などなど、とにかく売れる、面白い小説を連発する作家、ディーン・(R)・クーンツが原作と総指揮。
お金のかけて無さからすると、TVムービーと思われる。
とある街を通りかかった、仕事に行き詰まりを感じている作家。
彼は そこで黒い車につけ回され始め、何故か街から出ていこうとする試みは全て失敗に終わってしまう。
SFというかホラーというか、いやー…世にも奇妙な物語とかの一本みたいな
お話。
街から出られなくなる不条理感は、現代の『プリズナーNo.6』かと思わせ、誰も乗っていない黒塗りの車とか小道具に面白い所は、ある。
その街で、死別したばかりの愛犬とそっくりな 飼い主の居ない犬に出逢い、気の合う女性と恋に落ち、住み心地の良い家を紹介され…と、どんどん定住への環境が整えられていく不思議さも、まずまず。
ただ、街中に監視カメラが仕掛けられており、人工知能を開発するハイテク企業が郊外に研究所を構えていて、コンピューターのミスで主人公が逮捕され、車が廃車になってしまい…までも見ない段階で、オチがすっかり予想でき、しかもその予想を覆される事はない、というのが…
まあ、クーンツの小説は作者の生真面目さが全面に現れていて、「分かったような分からんような所は残るけど雰囲気は良いスティーブン・キング」と違い、「読み終わった読者の頭の中に疑問符が残らないようにする」事に主眼を置いているような感じがあるからなあ。
『ファントム』なんか、途中までの不条理ホラー劇はゾクゾクするほど面白いんだけど、ラストに向けて謎が解かれ、ドラマが収斂を始めると、「えー?そんな話だったの?」と思わせられてしまった(でも、好き)。
読み終わってアイディアそのものを俯瞰してみると、割に良くあるネタだったりする事が多い。
それでもなお毎回、読者に最後まで面白く読ませるのは、彼の超絶の筆力あってこそ。
この作品で、主人公を取り囲む状況が「良くなって」いくのに、本人は段々イライラしていくのがよく分からなかった。
こんなに暮らしよい街なら、素直に永住してしまえば良いのに。
ラストシーンを見て…尚更、抵抗の意味は不明に。
主人公を街に定住させようとする「力」が、やたら彼あてに電話をかけてきて不気味で不快な言葉を囁きかける、この理由もよく分からないなあ。
黙っていた方が良いのでは。
「怖い物語にしたい」意図だけが突出して、「何故?」が突き詰めて考えられていないので、薄っぺらい作品になってしまった感じ。
作者本人が総指揮なのに…
クーンツの映像化作品は、キングより遙かに駄作が多い(傑作が無い?)ので、仕方ない、こんなモノかな。
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2003年12月6日 土曜日 |
『GUNSLINGER GIRL』07.「守護」
目的があり、取りあえず善人ではあり得ない風体の男達との戦いがある話で、指導官自身も活躍する事によって、物語の基本にある「悲劇」「異常性」といったものはほとんど感じられない・感じないで済む内容になっていた。
保護対象の男に、喋っていた事は嘘だったのかと問われたリコが答える「私は苦手なので、嘘はジャンさんの担当です」というセリフ、気が利いていて楽しい。
ジャンに対する微妙な感情が伺える。
カーチェイスとガンアクションが、非常に淡々としていて緊迫感に欠けたのは残念。
まあ、「目が覚めるようなスーパーアクション」を見せたい作品ではないんだろうけど。
どう見ても倍は体重があるだろう男を、塀の上に軽々と引き上げるリコ、といったシーンは地味に良かったが。
少女達に、自分が撃たれる事や、指導官以外の「守るべき」他者が傷付く事、もちろん障害物である敵対者を射殺する事にも、一切の痛みや
ためらいが無いのが凄絶。
「死を告げる天使」といった感じかなあ。
自分たちの実体を見た敵を生かしておいては、「少女ターミネーター」である優位性が失われてしまうので、皆殺しにする以外に選択肢はない(既に噂が拡がっているようだったが)。
無感情なジャンの行動を見ていると、もしかして彼らも「条件付け」された人間なんじゃないかと思えてしまう。
少女達が指導官に好感を持つようにされているのと同様に、彼らも少女達に「好意」「強い好意」「全くの冷徹さ」を持って当たるよう「条件付け」されている、とか。
ううう、こんなに連日 締め切りが来ては、身動き取れねー…
眠い…
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2003年12月4日 木曜日 |
『R.O.D -THE TV-』07.「藪の中」
うーん…
このアニメが「毎回舞い込む様々な依頼を三姉妹が解決していくシリーズ」だったらコレで問題ないんだけど、「ねねねや三人組達の細やかな日常描写と精神的交流」辺りがメインになっていると思えるので、依頼を受ける過程を飛ばしてイキナリ事件の渦中にいるシーンから始められると、面食らってしまう。
そういう不安定な状況から始め、事件の全体像も割に不明瞭なまま終わらせてしまう事で、視聴者に
より強く不安感や不条理感を受け取ってもらおう、という意図なんだろうけど。
一つの物語としてはともかく、シリーズの流れとして見た場合、この話がどういう意味を持ってくるのかも分かり辛い。
三姉妹の関係が壊れた訳でも深まった訳でもないので(ルーマニアの事件では、関係性の前進が感じられた)。
…という所さえ気にしなければ、『うる星やつら』『パトレイバー』時代の押井 守風 不条理劇に似た雰囲気があり、こういうの好きなもので、結構楽しく見てしまう。
狂った老夫婦はデビッド・リンチかな?
マギーが逃亡して警察署の明かりがバラバラについていく所は、『カリオストロの城』オープニングのカジノみたいだった。
「地味だから、人に紛れると見つかりにくい」と評される端役専門の舞台役者、ジョン・スミス。
彼が持ち逃げした大英図書館所有の本を取り返すのが、今回の仕事。
といっても、前と同じく読仙社からの依頼であり、取り戻せても本が図書館に戻る事はない訳だが。
不安感を煽る音楽や演出が多用された。
街の人間の顔を、余り見せないのが効果的。
スミスの地味な(印象に残らない?)顔、というのも表しているんだろうな。
そういう中で、アニタにポルノビデオを見せたがった老夫婦は濃い目の顔をし過ぎており、端役としては不向き(笑)。
「ジョン・スミスは藪を燃やされた。だから彼は新しい木を植えた。一杯、一杯、いっぱい…」
というアニタが読んだメッセージ。
燃やされた、というのは冒頭の劇場火災の事かな?
あれで自分が演じる場所(色々な所に出ていたようだけど)を失ってしまった彼は、本を売ったお金で演じるための街を作り、新しい木=他の役者(劇場より遙かに広いこの街そのもの?)をたくさん住まわせた、と?
ワザと火事を起こし、死んだと見せかけて本を持って逃げたのかも知れないが、この辺はよく分からない。
捕らわれていたミシェールが街に出て、最初に会った男を「ジョン・スミス」と呼び、またマギーを挽こうとした車の運転手をも「ジョン・スミス」と呼ぶ所から、彼は拡大した役者能力を持つ男(紙使いが居る世界だから)であり、「主役」の居ないこの街の中で、全て「端役」である街中の人間を一人で同時に演じているんじゃないかとも思ったけど…
ミシェールに、他の人々は「演技だけが生き甲斐の役者達」と言われていたのからすると、やっぱり人は大勢居るのかな。
全員で、「ジョン・スミスが化けた」ベンチに座る男、「ジョン・スミス扮する」車の運転手、「ジョン・スミスが演じる」警官…に、なっていた、という事か。
役者達は、自分たちの夢の舞台である街を守りたかったのかも知れないが、逆に…
「舞台は、観客無しでは成り立たない」
もしかしたらスミスは、ワザと希少本の情報を流して、それを求める人間が街にやってくるのを待ちかまえ、「舞台」を演じて見せていたのかも知れない。
フツーに所用で街を訪れる人も居るだろうが、「日常劇」ばかりでは役者が飽きる恐れがあり。
たまには「サスペンス」も混ぜないとね。
あと、役者にとっては「悪役」こそ演じ甲斐がある、とも聞く。
必然性によっては暴力も振るうけど、それは決して主題ではなく。
捕まえた後、余りしっかりと拘束・監視しておかなかったのも、その辺はもう
どーだっていいから、かもね。
もっと一流の役者であれば そういう裏の所まで役作りするだろうが…そんな事だから「端役専門役者」止まりなんだ(笑)!
もう一つスッキリしない部分はあるけど、それはマギーが間違え今回のサブタイトルにもなった「藪の中」という言葉がキーになっており、「真実は藪の中」で終わらせた、と取って良いのだろうか。
芥川龍之介の小説で、同名の「藪の中」というのがある。
「三人」分の真実が語られ、解釈は読者に任される物語なので、今回の内容と重なる…かな?
ラストシーンは、読仙社の広大な書庫に仕舞われる、元ジェントルマンだった本。
『レイダース』だなあ。
偶然だけど、『サウスパーク』でも同様の事をやっていたので、またかと( ^_^
)。
そういえば、多分今更なんだろうけど、三姉妹の名前って、『ワンダーガールズ 東方三侠』という香港映画に主演した女優さん達、梅艶芳(アニタ・ムイ)、張曼玉(マギー・チャン)、楊紫瓊(ミシェール・ヨー)から来てたのね。
初めて知った。
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2003年12月3日 水曜日 |
『まぶらほ』08.「やっちゃった…」
ネックレスを盗もうとしていた、と皆に疑われる少年。
ただ、和樹だけは何故か理由のある行動だったと信じる。
この、「信じる」に到った理由付けを上手く処理するのが、こういう話でのポイントになるのだが…
主人公の魅力を表すのに、「果てしない お人好し」というのは分かり易く効果的だと思うけど、それは決して「バカ」と同義語ではない。
構成として、3人の女の子をフォローしようとして男の子は一生懸命だった、という事で和樹自身の現状と重なる境遇にあり、何らかのシンパシーを感じていたのか、と取れなくもない…が……
また、そんな主人公を見て3人のヒロイン達が、回想バンクを挟んで(笑)、彼に惹き付けられている事を自覚していくのだが、これが物語の流れに上手く溶け込んでおらず、「どうして今こんな事を思い出してるんだ?」と疑問を感じさせられてしまった。
この手のハーレム系アニメでの、主人公がモテる理由を示すエピソードはかなりガッチリとパターンが作り上げられており、その上にキャラを乗せて流すだけで、特に不備のない話は出来ると思う。
今回は、失敗して そういうパターンのレールから脱線した印象だなあ…
『クロノクルセイド』02.「契約者」
うーん、すっ飛ばした展開をしてる。
クロノの実体が見えそうになる…だけならともかく、彼を可愛い男の子だとばかり思っていたシスター達がそれにショックを受けるのは、もうちょっとキャラクターが定着してから起こすべきイベントかと。
作画は良いし、演出も悪くなく、脚本も不出来というには当たらない。
なのに、どうにも引き付けられないのは何故なんだろうか。
個人的に、こういった傾向のアニメには食傷気味、だからかな?
『スレイヤーズ』ほど突き抜けて明るい訳ではなく、『鋼の錬金術師』ほどヒネった内容でもない。
その上 画面構成が普通で、バトルに上手く緊張感やカタルシスが演出できていないとなると、なかなか、アニメならではの価値を見出し辛い。
最後に出た無表情系メイドさん。
原作でも非常にイイ感じのキャラなので、彼女を早めに出して その魅力で視聴者を引き付けよう、という戦略なんだったら、正しい判断かと思う。
あとは彼女と彼女と…
脇が揃ってくれば、それに対するリアクションなどで またロゼットのキャラも確立していけるだろう。
『サウスパーク』84.「カントクはディレクターズカットがお好き」
『E.T.』の20周年アニバーサリー特別版。
E.T.を自転車のカゴに乗せた子供達を、追いつめる大人が手に持っていた銃。
コレが何だか宜しくないと最近になってスピルバーグは考えてしまったらしく、デジタル処理でトランシーバーに変えた、という事実。
でもねえ、正体も どれだけ危険な存在かも分からない宇宙人を追いかけようという時に、アメリカ人が銃を持たない、と考える方が不自然なような。
持っていたけど使わなかった、という所にこそ、大人の理性が感じられるんじゃないの?
…というような不満があったので、それを題材にした今回は、エラく笑える話だった。
『プライベート・ライアン』の特別編(もちろんウソの)では、「ナチ」という言葉は「政治的に意見の異なる人々」に置き換えられ、『E.T.』と同じく劇中の銃は全てデジタル処理でトランシーバーにされている。
オマハビーチに上陸する兵士達が、手に手にトランシーバーを抱えて撃ちまくり、血まみれになって死んでいく光景が壮絶。
続いて、『スター・ウォーズ 帝国の逆襲』の登場人物が全員イウォークに変えられ、『レイダース』(ルーカスの、「忘れたけどこの映画は面白かったはずだ」というセリフが凄い)でインディー・ジョーンズを追ってくる土人 原住民の方々までイウォークに。
そうだよね、昔は天才だったけど今は……になっているクリエイター、沢山居る。
そういう人々が今になって、昔の作品に手を加えたり懐かしのキャラクターを引っ張り出してきてメタメタにしたり、という行動はファンとして
とても悲しいので、何とかならないモノか、とは思う。
一方、一応モノを作る者としては、「今のオレの方が昔より上手くなっているはず」「だから、今
手を入れれば昔のモノはもっと良くなる」と考える、その気持ちもよく分かる。
昔の方が上手かった、年を重ねる毎にオレはダメになっていく…と思っては、人はなかなか生きていけないものだし。
でも、まあ三流えっち漫画は置いといて(笑)、人々の心に長く残る名作を作り上げた人は、滅多な事でそれに手を入れてはいけないのだと思う。
「ダメ」な部分も含め、観客が愛し評価してくれた事実があったからこそ、「名作」に成り得たのだから。
今回のラストで、監督の魔手から守るべくマスターフィルムを木箱に詰め、『レイダース』のエンディングそのままに倉庫に収められていくシーンが、何とも言えない余韻を残した。
って、いや、基本的にはブラック・ジョークの話なんだけどね。
容赦のないルーカスのノドの描き方と、メチャメチャ悪役にされたスピルバーグが可笑しい。
いつもの事だけど、よく訴えられないなあ このアニメ。
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2003年12月2日 火曜日 |
『君が望む永遠』09.
主人公に苦悩とか葛藤が弱く、魅力が薄い…どころか、反発さえ感じさせるなあ、このアニメ。
多くのハーレム系 萌え作品で、やっぱり主人公は強いキャラクター性を主張していない。
うま〜くストーリーの、そして女の子達の都合に合わせて流されてくれる性格をしていないと、こういった作品は成り立たないから。
そりゃ、「おまえ好き。だから そっちのお前とは付き合わない」とハッキリ口に出してしまう主人公では、その時点で話を終わらせてしまうよね。
それでも、反発まで感じさせる主人公は少ないと思う。
そういう作品の多くには、この物語ほどの「悲劇性」は含まれていない。
死んだり消えたり…といった「悲劇」が起こる作品はあるが、実はそうやって「終わる」事で起こる哀しさや辛さって
その通り、終わりがあるモノで、そこを通り過ぎれば割とすぐに楽になってしまう。
シンドさを「継続する」ドラマが、一番「悲劇性」がキツイ。
だから、シンドイ状態をキープし、キャラクターを生かさず殺さないキツ過ぎる展開を見ていると、視聴者は誰かに、大抵は野郎である主人公に、蓄積したストレスのぶつけ先を求めてしまう。
ところが主人公が凄くイイ奴だったりした場合、仕方なく八つ当たり先が、水月ヒイキの人は遙に、遙
萌え〜の人は水月に換わってしまうかも。
でも どちらも可愛いしなあ…などと躊躇いが出てしまった場合、最悪、「このムカつくアニメがイカンのじゃあ!」と作品そのものにストレスをぶつけられる恐れすら発生。
なので、主人公は、ストレスのはけ口にして呵責の無い、しょーもないお兄ちゃんに設定するのが効果的、というか、そうする事が必要なのかも。
今回は、ファミレスでウェイトレスをする あゆの正体が僅かに示された。
人手を使って絵本を探させる辺り、実は大金持ちの令嬢っぽい。
ワガママ一杯に育ってきた手が付けられない彼女を、真正面から叱ってくれたのは主人公だけだった…とかで好意のフラグが立った訳かな?
礼も求めず去っていく態度は なかなか「男前」で、単なるコメディーリリーフとしてしか見ていなかったけど一気にポイントアップ。
『D.C.〜ダ・カーポ〜』21.「すてきな思い出」
終わる世界。
音夢を助けるため、島にかけられた魔法が消え始め、SFやファンタジー寄りだったキャラクター達が依るべきモノを失い、「力」を無くしてゆく。
メイドのネコ娘・頼子が、まず舞台から去る。
外に出る事を恐れ続けていた彼女が、最後に望んだのは、好意を抱く主人公と共に深夜の学校を訪れる事。
桜が舞い散る校舎に2人で忍び込み、誰も居ない教室へ頼子を「転校生」として迎え入れ、自販機で買ったお茶を一緒に飲む。
実際には深夜の校舎なんかもっと不気味だと思うけど…それはともかく、頼子の、そして彼女の主人である少女の夢が叶っていく過程を、優しく、ファンタジックに描いてあり、とても気持ちよく見ていられた。
てっきり、頼子は「ネコ」と「主人である人間の女の子(の一部?)」が解け合って現れたものだと思っていたが、ネコが変身しただけのネコマタだったんだなあ。
それじゃあ、ご主人様に自分が体験した事を伝えられないのでは…という心配は杞憂で、「何か」確かに伝わった様子。
それは、窓の外に舞い落ちる桜の花びらがくれた、最後の奇蹟だったのかも知れない。
もっともっと頼子が彫り込まれているキャラクターであれば、涙腺に来たかも知れないぐらい、この話 単体としては出来が良かった。
いつも作りすぎるカレー、という日常的なものに対してのセリフのフォローまで考えられており、効果的だったし。
この後は、エスパー少女とロボットが片づけられていくのかな。
いつでもどこでも鍋、という不思議お姉ちゃんにも、魔法が関係していたり(笑)。
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2003年12月1日 月曜日 |
『円盤皇女ワるきゅーレ十二月の夜想曲』09.「最強超アキドラ」
秋菜とハイドラが合体して、無敵のアキドラと化す話。
合体の設定が変に凝っており、友情合体バロム・クロス(『超人バロム1』)…と真反対で、2人の友情が「壊れた」瞬間にのみ合体できる事になっている。
合体状態で2人の気が合ってしまうと、強制的に合体解除されてしまうのだ。
友情を壊すため、合体前には必ず互いの大事な物を破壊するのが、悲しくも笑えた。
この凝った設定に対し、コーラスは「ダメだよ!そんな設定はヒネりすぎだよ!読者が付いてこないよ!」と不満足(笑)。
確かに、ヒネり過ぎた設定は不評である事が多い。
オレも、えーと例えば…根性ワルの天使と、素直で純真な悪魔の女の子が出てくる話を考えて他人に話した所、「分かりづらいだけで、無意味」とアッサリ否定されてしまった。
言われてみれば、その設定の意味って、「人とはちょっと違う物(いや、こんな設定など珍しくもないけど)を描きたい」という自分の気持ちを満足させてくれるだけ。
その設定が無ければ描けない話では、なかった。
ただ、余りにも素直な設定ばかりにしてしまうと、「よくある話」と低めに評されてしまう部分があり、難しい。
設定なんかヒネらなくても、ドラマやキャラクターの捉え方にオリジナリティーが溢れていれば それで良い訳だけど……それは、なかなか実現できない事で。
だからつい、凝った設定を一杯作ってしまうんだよね。
作りすぎて自家中毒を起こしてしまい、「設定を使って面白い物語を作る」のではなく、「設定を消化するための物語」になってしまっている作品、よく見る。
それは努力であり、お客様への誠意でもある、とは思うんだけど…
『仮面ライダー555』43.
人間の国家的組織によるオルフェノクへの迫害。
追いつめられ、恐怖に駆られて またも人間を殺して(死んでたのかな?)しまう結花。
彼女を救おうとした木場までも人を手にかけ、シリーズ冒頭以来で、視聴者が忘れかけていた(忘れてあげようとした)「穢れ」を身に纏ってしまう。
という事は、罪もない…とまでは言えないにせよ人を殺してしまった事に、いずれ、恐らくは命をもってオトシマエをつけなければならない?
が、巧にしても、「人間」にこそ危害を加えていないものの、「オルフェノク」を「それでも人間(巧自身もその一員である)」とするストーリーの流れであれば、いずれ彼らを消していった事実が物語上の罪になってくるかも知れない。
思えば、同族殺し、というのは石ノ森先生がずっと描き続けたテーマ。
そもそもの『仮面ライダー』がそうだし、『サイボーグ009』『変身忍者嵐』『イナズマン』など、多くの作品で繰り返し描いている。
人間のために戦い続けているのに迫害を受ける事で、「先」が見えなくなってしまう木場…この作品は全体にそれっぽいんだけど、『デビルマン』だよね。
「これが、これが、おれが身をすてて守ろうとした人間の正体か。地獄に落ちろ、人間ども
」
巧は、「人間」としてならまだ許される余地があるが、木場は既に「人間」「オルフェノク」どちらに対しても同族殺しを行っており、帰る場所が無い。
彼自身が最上に立つ王国を築けば罪は罪でなくなるだろうけど、そういう性格でもなし…まだしもオルフェノク・スマートブレインの方が、(裏はあるにせよ)鷹揚に許して受け容れる度量を持っていそう。
『アギト』でも、警察機構等の人類側勢力 対 新人類の戦いを描いて…描こうとしていたが、今回は最後までそれを貫けるのだろうか。
まだまだストーリー上の伏線が未回収であり、大きな仕掛けと思われるモノも未発動なので、どうなる事か。
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