ときどき日記 05/09

2005年9月30日 金曜日

『攻殻機動隊SAC 2nd GIG』最終話.「憂国への帰還」

 ずっと見ていたけど、感想を書いていなかった。
 OVAとして先行発売されたモノをテレビで流す形なので、とにかく最後まで、驚異的にクオリティーが高い。
 シナリオも良く練り込まれており、公安9課の面々を有能に見せるための お膳立てが毎回きっちり整えられ、素子も空回り無しで格好良く見え続けた。
アニメ界全体に「物語る力」が低下している昨今、これは素直に感心し、賞賛して良い事だと思う。

 難民を扱った今期のストーリーは、ともすれば思想的に難しい所へとハマり込んでしまいそうだが…
そこいらは飛ばして、キャラクターとアクションを主体にドラマを組み立てたのは、正解。
 前シリーズに続いてタチコマ達が可愛く、愉快で、イイ所を持って行ってる。
素子の危機と見るや、すぐ取り乱すバトーも可笑しい。

 感想が書き辛いのは、ストーリーにも画面にも情報量が多すぎ、何となく見ていては取りこぼす要素が大きく、しかもそれが必ずしも「どうでもいい部分」ではないから。
迂闊な事を書くと、ちゃんと見ていない、少し入り組んだ描写だと途端に理解できなくなっている、という自分の限界が明確にされてしまう(^_^;)。
 例えば最終回で、タチコマの一機が自分達データのバックアップ(転送?)を行っていたみたいだけど、何のため?それを使った復活はあり得るの?とか。

 「気楽に見られるアニメ」ではない(作り手もそれを指向してはいないだろう)けれど、非情に良く出来た、見ておく価値のある作品なのは間違いない。



『極上生徒会』最終話.「今日も極上日和」

 シリーズ途中には、割とシリアス気味な話も入っていたと思うけど、その根幹である神宮司のお家事情でさえ、唐突に りのの兄だと言い出し当主宣言したプッチャンと、聖奈の台頭でワヤに。
…って事は、まあ予想通り真面目になんて見ちゃイカン作品だった、という事。
 最終回は、「超展開」としか言い様がない無茶なイベントの連続だったが、製作者側が明確に狙ってやっているモノなので、怒ったり呆れたりしたら負け( ^_^ )。

 キャラを多く出し過ぎて、それぞれの魅力が少々薄味になってしまったシリーズ。
 漫然と見ている分には、「面白かったかな」と言って良い内容だったと思うけど。
開始当初 強烈だったプッチャンでさえ次第に影が薄くなり、しかし代わりに誰が目立ってきたという訳でもなく。
 キャラ「萌え」のコンテンツを狙って作るにしては、製作者側の計算高さが足りず。
かといって、限定したキャラクターを計算も何も無く熱狂的にヒイキして盛り上げるには、冷静さが邪魔をしてしまったような。



『プレイボール』最終話.「僕たちのレインボウ」

 頑張って、頑張って、頑張って試合に勝利を収める、あるいは力及ばず惜しくも負けてしまう。
野球って良いなあ、頑張るって凄い事だなあ、若いってそれだけで価値があるなあ、などとしみじみ思わせ、熱い感動をくれた作品。
 とても今風とは言えない「ダサい」内容を、テレたりパロディーに走ったりせず、大真面目に正面から描ききったスタッフに、拍手を。
 未来を見失いがちな子供にも、今を生きる事に疲れてしまった大人にも見て欲しい、元気が出るアニメだった。

 …とココで終わらず、続編の製作が決まったという事だから、放送を楽しみに待ちたい。


2005年9月29日 木曜日

 うわー!『24・TWENTY FOUR SEASONIII』、今夜からフジテレビで連続放送なんだ!
 知らなかったから…昨日、レンタルで見終わった所。
もうちょっと待ってれば良かったかなあ。
いや、まあいいや、自分のペースで見られたから。

 感想としては、相変わらず無茶な構成だなあ、と。
その場その場の思いつきみたいに事件が展開していくモノで、振り返って考えると、前半はほとんど無くても良かったんじゃないかとか、最終的な黒幕を登場までに予測するのは不可能とか、ツッコミ所多数。

 事件は解決して終わってる訳だけど、この作り方なら、まだ いくらでも続けて行けたろう。
 24時間緊張しっぱなしなのに耐えかねて…なのかどうなのか、キャラがやたら感情的になり互いを疑ったり怒鳴り合ったりして、それで危機感を盛り上げようとする演出が目立つ。
 途中で忘れている枝葉も多いような…
アレはコレはどうなった?この人は誰に使われていたのか結局謎のまま?という。

 文句もあるけど、やっぱり目が離せない、グイグイ引きずり込まれるシリーズなのは間違いない。
 ジャックのヒトデナシさ加減が爆発し、恐ろしい手段に出るシーズン2も好きだけど、大仕掛けがあり、被害も大きく、まさかと思う人間が愚挙をしでかし、シリーズが続く限りレギュラーで居続けるのだろうと思ったキャラが意外な形で退場する、シーズン3はエラく充実した内容。

 ジャックのキャラクターがすっかり確立したので…
極悪な犯人でさえ彼の非道な交渉(脅し)に驚き、「そんな事が(捜査官として、人として)出来る訳がない」と侮るシーンが あるのだが、画面を見ているこちら側は「甘いな…ジャックはヤルぜぇ。コイツは任務のためならホントに何でもやる、お前らより遙かに恐ろしい狂犬なんだ」と、シリーズを追い続けてきた人間だから持てる、妙な「優越感( ^_^ )」と共に見ていられる。
そいでもってジャックは実際、容赦なく、その脅しを実行しようとするのだ。
 大勢の命を救うためなら、悪党になど何をしても良い!
徹底した姿勢が、かえって愉快。

 最初のシーズンを見た時は、無理がありすぎて ちょっと引いてしまったが、見続ける内に『24』の味わい方、というようなモノが分かってきて、そうすると俄然 面白くなる。
 暇があるなら、ツッコミつつ追い掛けてみるのも楽しい作品かと。



『あかほり外道アワー・らぶげ 絶対正義ラブフェロモン vs それゆけ!外道乙女隊』最終話.「悪よ永遠に!絶対正義大作戦!」

 お約束に満ちた、馬鹿馬鹿しいクライマックス。
 裏切り者を出したラブフェロモンの方はともかく、外道乙女隊は姉妹一人一人の目立ち方が足りなかったような。

 シリーズ開始当初は、二本立ての作品それぞれが別の世界で展開されている形式で、それぞれのキャラクター達が顔を合わせた時、タイトルに「vs」とあるように、宿敵として対立を深めていく構成になるのか…と思えば全然そんな事はなく なし崩し。
後半の方は30分を二部構成に分ける意味もあったのかどうか、疑問になる内容。
 …などと真面目にどうこう言うアニメではなく、懐かしくなるような緩いテンポで繰り広げられる脱力ギャグに、「くだらね〜」と突っ込みながら楽しむのが正しい鑑賞姿勢。

 強烈な魅力は無いが、同時に嫌悪感を持つべき何の理由も無い、「あかほりさとるブランド」の「安心して見ていられる(基本はギャグなのに、誉め言葉になるのかどうか…)」作品だった。



『かみちゅ!』最終話.「ちいさな一歩で」

 バレンタイン・デーに向け、健児にチョコレートを渡す方向で、周りから盛り上げられてしまう ゆりえ。
 「告白すればいいのに、なかなか出来ない」というのは確かに見ていて歯がゆいモノかも知れないけど、「出来ない」のが その子自身の成長段階なのだから、自発的に出来るようになるまで放っておけば良い…ってのは優しさとか潤いを失ったオッサンの視点(笑)。
周囲の子達も、純粋に好意からの行動なのは疑わないが、「野次馬根性」もまた多分にあったはずで(校舎の隣の棟からみんなで見ている所など)、中学生らしいといえばらしい無責任さかな。

 学生達は そういう訳で納得できるが、街の人々まで ゆりえの大願成就を祈る…に足るようなイベントって、あったっけ?
海水浴場の話ぐらいしか思い付かない…
 いやまあ、オッチャンオバチャンは「地元の有名人」が出た場合、無条件でヒイキして応援したがるモノらしいけど。
この前、田舎の親類から、地元出身 力士(名前も知らない)の後援会に入らないかと電話をもらって参った…あ、余計な話。

 こうして終わると、この作品で描かれた ゆりえの神様力は、巡り巡って「自分が、好きな男の子に告白する、その一歩を踏み出す勇気」を生み出すためにあったのだと思える。
恋ってまあ、奇蹟みたいなモノだよね、と言っては無理にキレイにまとめようとし過ぎ?
 もっと全てが告白の瞬間に集まるように…
火星人が、ゆりえが願いをかけるための流れ星を落とし、総理大臣が権限でフェリーの運航時間を変更するなど(向こう岸まで大和が渡してやっても)、これまで出た全員が役立つのも良かったかなあ。

 そうして始まるはずの「恋」が、「変」になってしまう辺りが、この作品固有のカラー。
 テレビ放送はされず、セルDVDのみでしか見られない話がある…という事で危ぶんでいたけれども、とても気持ち良く終わってくれて、嬉しい。

 まだ明かされていない謎が気になる、というような内容では ないけれど、楽しいキャラクター達の行動をいつまでも見ていたくはあるので、機会があればセル版オリジナル・エピソードも鑑賞したいと思う。



『タイドライン・ブルー』11.「メタセコイア海戦」最終話.「ブルー」

 遊んでいるかのような緊張感のない戦いが、誰にも感情を入れられない魅力の無いキャラクターによって繰り広げられ…
 海面に浮き上がったばかりの核ミサイルを、機銃掃射(ファランクスというのかな?)で打ち落とす所とか、一部の演出が面白かったぐらいで、何となく眺め、終わってしまった最終回。

 考えてみれば、キールは「国連事務総長の息子」、ティーンは「その最大の敵であるテロ潜水艦艦長の息子」…というような設定。
 それが、シリーズ開始早々に互いの立場を取り替え、本来 彼らにとり敵である相手のごく近くで生活させられる事になる。
 そこでは、
「これまで自分が属していた陣営をこそ『正しい側』と認識するが故の、『敵』への反発」
「一緒に行動させられる事で見えてくる、『敵』側の『正義』」
「価値観の混乱」
「そうなったキールとティーンが出逢って起こす衝突」
「元居た立場に戻った彼らが、新しく得た視点で下す、互いの『親』への、これまでと全く違う評価」
といったようなドラマ展開が考えられたはず。

 しかし…子供二人は「親」に対する理解が薄く、特にキールはアオイ、グールド双方の考えを理解せず、ただ物語を引っかき回しただけの存在に。
 「何も分からないまま、ただ純粋に平和や人の命の大切さを訴える態度が、周りの人々の心を動かしていく」という役割を果たせた訳でもなく(シリーズ最後の方では、ちょっとだけそういう部分が見えてきていたけれど)。

 純粋さなら、イスラこそが、本来頼るべき夫…寄るべき思想性を持たず、産み出した命を育てる事のみを思い、洗濯・掃除をして「穢れ」を清める役割を担っていたのだから、ふさわしかったろう。
 「新しい、無垢な世界」を体現するべき幼児・キールを、単にイスラがいつも背負っている「小道具」ぐらいにしか扱えなかったのも痛い。
実際、この子供が居なくても、ストーリーにはほとんど影響なかったはず。

 クライマックス、もう少し何かイベントが組めたのでは?
 衛星が落下してきて、そこからキールパパを助け出そうとするグールド(地図の入手も計って)、逆に衛星動力の核物質拡散を防ごうと事前の爆破を提唱するアオイ側、その間に挟まれ苦悩し行動するキールとティーンを見せるとか。
資源を巡る大国家間戦争の危機が迫り…とか、何とでも。

 12話も かけて、描けた事はこれだけなのか…?と問わざるを得ない内容。
 設定は悪くなかったし、作画も頑張っていた。
何でも出来る、どんなテーマでも語れるアニメだったと思うのに……残念。

 セルDVDでのみ見られるという完結編は、特に見るべき理由を感じられず。


2005年9月28日 水曜日

『ガン×ソード GUN SWORD』13.「夢の途中」

 ヴァンの行動動機である「復讐」に、余りこれまで乗れなかったが…
彼が憎しみを向ける、片腕がカギ爪の男、このキャラクターが秀逸で、一気に復讐劇に引き込まれてしまう。
 こういう手合いは、大抵「極悪非道で殺人を楽しんでいる」か、逆に「実は彼の方が被害者と呼ぶに足る人間で、殺人もやむを得ず犯した」とするものだろうけど…
何か強烈に目指すモノがあり、その前には「愛する人を殺された(カギ爪の男自身が殺した)」という事実など取るに足らない、そんな些事は忘れて自分に協力すべきである…これを本気で言う、常識的にはあり得ない思考形態。

 「宗教」が関与すると、こういう人間を作り上げる可能性も考えられるかなあ。
神の教えを実践していくためには、邪魔な人間の命を奪う事も辞さないし、神のために取った行動なのだからそれを罪だとは思わない。
教えは、誰にとっても絶対だと信じているので、反対者も「真実」を知らせれば自分達の側に付かせる事が出来る(付くのが「正義」だ)と信じて疑わない。
 彼らの信じるモノは何か、その肝心の部分が見えてこないから、どの程度 一般的に納得が出来る「正義」なのか判断できない。
この辺、かなりのアクロバットを行わない限り、本当に「正義」とするのは難しいので、立ち位置が不安定である今が、カギ爪の男の一番面白い時期なのかも知れないが。

 剥き出しの憎悪をぶつけるレイに対し、全く何も感じない様子で対応するカギ爪は、なかなか悪の魅力に溢れていて、楽しい。
これまで「ルール無用で、やりすぎ」としか思えなかったレイの無差別攻撃が、カギ爪相手だと「生ぬるい」「取りあえず体のドコかを撃ち抜いてから話はするべき」「獲物を前に舌なめずりは三流のする事だ」と感じられてしまう、価値観の反転も愉快。

 最終的な目的である敵の全体像が見え、まだヴァンが(レイも)力不足な事も分かり、方向性がハッキリして俄然 面白くなってきた。
 後は、カギ爪達の「正義」が余り「電波」でないよう…それで失速しないように願うだけ。



『MONSTER』最終話.「本当の怪物」

 あらゆる原作ファンが夢に見る、「このぐらいやってくれたら文句ないのに!」と願うレベルでのアニメ化を、最後まで貫き通せた作品。
所謂「捨て回」が無く、演出も作画も徹底して原作のイメージを保ち、崩れない。
 …という事で、「驚異的に良く出来たアニメ化作品」としか言い様が無く、感想を書き辛い。

 エピローグは(原作通りだけど)、やっぱりちょっと不満が残ってしまう。
かといって、「こっちの方が満足できるだろう」という代案を出すのは無理で、これ以外に終わり方が無いというのは納得できるのだが。
 10年後、20年後に見ても面白い、かなり多くの国の人にも問題なく内容を理解してもらえる、優れたコンテンツに仕上がったのでは無かろうか。

 次は『アカギ』
ん〜、好みとしては『カイジ』をやって欲しかったような。



『バジリスク〜甲賀忍法帳〜』最終話.「来世邂逅」

 遅れたけど、完結したので感想。
 超絶の忍法を使う忍者同士の激闘を、時に無情に、時に悲しみを込め、高い演出と作画レベルを最後まで保ったまま見せてくれた。
 贅沢な言い様だけど、これもまた余りにカッチリ完成しすぎているため、付け入る隙が無く、感想が書きにくい( ^_^ )。
文句といっても、若干 中だるんだかなあ…ぐらい。

 因縁を抱え、必ずしも憎しみ合う間柄でなくとも命令により殺し殺されねばならない複数人の男女…というのは(甲賀忍法帳の方が古く、オリジナルとも言えるが)『バトルロワイアル』を思わせる。
 中学生のバトルは、必然性無くただ強制された物だったから ああいう終わり方があり得たが、こちらは忍者の宿命を背負っているため、そこから安易に逃れる訳にもいかず…サブタイトルにある通りの願いを込めた行動を取るのが精一杯の抵抗。
 物語冒頭でそれぞれの里の頭領が見せた選択、結局はあれを繰り返す事になってしまった。
頭領同士も、それを見越したような事を言い合っていたと思う。

 まこと、忍とは非情なものよ。
…という訳で、ゴタゴタ言う必要も無く、素直に面白い作品だった。



 バンダイのこれ
Web用お試し版は、let's playと書かれたボタンから。
 結構ハマって、アレコレやってしまう。
 23問目で「スーパーマン」を当てたのは まだしも、17問目で「ガンダム」を当てられたのにビックリ。
そういう言葉を思い浮かべて遊ぶ人間が多いので、データが揃ってきてる、という事なのか。


2005年9月27日 火曜日

『創聖のアクエリオン』最終話.「世界のはじまりの日」

 もの凄い勢いで駆け抜けていった最終回。
油断していると振り落とされ、置いて行かれてしまう、自分はその「置いて行かれた方」で、笑ったりポカーンとしたりの内に終わってしまった感じ。
 有無を言わさず視聴者を引きずり回す、そのパワーは圧巻。
が…乗り切れていない身としては、絶賛しようという気持ちになれず。

 この作品では、司令官・不動がボケであったりツッコミであったりしたと思うんだけど、クライマックス辺りでは、彼もまた過去謎解きの一部に組み込まれてしまったせいもあってか、特殊な立場として目立つのを止め、抑えを失った他のキャラ達が てんでに暴走を始めたような。
 そこから生み出されるドライヴ感は凄いんだけど、キャラとして物語内にツッコミ役が居なくなった事で、「加速しっぱなしの気持ち良さ」を素直に味わえる人と、「見ている我々が突っ込まなきゃイケナイんじゃないの?」と不安になり乗り切れなかった人とに別れ、それぞれ評価には大きな差が出来てしまうだろう。
 まーとにかく、エライ作品だったな。



 映画『ファンタスティック・フォー 超能力ユニット』を見る。
 監督は『TAXI NY』の人らしいけど未見。
 ザ・シング役としてテレビシリーズ『ザ・シールド』で、主役の強烈なキャラクターを演じていたマイケル・チクリスが出演。
 田舎では『宇宙忍者ゴームズ』も放送されていなかったので、オタク知識として概略は知っていたけど、作品の形で見るのはこれが初めて。

 う〜〜ん、軽い。
超能力を得るまでのドラマ運びも、体が変容を遂げる過程も能力の発動も、異形のモノになった事への葛藤も、こちらが「こりゃ大変そうだなあ」と心配するレベルよりも遙かに軽く、すいすい〜っと通り過ぎてしまう。
 確かにまあ、あんまりドロドロと重くなりすぎるのはシンドく、必ずしも歓迎できないけど、こんなに軽やかなのも どうだろ?
ヘビーに描かれたのは、ザ・シングの家庭事情ぐらい。

 橋の上で起きる大事故イベント。
…そもそもファンタスティック・フォーが原因で起きたのでは?
それを助けたからって、ヒーロー扱いされるかなあ…
 一番 驚いたのは、敵になってしまった かつての協力者・恋人を倒すのに、ほとんど悩まない事。
スパイダーマンが、あんまり関係ないドック・オクを倒す時でも、もうちょっと葛藤したような。

 正体なんて隠さない、街の人々は陽気に迎えてくれる、アメコミでも珍しいライトなヒーローの描き方。
 それはそれで「味」だとは思うけど、そうなると関心は、ドラマよりCGを使った派手な見せ場の方に移るのだが、意外とそういうシーンが少ないので物足りなさが残ってしまう。
 それぞれの力の見せ方も、『Mr.インクレディブル』にアイディア負けしているように思う。
…こちらがオリジナルだろうに。

 面白いシーンもあるし、何しろ軽くスッキリと見終えられるので、ヒマな時に見るには向くだろう。
ただ、映画館で見る程ではないかな。


2005年9月26日 月曜日

『ゾイド ジェネシス』25.「進軍」

 えらく我の強い お山の大将ばかりが揃った軍を率いる、ラ・カン達の苦悩。
 元々血の気の多い連中、しかも緒戦で(ルージのお陰だが、彼らはそうは思っていない)圧倒的勝利を収めては、その後「まずチームワークが取れるよう、訓練を繰り返して…」なんていう慎重論を唱えても、まとめられないだろう。
不安を抱えつつ、戦わせるしかない。
 しかしまた、これで大敗するような事があれば、「無理な作戦行動、指揮能力の欠如が原因」「無能なラ・カンには従えない」と言われかねないし…
 一軍を率いるって、大変。

 ルージが、「お前らまだ未熟だ!ボクと模擬戦をして、勝てたら実戦に出してやる。でも負けたら大人しく訓練しろ!」と自分の判断で言えるような性格なら良かったのだろうが…
そういう強烈なキャラクターじゃないからなあ。
 軍議が終わった後になってラ・カンに意見をするルージ。
その内容は決して間違っている訳ではないのに、軍議の最中に発言しなかった事を厳しく問うラ・カンは、ルージを次世代のリーダーとして育てようという心づもりなのか。

 ラ・カンが立てた、なかなかよく考えられた攻略作戦を、見事に読み切っているザイリン。
知恵比べ、面白いねえ。
時間の掛かったシナリオ。
 寄せ集め軍による本隊をこそ陽動に使い、ルージ、ガラガら少人数精鋭だけで攻める こちらこそが本命、という事で裏の裏を掻く手もあったかと思うけど、まさかザイリン程 知恵の回るヤツが居るとは予想してなかったろうし、戦力に余剰がある訳でもなく、無理か。

 内外に不安を抱えるラ・カン軍。
次週が素直に楽しみ。



『奥さまは魔法少女』最終話.「あなたがそこにいる、ということ」

 街の管理者としての力を振るう事が出来る指輪を渡されたクルージェは、他の魔法少女達に操られるまま、自分のイメージ通りに街を改変しようとする。
魔法界で、クルージェを導く事こそ自分がすべき責務だった、と教えられた嬉子は、急ぎ彼女の元へと向かうのだが…
 結局、力の行使に間に合わず。
嬉子が何もしない内に、クルージェの判断として街をそのまま残してくれました…って…

 結局コレは何を言いたい作品だったのだろうか?
 主人公は嬉子でなくクルージェ?
それだとタイトルに偽りありみたいになるし…
 自分からモーションかけて結婚した夫に勝手に失望して別居、若い愛人が出来てアンタが邪魔になったから離婚して!と夫に迫る壮絶に不愉快なキャラ・嬉子よりは、クルージェの方がヒロインに相応しいとは思うが、それは「比較的」という話。
彼女をメインにするには、掘り下げが薄い。

 巽、自分の担当作家・保の晴れやかな出版記念パーティーに出席し、多数の招待客が見ている前で彼に、「離婚して、アンタの奥さん俺にクレよ」(意訳)と言う。
最悪のタイミングだし最悪の言い方だし、せめて自分の所属出版社に迷惑を掛けないよう辞表を出してから すべきだったのではないかとか、とにかく馬鹿さ加減に唖然。
 その様子を会場の隅で見ながら、嬉し涙なんか流している嬉子の無反省ぶりにも呆然。

 何度も書いたけど、こうした「無神経なキャラクターの不愉快さ」を回避する方法なんて、いくらでもあったと思う。
 夫・保を既に死んでいる設定にするのが一番 簡単。
でなくとも、浮気三昧で すぐ妻に暴力を振るう非道な夫にしたり、他に関心事(仕事とか、重度のマザコンとか)があり妻には無関心であるよう描くとか。
妻が魔法少女である、という現実を夫は理解しきれず逃げたが、巽はありのままの彼女を受け容れてくれた…としても良い。
 単純に、夫婦・愛人関係をもっと軽く、コミカルに(または背徳・官能的に)描く事だけでも、まるで印象は変えられたはず。
 わざわざ重い、シリアスな形で捉えておきながら、フォロー無く終わったのでは…
「悪質な詐欺により、多数の お年寄りから老後の蓄えを残らず騙し取った主人公は、そのお金で、愛する彼女と結婚し幸せに暮らしました」という話を見せられるぐらい、不愉快。

 そう思わせる作品を作りたかったのなら、その目的は達成されたと思うけど…その中から価値ある何かが見えてくる訳ではなく。
 どうも見ていると、「狙って不快な内容にした」のか、「作劇能力の不足、あるいは製作者の人間的素養(これで何が問題なのか本当に分からない、というような)により、意図せずこうなってしまった」のか、それさえハッキリしない。

 残念な出来。
 心に「黒い」波風を立てられる、という意味で、見終わって何も残らない明るく楽しい「萌え」作品と、一線を画してはいるが…


2005年9月25日 日曜日

『ウルトラマンマックス』13.「ゼットンの娘」

 『ウルトラマン』を見ていた世代なら、そして怪獣大百科とかでしか知らない子供でも「ウルトラマンをたおしたすごい怪獣」と書かれているのを読んでいれば、ゼットンにナニガシかの思い入れがあるだろう。
 最終回でもないのに、そのゼットンが登場。
不安に思いつつ見たけど…

 強力なバリアーを持っているのは良いとして、それが新しい武器によって破られるともう終わり、というのでは、今日的に呆気無さ過ぎ。
CGを駆使し、全てを焼き尽くす1億度の火球攻撃を避けつつ戦うウルトラマンの、現在だからこそ見せられる決死の殺陣が欲しかった所。
 女の子が邪魔だったんじゃないかなあ。
ゼットン星人との因縁なんて どーでもいいし、ハリケンジャーになぞらえてか忍者のコスチュームに身を包んでの行動は、馬鹿馬鹿しくて笑ってはしまったけど、せっかくの魅力ある怪獣を活かす時間的余裕を食い潰す役にしか立っていないので、削った方が良かった。

 現れたウルトラマン、ゼノンが唐突すぎるのも、ちょっと。
 『マックス』世界なのだから、登場するのはマンやセブンなど、お馴染みのヒーローで良かったのでは?
その方が視聴者も喜ぶだろうし。



『仮面ライダー響鬼』33.「装甲う刃」

 小暮・布施明 大暴れの巻その2、で、そのパワフルさとコミカルさに引き摺られ、笑って見てしまった。
魔化魍連続退治の記録を自分でサバ読んでみせたり、実に困ったオッサン。
 今時の若者でありお坊ちゃんの、皮肉や嫌味が まるっきり通じないイブキだけは苦手、という弱点設定も楽しい。
 出演は今回まで?物語をグイグイ引っ張ってくれる強烈なキャラなんで、居なくなると寂しいような。
また新アイテムが投入される際には登場する?

 えらく未熟でワガママな お兄ちゃんに描かれるトドロキ。
彼は、小暮の過去の成果を耳にした途端、その態度をコロリと変えてみせる。
 うーん、ここいらは極端すぎ、余り良くない意味で「漫画っぽい」なあ。
特に子供には分かりやすく、親しみやすいキャラになったのだろうが。

 アームドセイバーを使いこなすための特訓が、割と簡単に終わってしまったのは残念。
今時 流行らないウサギ跳び階段登りなんかで、鍛えられるモノなのか?
 どうせなら、「力の放出を、面ではなく点で行え」とか、「ロウソクの炎だけを日本刀で切って見せろ」とか、いかにも必殺武器を使うためっぽい特訓でもすれば良いのに。
 そもそも鬼になるために、どのような訓練をどのぐらい続ければ良いのか、といった根本的な事さえハッキリしていない(故意に、させていない?)ので、ここだけ技に直結した鍛え方をする、ってのも変なのかな?



『交響詩篇エウレカセブン』23.「ディファレンシア」

 うーん…いい歳してロクなモンじゃない奴等が揃ったゲッコー号メンバー、子供とはいえ度が過ぎてアホなレントン、と、スタッフの描写能力を疑ってしまうようなキャラクターばかりを見せられ、ウンザリしていた所だが、ビームス夫妻を大人「っぽく」余裕がある「風に」描けている所からすると、ゲッコー号一行はワザとダメダメに設定している?

 しかし、メインのキャラであるホランドその他を苛立つ程 愚かに、この23話に到るまでも描き続ける意図って、何だろう?
「馬鹿だけれども(命懸けで叶えようとする目的などがあり)憎めない」「馬鹿さ加減の発露が微笑ましく、かえって魅力的に映る」というような愚かさではなく…ホランドなど、単に見る者を不快にするキャラとしてしか演出されていないのだが。
 突き放しても視聴者は付いてきてくれる…確かにそういうケースもあるけど、それはアチコチに「御褒美」が仕掛けられている場合。
例えば戦闘シーンに見応えがあるとか、小出しにした謎を次々解いて興味をつなぎ止めるとか、単に「やたら女性陣が脱ぐ」でもいい。
そのどれも、この作品には無い。
 嫌なキャラクターが織りなす、やたらシンドいストーリーを、20話以上も付き合って見る義務は、視聴者に無いんだけど。
 どこに勝算を見出しているんだろう?

 今回のレントンの行動。
彼に強く感情移入していれば、とりあえず能動的に動いた、という事で許せるのかも知れないが…
 そうでもない身としては、死にかけた病人を車イスに乗せ屋外を引きずり回すなど、正気の沙汰と思えず(どのみち死ぬ子であり、車イスで夫妻の船まで連れて行く予定であったとしても)。
病人を思うなら、自分一人で他の病院に行き、足りない機器を借りて来ようとか思わないか?(夫妻の話では「機器は病院にあるが、使ってくれない」だったが、医者は「他の子供に使ったのでもう残ってない」という…どっちが本当?いや、どのみち親が延命を諦めているので無駄なのか?)
 宗教的な問題、テロが起きている世界状況については、驚くぐらい世情に疎いレントンには理解できていないと考えるにしても、まず子供の体を考えた「訳ではない」この発作的行動は、「自己満足」ばかりが先行しているように思える。

 こんな行動を取るに到るには、「自分の殺人行為への贖罪」という意味もあったのだろうが…
 前回、ビームス旦那がバカバカ敵を撃墜、パイロットを殺すのを見て、喜んでさえいたのと上手く繋がらない。
だから、レントンの中に切迫したモノを感じ取れなくて。

 ビームス夫妻、馬鹿なレントンを親の視点で暖かく見守るキャラ、ってのは良いんだけど、今回 息子の行動はどう見てもやりすぎ、間違っており、「感情の赴くままに暴力を振るうホランド」に対し、「レントンの為を思えばこそ罰を科す」行動を取る事で、初めて差別化が図れたような。
余りにも認め・許し過ぎるのは、理由もなく殴るのと、実はあんまり変わらない。
 こういう所が、夫妻を大人「っぽく」描けている、と表現する所以。

 レントンが船出したのを「ホランドのせいじゃない」といい、彼を指して「本気でレントンの事考えてたんだ」というゲッコー号メンバー。
笑ってしまう認識能力の低さ。
 どうも上手く行っていない部分にばかり目が行ってしまうのは、どのキャラにもまだ魅力を感じられないからか。
ビームス夫妻がもっと面白くなってくれば、また評価も変わるかも知れないが…レントンと一緒に過ごすのは次回まで?

 追記・ビームスママンが、病室の扉を通り抜ける際、後ろから来るレントンをちょっと振り返ってドアを長目に押さえておくシーン。
日常的には子供が閉まるドアにぶつからないよう気を遣ってよくやる事だけど、アニメだと なかなか見られない細かい作画の演技で、「過保護気味な愛情」を演出できているのに感心。


2005年9月24日 土曜日

『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』49.「レイ」

 派手な戦闘シーンが連続する、クライマックスに相応しい内容。
 特にネオが、ビームの直撃を受けようとするアークエンジェルの前に立ちはだかるシーン。
前作でのフラガの死に様と全く同じシチュエイションで、一瞬「また死ぬのか?」と思ったが、そうかそうか、アカツキは攻撃を反射できるんだった。
なるほど…というか、このシーンから逆算してアカツキの機能を決めたのでは?
 もしかしてクローンの一人であり本当にフラガとは別人?とも思われたネオだが、ここで記憶を取り戻し、マリューに呼びかけてみせる。
ここいらの盛り上げ方はなかなか あざとく、上手いと思わせられた。

 …という辺りが誉められる部分で、後は…
 反射用コロニーを破壊する計画を、どうしてそんなに急がなければならないのかラクス一党。
第一射でロゴスの月面基地(?)が壊滅し、次に狙うとしたらオーブか、まだザフトに反抗的態度を取る国・基地だろうが、議長の言葉を信用すれば…そして常識的には、既に示威行為は終わり、「ザフトはロゴスの超兵器を自分達で使えるようになった。ドコの誰でも狙える」と分からせたのだから、重ねて実際に撃つ必要はない。
これからは、各国代表と話し合いのテーブルに着く段階に入る…はず。

 こうなってから反射コロニーを破壊するアークエンジェルらの行動は、かなり無駄では?
 議長の恫喝の道具を一つ潰す、という以外に意味は無く、ザフトにはまだ、核弾頭もあれば最終兵器プラント落としもあるはずで。
 これだけが持つ攻撃手段の全てだという訳ではない以上(というか、本来ザフトの計画にはない余剰戦力では?)、「この戦いの後、和平協定が結ばれる」ような性格のモノではなく、アークエンジェルの勢力に巨大な損害を出しながら、強行する作戦とは思えない。
 また、既にオーブ正式軍に組み込まれた彼らが破壊行動を行う事で、オーブがイキナリ狙われる危険性を上げてもしまう。

 そういや議長、アークエンジェルに対し、「攻撃をするなら、それはオーブから我が国への宣戦布告…いや、国家的テロ活動とみなし、あらゆる手段を用いて『平和の敵』オーブ本国を焼き尽くす」とでも宣言し、牽制すれば良かったのでは?
 実際、オーブはザフトに反抗する行動ばかりを取り続けている訳で、「オーブ=ロゴス勢力の生き残り」と断ずる事も可能だったろう。

 …まあ、議長の数少ない失点である「彼が使っていたラクスは偽物だった」という、公表された事実を糊塗すべく、この戦いのどさくさで本物ラクスにも死んでもらい、誰が偽物・本物という確認を不可能にするのが狙いだったのかも知れないが。
 しかしその失点も、ミーア亡き今、「私も知らない事だった」で済むし、「ザフト軍人の精神的安定を願って無理についた嘘」と言っても それなりに納得してもらえそうな。

 ラクス達がすべきは、議長の非道、ディスティニー・プランの危険性を粘り強く世界に訴え、世論をもって その行動を制する事、だったろう。
 プランの提唱者をジブリールのような狂信者にせず、前作ザラ議長程の独断専行者にもしなかった事で、「もう戦うしかない」とするアークエンジェル一党の考え方が、随分と短絡的で暴力的なモノに見えてしまう。
 もちろん、
「議長は正しい」
「しかしアークエンジェル一党も正しい」
「決して間違っている訳ではない者同士の悲しい戦い」
としてドラマを見せる事も可能だが、それをするには もう少し考えられた構成が必要。

 最初からキラ・ラクス達は「短絡的なお馬鹿さん」に描かれているのだから、それを押し通した、矛盾の無い構成、とは言えるけど。
 どうにも頭が悪い行動を取っているキャラクター達相手には、応援も感情移入も出来ないなあ。
 イザークとディアッカが、驚く程あっさりザフトを裏切る所からすると、ラクスの言い分は あの世界では正しいモノなの?
単に二人もまた状況に流されやすい「お馬鹿さん」だった、ってだけ?

 次回でお仕舞い。
どうまとめるんだろう?
 シン・レイとの決着もあるから、普通に考えると議長までは攻撃の手が届かないような…単身出撃するような性格でもないので。
かといって配下の兵に撃ち殺される、ってのは前作ザラ議長でやっちゃったし。
 ザフト兵士の心を掌握したラクスが全軍の指揮を執り、議長をその地位から追い落として、追放するとか。
オーブでのカガリ帰還の様子を見ていると、あり得ない話でもないな(笑)。



 映画『チャーリーとチョコレート工場』を見る。
 ティム・バートン監督。ジョニー・デップ主演。
 人の立ち入りを許さない、巨大なチョコレート工場へと招待するチケットを見事当てた五人の少年少女が、その中で見た物は…

 原作は読んでいないし、以前作られた映画『夢のチョコレート工場』も未見。
 もうちょっとは教訓的であったりするのかと思ったが、そういうジュブナイルとしての体裁を整える事より、「おもちゃ箱をひっくり返した」という常套句がピッタリ来るほどカラフルで毒々しくて体に悪そうな( ^_^ )画面通り、チョコレート…よりは着色料を目一杯混ぜた「駄菓子」を作り上げる事に主眼を置いた、賑やかな作品。
 馬鹿馬鹿しくて悪辣で、ひたすら楽しい、無反省な内容。
こーゆーの、好きだなあ。

 以下、内容に触れてしまうので、未見の方は御注意。



 チャーリーが工場へのチケットを手に入れた方法。
「極貧にあえぐ両親からの精一杯のプレゼント」「爺ちゃんがヘソクリをはたいて買ってくれた」と、「ああ、それならチケットが当たっても納得できるな」と思わせる理由を二度も用意しながら、それらではなく よりによって「拾ったお金をネコババして買ったら当たっちゃいました」という、最も無責任な切っ掛けで入手してしまう。
 あんな少額のお金、実際には届けられても警察だって迷惑なぐらいだろうし、国によっては「幸運の分け前」として素直に頂く習慣もあるらしいけど…それにしたって ここに教訓的な意味を読み取るのは難しく。

 工場にやってきた五人の子供達。
チャーリーを除く四人も、凄く個性的で、どうやって彼らをドラマに活かしていくのか楽しみに見ていたが…
 「四つの大罪」を体現するのがメインの役割。
暴食・傲慢・貪欲・嫉妬(憤怒?)…といった所かな?
 特に運動能力に秀でた女の子は、演じた子がとても可愛かったモノで、「思い上がった少女の心を、馬鹿が付くぐらい素直で優しい少年が開いていく」とかいう展開を期待してしまったけど、そんな訳もなく、他三人と同じようにヒドい目に遭わされて退場。

 凄い「報い」を受けさせられた事で子供達が反省するのかと思えば、特に懲りていない様子。
 ウンパ・ルンパの歌を聴かされた親の方は、ナニかしら感じる所があったみたいだけど。
子供よりも、そんな風に育てた親の方の責任を問う作品だったのかも。
 そういや、招待チケットを売ってお金にし、家計を助けようというチャーリーに語りかけた、「お金は毎日印刷されてそこいらにいくらでも出回っている。しかしそのチケットは世界に五枚きりだ。それを お金なんかと交換してしまうほど、お前はトンマなのか?」という爺ちゃんの言葉。
余りにも良くて、何だかホロリと泣けてしまった。
人間、親として、こうありたいモノだねえ。

 欲望丸出しの子供達を見て、ウォンカが自らの中にもあった愚かさに気が付いていく…とか、そういう内容でもなく。
『クリスマス・キャロル』風の物語ではあるが、弱い。
 最近の流行りとしては、「異界で過ごした子供が、一切ナニも持たず、ただ己の成長のみを収穫として現実世界に帰ってくる」という辺りがスタンダードかと思うけど、チャーリーが「家族大好き」なのは最初から ずっと変わってないし、チョコレート工場の権利は ちゃっかりもらっちゃうし、それでも暮らすのはボロ屋のままというのが矜持か…と思えば工場内で砂糖か何かの雪を降らされる ふざけた生活(笑)になってるし。

 チョコレート工場の最初の扉が開いた時、出て来た人形達によりウォンカのアホな自画自賛歌を聴かされ、しかもそれが途中から燃え始め、ヒドい出し物に変わってしまう。
もうココから、「PTAが喜ぶような小綺麗な映画を見せる気はないぞ!」という宣言であり、「楽しい映画かと油断してたら、最後にゃ悪夢を見せたるでぇ」といったティム・バートンらしい悪戯っぽさでもある。
 この出し物を見て呆気にとられているのが観客で、いつの間にか その横に立って一人で大喜びしているのが監督、だろう。
 いや、個人的にはここ、大好きだけど。
 そーゆー映画に教訓とか期待すんな、って事かなー。

 どちらかといえば、日本昔話、「舌切り雀」とか「おむすびころりん」辺りに近い内容だったのか、とも思う。
 爺さんは異界に行って成長などしないし、差し出された宝物は頂いて帰る。
そういう話。

 ウンパ・ルンパの悪意に満ちた歌が、とにかく楽しかった。
 ワンダーに満ちた工場内の風景も愉快。
 ウォンカを楽しげに演じるジョニー・デップ、『ジャイアント・ピーチ』少年人形とそっくりなフレディー・ハイモアも良いし、最後まで飽きさせない、極彩色の娯楽映画に出来ていると思う。
 ちょっと毒がキツいので、誰にでも絶対お勧め、という訳ではないが、まあティム・バートン作品に拒否反応が出ない人なら、見ても損しないのではなかろうか。


2005年9月23日 金曜日

『SHUFFLE!』10.「月夜の告白」

 この作品の評価は、見る側が どれだけ主人公の立場に成り代わり(感情移入をするのとは違う)、「美少女達に言い寄られる自分」を楽しめるか、に寄る。

 ちょっと引いて見ると…
 前回イベントがあったとはいえ、シアと結婚するとされる勝手な成り行きに、特に抵抗しようとせず、かといって同意する訳でもない主人公。
その様子から、もう自分の想いは届かぬものと悲しげな他の少女達に対しても、フォロー無し。
 「萌え」作品男性キャラの常であるとはいえ、余りにも主体性が無さ過ぎ、苛立ちさえ感じてしまう。

 結局、主人公は何一つ能動的な行動を起こさず、ただシアの自発的成長によって窮地(?)を脱しました、という描きようも どーだろ?
 勝手に少女達に想いを寄せられ、その一人の親に勝手に結婚へと持って行かれそうになったが、相手が勝手に諦めてくれたので良かった良かった。
…この内容を楽しむには、やっぱり「こんなにモテモテな『ぼく(主人公・稟ではなく)』って罪だなあ」と思えなければならない。
 トシのせいか、そういうのが少々キツく感じられてしまったり。

 いつもは団結して稟を狙う各少女付きの親衛隊が、それぞれの利害に基づいて仲間割れを始めるのは面白かった。
意味なくプリムラに娘の代わりをさせ、ウエディングドレスを着せたりする馬鹿オヤジの行動も。

 しかしオヤジ、「娘をお前なんかにやるもんか!」という考えはまるで無いんだなあ。
押し付けたくてたまらないようにさえ見える。
 実は、稟を娘の夫(義理の息子)として自分達の陣営に加える事に、大きな意味がある?
いずれ、彼を手に入れる為、天界・魔界の親同士による仁義なき戦いが繰り広げられ、人類の危機を背景にして「誰を選ぶのか」迫られる事になったりして。



『フルメタル・パニック! The Second Raid』09.「彼女の問題」

 宗介が居ない街で見せる、かなめの孤独な戦い。
 尾行を確認する為に電車を乗り換え、ゲーセンの裏口を通り抜け、盗聴や発信器を警戒してホテルで備え付けのバスローブとパンツだけの姿になってみせる。
 普通の女子高生を遙かに超える危機管理、対応能力。
…ああ、彼女は内面的に「普通の女子高生」なんかじゃないんだっけ。

 キャラクターの、というより製作者の能力限界により、こういう場合に見られる行動は、第三者視点の視聴者には、「馬鹿じゃないの?」としか思えない、想像より下を行くモノになる事が多く…過度の要求をするのもナニだと思うので多くは納得するけれども、やはり不満が残ってしまう。
この作品のように、「なるほど」とか「そこまでやるか」と感じさせてくれるような思考の形態を示すモノは、ごく少数。

 雨が降る屋上で展開された、息詰まる戦いが素晴らしい。
 かなめが仕掛けた単純な罠にはまり、無防備な背中を晒す少女暗殺者。
その背を見ながら、僅かコンマ数秒の間に様々な事を考えてしまうシーン。
もの凄い緊張感で、見ているこちらまでドキドキ。
 そういや岡田 斗司夫だっけ?が、「面白い場面になると、画面中の時間は現実よりも延びている」と言っていたような。

 双子の片割れ、ここで、こんなにアッサリと退場するとは思わなかった。
このシリーズ最強の敵になると予想していたが、より恐ろしい、テッサに似た少年が現れるための前座だったのか。
 いや…実は裏で手を組んでいて、殺したお芝居を見せていた、って可能性も?
んー、でも、そういう芝居をわざわざ かなめの前でしなければならない理由は、彼女ではなく「視聴者を」騙したいという以外には無く、そういう製作者側の都合のためキャラの合理性を犠牲にするような事はしないスタッフだから、無いな。

 彼らが去った後、力が抜けて崩れ、泣き出す かなめ。
こういう非日常のシチュエイションこそ、日常に対応できない宗介の独壇場だったはずなのに。
 ただ、ここで彼女が泣いたのは、「いつも自分を助けてくれる有能な戦士としての宗介」が居ない不安によるものもあろうが、少年に不意を突かれ唇を奪われた悔しさ哀しさ腹立たしさを「彼氏としての宗介」の不在にぶつける、そういう意味も含まれていたのだろう。
 複雑で、実に面白い。

 こんなにハズレが無いシリーズも、珍しいなあ。


2005年9月22日 木曜日

『タイドライン・ブルー』10.「別れ」

 家事一切を苦にせず、世話焼きで、争い事が何より嫌いなイスラ。
…ようやく彼女がキャラクターに見えてきた。
 しかし、自分がもう一人子供を産んだら…というような事を、抵抗無くスラッと言ってしまえるのは、今の子供の父親と どういう関係を築き、どういう別れ方をしたからなのか。
例えば、「凄く愛していたが死別した、今でも気持ちを引き摺っている」なら、こんな考えは出てこない。

 何だかこう、スタッフ、イスラを「少女」として描いていないのは良いとしても、「年若い母親」でさえなく、「外見が若いだけでオバチャン」みたいに捉えてないかなあ?
「母は強し」っていうのと、「人生が『平気』になったオバチャン」というのは、まるで違うと思うんだけど。
後者は後者で面白味を持っているが、アニメのヒロインには向かないだろう。

 一応は、ユリシーズが攻撃で死人を出している事について、何か感じる部分があった様子のキール。
ただただ、それを未整理なままグールドにぶつける行動は、楽な方向に流れているようで どうかと思うけど、まあ子供だし、驚く程 世間知らずみたいだし、仕方ないのかな。
 この辺りの感情は、シリーズの早い内に、一度は深く描いておくべき。
もっとも、そうするとキールは「艦を降りる」という以外の決断を下せなかったろう(艦の一室に立て籠もる、不思議な行動を取った事あったが…)。

 まだまだ不都合は多いけど、ようやっと「作品」としての体裁が整い始めた、と思えば、あと2話で終わりなの?



『極上生徒会』25.「その声は風にのって」

 まるで緊張感のない、遊んでいるような屋敷潜入のバトル。
これまでに出て来たゲスト・キャラクター達も再登場したが…正直な所、印象に薄くて「これ誰だっけ?」が多かったし、生徒会の無駄な強さからすれば手助け無用だったような気も。

 先週からの引きを受けるには、余りにも気合いの抜けた、コミカルな内容だったが…
以前にも書いたと思うけど、この作品でのシリアス・モードは、どうも「物語が必要としている」ものでも「テーマに直結している」ものでもなく、古い言い方をすれば「なんちゃって」であり、良くて「その後 落とす為の前フリ」、実際は「コミカルなばかりでは ぼんやりし過ぎる全体の雰囲気を引き締めようとする意図」ぐらいの意味しか無いと思う。
 だから、この お遊びバトルにも、特に違和感はなく。
 それっぽいスタンダードな盛り上げ方ぐらいは、「ジャンプ」の単行本でも数冊読めば真似できるはずだから、このフニャフニャさ加減は狙ってのモノなのだろう。

 日本語ペラペラのシンディ、やっぱり強かった管理人幼女など、この期に及んでまでキャラの意外な面を見せようとするのは楽しく、どさくさに紛れて れいんと父親の再会をサラッと済ませるのにも笑ってしまった。
 ただ…このまま終わると、すぐに見た人の脳裏から消えてしまう程度の印象しか残せない作品になる可能性が。
 次回、最終回で何を見せてくれるか、に寄るな。


2005年9月21日 水曜日

 レンタルで映画『ビッグ・フィッシュ』を見る。
 ティム・バートン監督。ユアン・マクレガー、アルバート・フィニー主演。
 『チャーリーとチョコレート工場』を見る前に、監督の前作も一応確認しておこうと思い、鑑賞。

 息子(誰にでも)にホラ話を聞かせるのが大好きな父親。
ああ、分かるなあ。
自分も相当にウソツキだから(笑)。
 それで何か利益を得ようというのでなく、単純に相手を楽しませようとする嘘は、容認されるべきではないだろーか。
 でもまあ、そのウソツキが実の父親で、しかも子供の時からそんな話ばっかり聞かされ、何が本当で何が嘘なのかさえ分からなくされては、「楽しいからいい」なんて言ってられないか。

 見ている分には、次々繰り出される嘘が、実に楽しい。
『バロン』程には大きな嘘でなく、一応は元になった事件があり、それを大袈裟に膨らませたモノ…なのだろう。
 臆面もなく自分を、若い頃はスポーツ万能で勇気と正義感に溢れ、町中の人気者だった、と語ってみせるオヤジが素敵。
 巨人やサーカス、戦時中のエピソードなど、大嘘と思われた事が後に現実との境目を曖昧にし、虚実が入り乱れていく。
 現実に妙なモノを混ぜ、しかもその「妙なモノ」の方にこそ愛情を注ぐ、監督・ティム・バートンらしい作り。

 後半、息子が、嘘ばかりだった父親の意外な「誠」に触れ、頑なだった心を開いていく。
 そして、「嘘」の暴走がクライマックスへと向かい…
 ラストには、ホロリ。
愛情を込めて ついた嘘が、受け継がれ、生を得て、自分達に命を吹き込んでくれた相手が「現実」から「(彼らと同じ)語られる対象」へと変わる瞬間を、温かく迎えてくれる。
 「それこそ私の人生だ」
 モノ作りの端に連なる者として、コレは泣かずにいられない。

 そういえば、自分は父親の人生…少年時代・恋愛・仕事の成果…について、どれぐらい知っているだろうか。
それはどこまで「事実」だろうか。
 ふと考えさせてくれる、楽しく、優しい、見る価値のある映画。



『かみちゅ!』11.「夢色のメッセージ」

 三が日のバイト疲れから、コタツでゴロゴロしてばかりの ゆりえ。
 この、本来退屈にしかならないはずの怠惰なウダウダ生活ぶりを、実に沢山のアイディアと、「あるある」と、細やかな演出・作画でもってエンターテイメントの域にまで押し上げてしまう、スタッフの底力は驚異的。

 そういえば何年もコタツを使っていないから、そこで ついうっかり惰眠を貪ってしまう楽しみからも遠ざかってるなあ。
 部屋が寒いためコタツの外に出るのが嫌で「立ってる者は親でも使え」になってしまう気持ち、リモコン無しのテレビを操作する面倒さ…自分にはリアルだけど、若い世代には「そんな時代もあったのか」という程度にしか認識されないかも。

 小吉だった ゆりえ弟の おみくじ。
ゆりえが文字を書き加えて「超吉」なんてのに換えた事で、幸がドカドカ舞い込むのでは…と思ったが、そうでもなく。
 本来 引いているはずだった おみくじの「大凶」と食い合って、「吉」ぐらいの運勢になったのかも。

 「萌え」というには余りに だらしなく、寝ると必ずヨダレを垂らしているのも どーかと思う( ^_^ )ゆりえが見せる、くるくると変わる表情、時折セリフに唇の動きさえ合わせてある丁寧な作画、もうそれが見られるだけで幸せな、楽しい お話だった。


2005年9月20日 火曜日

 油断して〆切に遅れてしまった お仕事、もうデッドライン ギリギリになってるんだよ!と言われ慌ててフルスピードでの作業中。
 すみません編集様、あと少しです…


2005年9月19日 月曜日

『フルメタル・パニック! The Second Raid』08.「ジャングル・グルーブ」

 不本意な任務中止命令を受けた宗介は、基地でテッサと対面する。
 宗介が何かしらの反応を示すより早く、テッサがボロボロに崩れて見せたため、機先を制された彼は、もう何も言えず。
 イキナリ泣くのはズルいよねえ。
泣いた、しかも女性に、「君は冷静ではない」と言っても意味が無く、泣かれてしまった方は、ひたすら譲る以外に選択肢がない。

 宗介達に、新しい上官が着任。
ちょっと鬱気味になっている内容に、新しい風を入れて気分を変えてみせる巧さ。
 暗黙の了解になっている酒場の指定席、相手に脳震盪を起こさせる戦い方など、「らしい」描写の積み重ねが楽しい。
 宗介、かなり強いと思うんだけど、まだ甘さがあるのかあ…
これから、戦士として更に成長を遂げていく事になるのだろうか。

 しかし、ズシリと重いシビアな展開。
もう、陽気で お馬鹿な学園物には戻れないような気分になってしまう。
 いや、必要があれば平然と戻るんだろうけど。



『奥さまは魔法少女』12.「心に生きている、ということ」

 茶番。
強制的な管理者交代も、それに従わない街の完全消去も、「全ては嬉子の成長(幸せ?)を促すためのものでした」という、恐るべき茶番。
 一応は真面目に見てきた視聴者に対し、このオチは無くないかなあ?

 …しかしジジイ、前回は どう見ても本気で街を消すつもりだったし、クルージェは街に来てからの精神的成長によって ようやく話し合える対象になったのであり、当初は他者の言葉に耳を貸すような素直な娘ではなかったのだが。
 その場の勢いとか、思いつきでモノを言ってないか?(制作者に言いたい事でもある)
前回、ババアと娘に怒られた事で、急に態度を変えて「実は全てが善意(?)の計画」と言い訳しているように見える。
 悪意の魔法少女達に操られるクルージェを見て何の手も打たない所からして、街の常態での存続には、やっぱり感心が無さそう。

 萩の街の立ち位置が いい加減なままなのが、大きなネック。
結局ココは、「実在する場所に勝手に魔法少女が管理者を名乗って降臨し、勝手に全ての権利を有する事にしてしまった街」なのか、「この作品世界には『萩』は存在せず、住民も含め魔法能力により無から生み出された街」なのか。
 嬉子の母親が作った、と言っていたので後者?
現実世界に存在する街に近いのは、単なる偶然?
 巽など、たまたま荻に越してきただけの人間なんだけど、街を改変する際 彼まで一緒に消してしまって良いモノ?
 実に据わりが悪い。

 街の改変を嫌がる嬉子→新たな管理者・クルージェの登場→戸惑うが、最終的には彼女に街を委ねる
 街の管理能力を失う事を恐れ、自分自身を変化させる事を嫌がり、夫・保と別居する嬉子→新たな下宿人・巽の登場→彼に身を委ね、自身の変化を受け入れる嬉子
 という二重の構造でもって、要するに「契約により因縁づけられた対象」…街であり夫…から、そのどちらも失おうと守りたい大事な人に出逢う事で、「管理者」「妻」という束縛された立場を離れ、一人の女性として自由になっていく過程を描く作品だったのか、とは思う。
 しかし、特に夫との関係。
彼を、嬉子を縛り付ける「悪役」に出来ず、逆に彼女の方こそ勝手な思い込みで結婚しながら勝手に失望して離婚したワガママ女、として描いたのは拙すぎ、「何を自由になってやがる!」としか思えなくて、不幸をすら期待させられてしまう。

 嬉子は、その身勝手さ故、今回ジジイに説教を喰らう所で妙なカタルシスを生み出していたが…
上記したように、ジジイ共に他人を説教する資格があるのかどうか疑問だし、そもそも全体の構成としては肯定的に描いてきた(のだろう)メインヒロインが、茶番の末に怒られてカタルシスを生じる作品って、どうだろ?
 視聴者の共感を得られる行動を取り続けてきたヒロインが、思わぬ、だが納得できる理由で責められるなら、ストーリーテリングの巧さに感心する事も出来る。
けれど…アホ行動ばかり見せていたヒロインに対し、12話目にして初めて「お前アホか」と突っ込まれても…
 しかも、嬉子の成長を描くなら夫・保を置き去りには出来ないと思うが、まるっきり置き去りにして若い愛人・巽とラブラブ幸せな様子を見せる…という所からは、嬉子の非道にまともなツッコミを入れようという意図は感じられない。

 むー、まあ、次回最終話を見てから、また。



『ゾイド ジェネシス』24.「驕り」

 シリーズを途中から見始めたため、普通に「敵キャラ」としか認識できていなかったザイリンの人生がざっと語られ、理解しやすくなった。
 今更ながら、ディガルドの統治は劣悪。
生かさず殺さずぐらいが基本では無かろうか。
 体を病んだ幼なじみを見て、冷徹ではないが熱い友情を見せる訳でもない、微妙な反応を示すザイリン。
大きな野望を秘めている?

 ラ・カンの呼びかけに応え、各地から集まってくる反抗勢力。
 毎度の事だけど…苦境から戦力を増やせたのは目出度い事に違いないので、それぞれのキャラクターを無視して「頭数」扱いし、「ラ・カン勢力は強力になりました」だけで良かったろう。
 が、お山の大将揃いの寄り集め所帯が最初から上手く機能するはずもなく。
 新参者達がまるで弱い理由は、大口を叩く割に大して実戦を経験していないからなのか、連携が取れず無秩序に他者を頼ったりスタンドプレーに走ったり、という戦い方では数がかえって仇になるからか。
バイオラプターとの戦い方も知らない所からすると、経験値が低い事は間違いなさそう。

 緒戦で勝利を収めた事で、逆に不安を感じるラ・カン。
確かに、勝って増長させては、今後 指示に従わせるのが難しくなるだろうな。
かといって大敗北させ貴重な戦力を失う事も出来ず。
 統制が取れない大所帯を抱える苦悩。
アホみたいに喜ぶゲリラ達に、一人背を向ける者もおり、不穏含み。
 いやあ、面白い。


2005年9月18日 日曜日

『仮面ライダー響鬼』32.「弾ける歌」

 今回は、素直に面白かった。
文句を言おうとすれば、雰囲気の違いを理由に言えるだろうが…

 布施 明演じる小暮というキャラクターが、とにかく強烈。
初登場シーンから、尋問してくる警官に食って掛かり、言葉遣いが悪いと警策でシリ叩きをしてしまう凄まじさ。
…コレ、下手すると「ちょっと署まで来い」って言われかねない暴挙では?( ^_^ )
 生身のまま、響鬼、轟鬼の裏を掻き、実体を見せずにシリ叩きを行う体術も驚異的。
どれだけ鍛えてるんだよ?

 言えば、この小暮の行動は、スーパー童子、スーパー姫を逃がす手助け(あの時点で響鬼達は既に彼らを見失っていたが)になっており、鬼の任務の重要性を考えると おかしい。
 でも、余りに凄いキャラクターのアクの強さに、一瞬そういった理性的判断を飛ばされてしまう。
 こういうのが、井上 敏樹作品の、マジック。
カッチリした物語よりもキャラクター、緻密な構成より 今この時の面白さ優先。
 それが重大な破綻を生み出してしまう事も多いけれど、視聴者を引き付ける強い魅力になっているのも また事実。

 しかし、歓迎会…布施 明の美声なら、歌うのが文部省(現・文部科学省)唱歌のようなモノであろうと、いくらでも聞いていられると思うが。
 『ドラえもん』のジャイアン・リサイタル扱いは、ヒドいなあ。
こっそり全員が逃げ出していく様子には笑ったけど。

 小暮が強力すぎて、これまで作品世界に波紋を起こしてきた桐矢の影が、すっかり薄くなってしまった。
 何事かの非常事態が生じて大騒ぎしている たちばな。
前回までの彼なら、「帰ってくれ」という言葉に従って、大人しく帰るはず なかったろう。
 それが素直に退場してしまうのは、店内から滲み出る「強敵(強烈キャラ)登場の予感」に本能的脅威を感じ取り、「今戦っては俺が負ける」という判断により、自分が もっと力を蓄えるまで対面を避けた、という事だろうか。違うだろうか(笑)。

 パワーアップアイテム。
受け取ってイキナリ強くなってしまっては、劇場版がそうであったように、「鍛える」というこの作品のテーマに沿わない展開になるなあ、と思えば、パワーが強すぎて誰も使いこなせない、という設定を付加。
 このアイテムを自分のモノにするため、より鍛える描写があるなら、テーマに最大限配慮した構成と言えるだろう。



『交響詩篇エウレカセブン』22.「クラックポット」

 ゲッコー号から離れ、一人さまようレントンは、一組の男女と出会う。
 陽気で面倒見の良いペアと、屈託無く接するレントンの様子で、久しぶりにストレス少なく見られた話。
新登場キャラに魅力を演出できている所からすると、やっぱりホランドらゲッコー号メンバーに感じさせられる苛立ちは、意図して作り出されたモノなのか。
 しかし、意図しようが何だろうが、これまで見ていて非常に面白味が少なく思え…
 全裸でトイレに入り力んでいる毛むくじゃらオッサン(兄ちゃん?)の様子など含み、「不快感」を一生懸命 描き出そうとする理由がよく分からない。
それで喜ぶ視聴者は少ないと思うのに。

 レントン、「人を殺した」自覚に苦しめられているモノと思っていたけど…
今回、新しいLFOに目を輝かせ、その戦いぶり…撃破された相手機に乗っていたパイロットの死…を見て、大喜び。
 人格が破綻しているようにさえ感じられてしまう。

 結局レントンは、戦いで人を殺す事など「虫を潰す」ぐらいにしか感じていないまま?
ただ、たまたまグロな死に様を直接 目にしてしまったため、ダメージを受けたに過ぎない?
 そして、「こんな嫌な思いをしてまで戦ってやってる俺に、みんな(エウレカも)優しくしてくれない」という、それが不満で船を飛び出した?
 う〜〜ん、そういうキャラクターに感情移入するのは難しいなあ。

 金のため、アッケラカンと人を殺す新キャラと行動を共にする事で、レントンは「何の死ぬべき理由もない相手を殺す行為」を納得していくのだろうか?
 ホランドらには隠された「大義」があるのかも知れないが、少なくともこれまでレントンは そういうものとは無縁で、何となくゲッコー号に乗り、何となく殺しをやってきた。
そんな彼の行動に対し、視聴者に納得して貰える回答(フォロー)を示すのは、至難のワザ。
 こういうヤヤコシイ所に触れず、スルーする方法はいくらでもあったろうに…

 不快なゲッコー号メンバー達、人殺しのレントン。
わざわざ苦心して描き出してきたマイナス因子を、一気にプラスに転換する目算は立っているのだろうか。

 レントンは、爺さんの工場でLFOを移動させる際 自分が乗り込んで行い、ニルヴァーシュには自分とエウレカが、ゲッコー号の他の機体にもそれぞれ人が乗っている。
そもそも「無人の機体」というモノを見た事があるのか(この世界に存在するのか)どうか、疑問。
 なのに、軍の機体にだけは「人が乗っていると思わなかった」とする…
 途中まで「戦いとは、人を殺す事」といったシビアな要素を入れるつもりが「無い」…としか思えない内容だったのに、イキナリ方向転換し、「レントンは、知らなかったとは言え、人を殺してきたんだ」と糾弾し始める。
製作者の都合のみを優先させたが故に、シワ寄せを喰らったキャラクターが、認識能力に重大な障害を持っているような描かれ方になってしまう、悲劇。
 ウルトラマンが戦いの最中に破壊したビルの中にも人がおり、巻き添えで多数の死傷者を出している、という事をシリーズの途中でイキナリ責め始め、それに対してウルトラマンは「ビルに人が入ってるなんて思わなかった」と言い訳するような、無理矢理感。
 そういう事をするスタッフなんだけど…

 正直、シンドい内容に挫折し、もう見ていない視聴者も居ると思う。
頑張って付いてきた客には、「それだけの価値はあった」と思える何かを見せて欲しい…


2005年9月17日 土曜日

『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』48.「新世界へ」

 残り話数が少なくなってしまった割を食って、議長がガンガンと短絡思考・暴力先行の お馬鹿さんにされており、悲しい。

 ディスティニー・プラン。
そう悪い話ばかりでもないような。
 人種・学歴等による酷い差別は、現在も厳然とある。
 「劣った遺伝子の人間は処分する」とかいう非道な計画でもないのだろうし(生まれる前なら改造できる)、遺伝子操作によって予定された能力を持つコーディネーターを生み出す事に既に成功している世界にとっては、適正を審査し、職業などを決定する事、そんなに間違っていないと思うけど。
 問答無用で適用・強制するのではなく、厳しい制限下ではあっても多少の自由を許すようにすれば、問題はより少ない。
 だから、ゆっくり時間を掛けてメリットを説明し、説得していったなら、世界のかなりの人間は議長側に付いた可能性があったろう。

 現在の混乱した世界状況に乗じて、各国の軍備縮小を求め、代わりにザフト軍を駐留させ、工作し、国の指導権を奪う。
 その上で、「疾病の予防や、凶悪犯罪発生時の捜査に役立てるため」とか何とか理由付け、全国民の遺伝子登録を義務づける…辺りからディスティニー・プランを始めれば、大衆のアレルギーも少なかったろう。
 とにかく、ついさっきコーディネーターを大量虐殺したロゴスの、イメージ最悪な巨大兵器を利用して、「従わないと こうだぞ!」と言いたげでヤクザみたいな脅し方をしては、無用な反感を呼んで当たり前。
余りにも拙速。

 議長の目的は、宇宙に平和(秩序?)を…だったはず。
全人類の「王」になりたいなら、先のプラント落としを見過ごしにし、重ねて あと数機 落としてやれば地上の文明は壊滅的打撃を受けたろう、そこで残ったナチュラル絶滅、あるいは強制的に(次世代から)コーディネーターへの転向を迫る事も十分可能だったろうから、そうすれば良かったのに。
 随分と手間を掛けて現状にまで宇宙を導きながら、最後の最後で短気を起こす理由が分からない。
 …構成の失敗から、シリーズの残り話数が足りなくなってきたので、「バカ」になってもらうしかなくなった…というもの以外は。

 議長が聡明・理性的である限り、ディスティニー・プランは そんなに大きな問題を生み出さない。
問題が生じてくるとすれば、議長を「継ぐ者」が愚者であった時、だろう。
 世代交代まで待つ、なんて悠長な事を言っていられるはずもなく、手っ取り早く議長を、「こんなバカに宇宙を任せたら危険」と思えるキャラクターにスケールダウンし、「個人の独裁を許す危険」を表面化させた。
それが、今回の話。

 アークエンジェル一行。
 議長のプランに反対するのは、理念あっての事?
ザフトの絶対的支配が確率すれば、取りあえず全人類的な戦争行為、大量の死者の発生は回避できるかも知れないんだけど。
 「誰かの下にあっての平和より、それぞれ違う『平和』を求める無秩序な小競り合いで死者を出し続ける混迷の方が尊い」という考えが確立している?
それならそれで、間違っているとは言えないが。
 まあ、既にオーブ軍に組み込まれている彼らとしては、議長の宇宙的支配が達成される、イコール生きていく場所を失う、という事で、平和だの未来だの知ったこっちゃねえ俺達ゃあ殺られる前に殺るだけよ!と考えているのかも知れない。

 ディスティニー・プランの発表に戸惑うシン。
…ええと、彼は議長に心酔していたはずだよね?
 そういう心理状態であれば、少なくとも この世界においては まるで間違っている訳では無かろうプランを聞いただけで、迷いを生じる理由なんて 無いと思うけど。

 プラン発表時、モニターに映し出されたデフォルメキャラによる説明アニメに、笑う。
世界人類をバカにしとんのか?(笑)
 プランへの第一印象を決める大事な説明で、こんなものにオッケーを出した議長って一体?
「議長は、他者一切をモノが分からない幼児扱いしている」という事の象徴?



『ウルトラマンマックス』12.「超音速の追撃」

 ウルトラシリーズの、実にスタンダードな話。
 ライブの警備員に対し、自分の権限を示す事をすっかり忘れ、無駄にモメてしまう隊長とか。
その隊長が、当初 避難させようとしていたバンド・バッドスキャナーズの面々を、マックスが危険と見るや、一転して演奏を続けさせ、平然と危険にさらす所とか。
 その辺は「変」で面白かったけども。

 DASH、一応は人命尊重の姿勢でなければならないだろうから…隊長はマックスが危機を迎えても、なおバンドを避難させようとするのだが、それを振り切って援護のため彼らは演奏を続ける…という風にでもすれば。
 あるいは、DASHメンバーが代わって適当な演奏をし、それでも怪獣が反応する事でバンドの連中が「俺達の曲はあんな騒音と変わらないのか?」とショックを受ける、でも。
 バッドスキャナーズの音楽を毛嫌いする隊長、しかし彼は学生時代、同じような傾向のバンドを主催していた…だから似せた演奏が出来る。
そこを中心に、隊長の過去を彫り込む話にする手も。



『かみちゅ!』10.「ふしぎなぼうけん」

 神様集会に出席するため、出雲の学校に一時転校する ゆりえ。
 特に これというストーリーやテーマを語る内容ではなかったが、不本意な転校に戸惑い孤独を感じる ゆりえと、彼女が居ない日常を送る学校の友人達、「神様」に どう接すれば良いのか決めかねる出雲学校の生徒といった、シチュエイションが生み出すキャラクター心情の捉え方は、さすがに上手い。
 …「神様」という特殊な設定さえ除けば、「父親の仕事で転校が多く、心を閉ざしてしまった女の子の話」として『中学生日記』の中で放送されても、違和感のない内容かも。
いや、『中学生日記』が今でも そんな内容やってるかどうか知らないけど。

 今回で ゆりえは、異境の地の見知らぬ人達とも、心を開けば仲良くなれる(可能性がある)と知ったのだから、神様の中にも親友を作るぐらい交流してはどうか。
そうすると、完全に「還れなくなる」予感を持ってるのかな。



『極上生徒会』24.「あなたに会いたくて」

 コミカルとシリアスの振幅が大きい作品だと、ついコミカルな方面にシンクロしてしまう。
この作品でのシリアス展開には、ちょっと無理を感じる事が多いので、余計。
 なので、生徒会長退学、それに伴う生徒会メンバーの戸惑い・嘆き、という展開には、乗り切れず。
 これまで描いてきた会長との絆を拠り所に、複雑な家庭事情に絡め取られた彼女を奪回する、最終回に向けたラストイベントなのは分かるんだけど。

 後は、各キャラクターの個性を生かして障害をくぐり抜け、会長の下に辿り着いて事態を打開し、日常に戻る、という王道展開が待っているんだろうな。
 上手く盛り上げてくれれば、それはそれで良いか。


2005年9月13日 火曜日

 今月も〆切前の強行スケジュール期間がやって参りました。
 金曜日ぐらいまでは、更新が不安定になります。
悪しからず ご了承下さい。


2005年9月12日 月曜日

『奥さまは魔法少女』11.「秋の風が吹いた、ということ」

 夫と別居に到った理由…自分は魔法少女であり街の管理者を続ける(街を存続させる)ためには肉体的接触を拒まなければならなかった…を説明する順番、何故だかイキナリ好きになっている若い下宿人を先にし、夫は後回しにする嬉子。
 意外な程アッサリと その説明を受け入れ、もう自分が嬉子に愛される可能性は全く無いのだと知り、街と共に消える運命を甘受しようとする夫・保が泣かせる。

 その後に挟まれる回想。
旅行者だった?保にモーションを掛けたのは、嬉子の方からだった。
「あなたは虚構の世界を受け入れてくれる人だと思えたから…私も安心できたの。あなたと居たいと思ったの」
という嬉子のセリフは、余りにも自己中心的すぎて、もう笑ってしまう。
 実際、保は「虚構」のような嬉子の説明を受け入れてくれたのだが…これまで説明しようとしなかったのは嬉子。
「理由を言わないまま結婚後も死が訪れるまで続く性交渉完全拒否だって一切文句を言わずに受け入れてくれる人だと思った」
というなら、そりゃ勝手すぎだろ。
 取りあえず若い愛人・巽だけでも、安全な街の外に逃がそうとする嬉子の行動がまた凄い。
彼女の守りたい物って、何だったんだ?
 近い将来、巽が老けてきた時に、ちょっと可愛い若い男の子が目の前に現れたら、また何の迷いもなく そっちに走るんだろうな、嬉子。

 いや、実のところ、この物語はリアルっちゃーリアル。
 どんなに愛していようが結婚して夫婦になろうが、上手く行かなくなる事なんて いくらでもある。
その原因が全く自分にあろうと、人間、なかなかそれを素直に反省できるモノじゃない。
 他に好きな人が出来たら、前に好きだった人なんか どーでも良くなる。
 過去の恋をウダウダ引き摺るのは、どちらかというと男性の方。
女性は男なんかより遙かに強いので、割り切る所はスッパリ割り切ってしまう。
割り切られた前の男の方は たまったモンじゃないけど、泣いても喚いても怒っても、それで どうにか出来る訳でなく。
 『機動戦士ガンダム0083スターダスト・メモリー』のニナも、そういう(こちらは過去の男のために今の彼氏を見捨てるのだが)思考形態を持っていたなあ。

 「萌え」アニメへのアンチテーゼ。
「女性の怖さを知れ!」とばかり、視聴者に冷や水をぶっかけるような作品。
 そういえば男性向け「萌え」作品では、主人公がアッチの女の子コッチの女の子と決めかねてフラフラする事があるが、そういう様子を女性視聴者が見ていると こんな気分かなあ。

 ただ…こういう形で「リアル」を見せつける事が、「萌え」(に限らず)アニメに求められているかどうかは疑問、というか、否定的。
勿論 表現は自由なので何をやっても構わないんだけど、商業的には苦戦しそうかと思う。

 ヒロイン以外に強力な魅力になる要素(例えば派手なロボットバトルなど)があれば別だけど…お色気も弱くなってしまったし…
 勝手に虚構にされた萩の街、電車で一駅程度の範囲しかないワンダーランド。
『ダークシティー』のような閉じられた街でもないようなのに、この街がまるで変わってしまった場合、近隣の街との関係はどうなってしまうのか?世界中の街一つ一つに魔法少女が管理者として赴任しているのか?萩だけが特別なのだとしたら、その理由は何…
 この街に訪れる危機が物語の大きな仕掛けになっていると思うのだが、疑問だらけ、無理ばかりを感じてしまい、乗れないからなあ。


2005年9月11日 日曜日

『仮面ライダー響鬼』31.「越える父」

 前回は、正直言うと、こりゃダメかな…と思ったのだが、今回は、もう慣れてしまったのか、これはコレで無しでもない、と思えるようになってきた。
 ただ、何というか、急激な路線変更への戸惑いを含め、必ずしも素直に歓迎できない意味で「ドラマっぽい」内容だな、とは感じる。

 桐矢の言葉に動揺し、ヒビキに父親の事を相談する明日夢。
 ヒビキのキャラクターは「大きく包み込む」もので、悩み事に対して自分の考えを直接 語り、相手の思考の方向を決めてしまうのではなく、気持ちを落ち着かせてやり、所謂「背中で語る」事により、明日夢自身が自然と答えまで辿り着けるようにして上げるのが常だったと思う。
 今回の、父親に会いに行ってみれば?という言動は、ドラマの進行を早める意味で、とても有効。
また、「ごく普通(よりは優しい、頼りになる方)のお兄ちゃん」としては、「こうするよね」と感じられる対応だった。
 ただ…これまでの、「なんて大人なんだ」「自分もこうありたい」と憧れられるキャラクター・ヒビキではないが…
 特に子供には、直接的な言い方をするキャラの方が分かり易いんだろうな。

 その他、「インターホンを鳴らすが そこは留守、隣の住人(オバサン)が、何故か詳しく事情を教えてくれる」という、刑事物にありがちなパターン。
 会社に行ってみれば、受付で情報提示を断られたシーンでパターンを外すのか?と思ったが、たまたま通りがかった社員達が聞こえよがしに父親の話題をしている、という便利な展開。
 現場にたどり着けば、父親は病院に運ばれたと言われる。
ここでも、父親の評価を手短に聞かされる。
 病院に行けば、既に出ていった後で…『母をたずねて三千里』か!(笑)
落ち着きがないなあ父ちゃん。

 とにかく次々に場面を変える事により、飽きさせない内容には出来ていたと思う。
 しかし、慌ただしくセリフを中心に示される父親像は、深さや味わいに欠け、「ストーリーを語る上の『道具』『設定』としての存在」とも感じられる。
 この辺も、良くも悪くも「ドラマっぽい」作り。
これまでの、作為を表に出さず、時に「彼らの日常」をライブカメラで切り取ってきたような見せ方とは、全く異質。

 街中で派手に戦い、桐矢に目撃されながら、今のは黙っていてくれと頼む明日夢。
…うーん、これだけ被害を出してしまっては、個人が黙っていても意味があるのかどうか。
 こういう変な所は、変更前からずっと あったんだけど、事件に対する はっきりしたフォローを「しない」事で、トボケ続けてきたもの。
 このように、ドラマの中に事件を組み込んでしまうと、『555』や『剣』と同じような形にするしか、消化の仕様がなくなるような…

 前回の引きから、桐矢の父親も鬼だった?と思ったが、消防士として自分を省みず人命救助のため炎の中へと飛び込んでいった姿が、響鬼の戦いぶりと重なって見えた、という事か。
 桐矢も、それはそれでアリなキャラかな…と思えてきた矢先、今回最後のセリフ、「ヒビキか…お前はいずれ俺のモノになる」で、ドン引き。
 次回へ興味を繋いでいきたい気持ちは分かるんだけど、こりゃ無茶だろう。
どーゆーヤツなんだよ(笑)。
 だらしないヒビキにホモとして惚れたとは思えないので、「響鬼の力を自分の物にしたい」という意味なのかなあ?

 この展開の速さなら、桐矢の先行に触発され明日夢もヒビキに弟子入りする、とかで、最終回までには二人とも鬼に変身できるようになるのでは?
 いや、途中で桐矢鬼はダークサイドに引かれ魔化魍側に落ち、明日夢鬼と宿命の戦いを繰り広げる、まで行ってしまうかも。
 ドラマだねえ。



『交響詩篇エウレカセブン』21.「ランナウェイ」

 んん?何だか前にもらっていた液体を振りかけただけで、エウレカは回復へ?
それなら、誰でもいいから振りかけてやれば良かったのでは?
 アレは聖水のようなもの?
聖職者の祈りと共に使う事で、初めて効果がある?
 そうすると、エウレカの変化は化学的なものより、精神的・オカルト的な原因に因っていた、という事か。

 人殺しを ようやく自覚し、苦しむレントン。
 彼は他の乗員をも、その事で責め始める…
それに対し、乗員は もっと自分達の義を訴えてウダウダ言い訳するかと思っていたが、「殺してますけどそれが?」というぐらい、アッケラカンとした対応だったのに驚く。
 う〜〜ん、それで良いのかどうか。
 「やむを得ず殺している」ばかりではなく、避けられなくもない軍基地の近くを飛ぶ事により、「本来なら殺さなくても良い人間まで殺している」キャラクター達を、好意的に捉えさせるアクロバットは可能?

 そうまでしてでも成し遂げなくてはならない大義がある、ならともかく、それが見えてこない現状、キャラの魅力だけで「他者を殺しても主人公達が生き延びるべき価値」を演出し、視聴者に納得してもらわなければならない。
 しかし…ホランドは勿論、その他のゲッコー号メンバーも、妙な姿になったのに憐れみさえ感じさせてくれないエウレカも、とにかく魅力に乏しくて。

 敵機はリモート操縦されていて人間は乗っていない…という事にし、殺人の責任は回避して良かったのではないか。
 殊更に こんなイベントを設けたのは、他者の命を(無駄に)奪った記憶を、レントンが乗り越える展開が先に控えており、それは視聴者をも納得させられるだけの説得力があるものだ、という自信の表れ?
…その展開がどういうモノであるか、想像 付かないけど。

 戦闘慣れした男女ペアキャラの登場。
ゲッコー号を脱走したレントンは、どうも彼らと出会うらしい。
 ええと、『ガンダム』ランバ・ラルのエピソード?
 彼らが、レントンの意識を換えてくれるのかな?


2005年9月10日 土曜日

『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』47.「ミーア」

 ミーアの内面を描く話は、大いに意味があると思う。
…もっと早く、せめてアスランに脱走を勧められる前か直後であれば、彼女への理解が進み、物語は味わい深くなったろう。
 しかし…既に彼女が亡くなった段階で示されても…
「ミーアは実に悪辣な、自らの欲望のままに何でもする女」と これまで見せてきたなら、「本質は素直な、平和を望む、ラクスのファンでさえある普通の女の子」という実体との間にギャップを作れ、今回の話にもっと見る価値を付けられたろうが。

 ミーアは、ラクスに対して多少は複雑な気持ちを抱いていたような…回想にもあった、シャトルを奪って宇宙に上がるラクスのエピソードで、とても単純なファンとは思えない表情や行動を見せてなかったっけ?
 叶わぬ夢に過ぎなかったスーパースターになり、自分の言葉(読み上げる、誰かが書いた台本)が世界を動かす事に、充足感と、裏腹な「所詮は偽物」というアイデンティティーの危機を抱え込んでいく、この辺りは深くて、面白い。
 更に進めて…
次第に、これだけ重要な立場に居ながら、全てを放り出して逃げたラクスへの怒りを感じ始めるミーア。
好きだったからこそ、自分達を見捨てたラクスが許せない。
オリジナルを責める事で、無断で偽物になっている自身の立場を正当化もできる。だから もっと憎むようになる…というような心理作用を見せて(語って)くれても良かったような。
 そうすれば、ラクスを前にしたミーアの気持ち、そして悲劇の最期は、より分かり易く、見る者の気持ちを揺さぶるものに出来た…かも。

 まあ、とにかく、残り僅かな話数になった この時、語るべきエピソードだったかどうかは、疑問。
 ミーアの死・それを悼むアークエンジェル一行、という流れと、ディスティニー・プランを大衆に向けてブチ上げる議長の演説とは、上手く繋がっていないし。
 もしかして議長、「君達の愛してくれたミーア(ラクス)は死んだ!何故だ?アークエンジェル一党に殺されたからさ!」という無茶な演説をし、「最後の敵」をキラ達に設定して総攻撃をかけてくる気かと思ったが…
もっと分かり辛い思考形態だなあ。

 議長、まだ若い(よね?)のだし、こんなに急いでディスティニー・プランを実行しようとしなくても良いのでは?
 世界各国に対し、恩着せがましく援助活動などして、ザフトの支配を、傀儡政権とか使いつつ隅々まで行き渡らせてから、少しずつ少しずつ、大衆に分からないようなスピードで施行していけば それで済んだような。
「どさくさに紛れて一気に やっちゃえ」というアホな思考形態を議長が持っているなら、先のプラント落としを放置して、もっと大規模な混乱を起こす事で、より酷い「どさくさ」に紛れられたはず。

 つまりは、「残り話数が少なくなってきたんで、議長を拙速で無茶なキャラに描かないと、終わらない」という、製作者の都合が優先されてしまったものなのだろう。
 議長は、なかなか面白いキャラクターに出来ていたというのに、勿体ない話。

 この先、無理に進めようとするディスティニー・プランのため、各地に混乱と反抗勢力が生まれ、それを弾圧しようとするザフトとの間で戦いが勃発。
人々の怒りと悲しみと希望を受け、アークエンジェルが悪を討つ…って展開になるのかな?



『ウルトラマンマックス』11.「バラージの預言」

 アントラーは、その特徴あるデザインから、ウルトラ怪獣の中でも好きな一匹。
 今回登場したリニューアルデザインは…まあ、造形的には及第点、という所だろうか。
安っぽく見えたのは、主に撮り方の問題かな。
 地中に飲み込まれていくビル群など、CGでなく、あくまでアナログな「特撮」の見せ場は、予算がない状況であろう割には よく頑張っている。
ただこれも、撮り方で もう少し質感が出せると……

 ストーリー。
 面白くなりそうな要素は、いくつもある内容だったと思う。
アントラー復活の預言を残し、理解されず失意の内にこの世を去った教授。
それが原因で、世間と素直に向き合えなくなった娘。
 この娘が、長く溜め込んだ鬱屈から立ち直る瞬間を、ドラマ的クライマックスに据えるべきだろうに、何となく逃げ遅れた子供達を助けに行き、実に弱い切っ掛けで青い石をDASHに渡してしまう。
 子供達を救おうと自らの命さえ省みない親の姿に、学者の娘は自分と父親の過去を重ね、そこを感情的ターニングポイントにする…とか何とか、分かり易く処理する方法は あったと思うんだけど。
 子供が助かったのかどうかのフォローが無い事もあり、どうにも、弱い。

 アントラーにより、電子装備が全て麻痺してしまう街…
ここも、それにより何が起きるのか、現代ならではの事件を いくらでも面白く見せられたと思う。
 学者の娘の確執は略して、街の様子をメインに据え、見ている子供達に、自分がどのくらい電子機器に依存した生活をしているか知らしめる、というのを今回のテーマにしても構わないぐらい。
 …確かに、割とアチコチで見るパターン(『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム』での異常が起きた街の描写は素晴らしかった)だから、目新しくはなるまいが。
 マックスの光線技を、磁気攻撃によって妨害するシーンとか、面白い所もあったんだけど。

 青い石が、アントラーに どう効いたのか分かり難いのも、不満。
アントラーの周りに張っている電磁的バリヤーをコナゴナに破壊するとか、視覚的に分かり易い効果が欲しかった。
 監督・金子 修介の縁で呼んできたのか、藤谷 文子を久しぶりに見られたのは懐かしかったが…相変わらず演技力は上達してないなあ( ^_^ )。


2005年9月9日 金曜日

 レンタルで映画『ゴジラ FINAL WARS』を見る。
 北村 龍平が監督した、取りあえず最後のゴジラ(終わる訳はないのだが)。
 もう、遠慮無く内容に触れるので、未見の方は御注意。


 いやあ、面白い。
久々の、無邪気に「面白かった」と言えるゴジラ映画ではないか。
 とにかくイベントが多い。
ゴジラが氷の下に封印される戦いを皮切りに、轟天号対マンダ、ミュータントが居る世界観と、彼らのみで構成された特殊部隊の提示、その隊の中で主人公と対立するケイン・コスギ、轟天号艦長拘束、ミュータント部隊隊長登場、事故に遭う国連事務総長、世界中で暴れ始める怪獣達、巨大円盤の出現…
 まだまだ、もう本当にギッシリと、大小様々なイベントが詰め込まれている。

 特に平成ゴジラで不満だった、「余りにも退屈な部分が多いため、その間に映画を否定するような考えが次々浮かんできてしまう」という欠点を解消。
 これだけハイスピードで事件が起きては、「アレ?ちょっと待てよ、今のおかしいぞ」などと考えてる余裕がない。
 ゴジラ映画に求められているのは、キレイに辻褄が合っている事ではなく(それは望みすぎだから)、取りあえず見ている間だけでも騙してくれる事、だろう。

 世界のトップを抑える武闘派宇宙人、彼らが操る巨大円盤と戦闘用小型機、恐るべき怪獣軍団…
絶対的危機に、主人公達の戦力は余りにも少ない。
 絶望的状況を打開する最後の希望(?)は…ゴジラ!
 という訳で、満を持して、「待ってました千両役者!」という舞台立てを得て登場するゴジラは、無闇やたらと格好イイ。
地上の怪獣達を掃討していくゴジラは、「勘違いするなよ地球人、お前達を助けようって訳じゃない。ただ、俺様の星で好き勝手する余所者が許せないだけだ!」と言いたげ。

 対する人間キャラクター。
 主人公・松岡 昌宏は優等生的すぎて弱いと思うんだけど、それを轟天号のキチ(ピー)艦長が補完、というか完全に喰っている。
ミュータントでもないクセに、無敵で不死身だもんね。
この艦長が あと2人も居れば、怪獣軍団や宇宙人を撃退するのに、ゴジラの手を借りる必要など無いだろう。
 この映画は、乱暴デタラメ艦長のキャラクターを立てられた時点で、ある程度の成功を約束されたのかも知れない。
 他にも、無駄に良いシーンを持って行くミュータント部隊隊長や、実に楽しそうに怪しい国連事務総長を演じている宝田明など、若いモンの見せ場を年寄りがガンガン食い潰していて、愉快。

 戦いの終幕や物語の終わり方などは「うーん」という所だし、宇宙人の目的や行動にはツッコミ所が山積みだけど、まあ、何にせよ満点を期待する映画じゃないから。
 見せ物としてアチコチ楽しませてくれただけで、十分。
 映画シリーズ取りあえずの区切り作品として、ゴジラを格好良く見せてくれたのは、素直に嬉しかった。
 シリーズを再開する際にも、これぐらいの面白さ・サービス精神を期待したい。



『苺ましまろ』07.「海水浴」

 決して悪い出来の話ではないと思うのだけれど、前回、前々回と余りにも高レベルな内容が続いてしまったため、物足りなさを感じてしまう。
 ほんのちょっと演出が甘く、ストーリーのフォローが弱いだけで、同じ行動を取っても美羽が、可愛く見えなくなる。
アクが強いキャラだから、取り扱いの注意点は、『クレヨンしんちゃん』しんのすけと似ているのだろう。

 今回は、全員で海水浴に行ったが…
少女らは まるっきり つるぺたの子供としてのみ描かれており、「少女特有の色香」みたいなモノを あざとく演出してくれなかったのは、残念。
 下品にならない程度の視聴者サービスは、欲しかったような。
「エロ」ではなく…これまでも、日常生活の中にさえチラチラと、そういうモノを混ぜてきているのだから。
 DVDの売り上げが、ガツンと違ってくると思うし( ^_^ )。



 日曜日の選挙。
 民営化賛成で自民党か、政権交代を願って民主党か、というのが選択肢の全てでは?
自分もそうだし。

 そんな時 友人から教えられたのが、社民党議員さんのサイト(前回落選してるみたいだから、元・議員か)。
 ここ とか ここを読むと、なかなかに有り難い事が書いてあって…
うーん、正直に正直な所、社民党はもう とうの昔に役割を負え、消え去るのを待つばかりの政党であり、それは全く当然の事だろうと思うので、投票の候補に入れる気などカケラも無かったんだけど…
 こういう意見を表明したブログを読むと、揺らぐなあ。

 東京比例区で出馬なされているそうなので、ドコに入れたものだか決めかねている方は、候補の一つに考えてみては如何でしょうか。
 自分は何を保証出来る立場でもないので、申し訳ないですが あくまで自己責任に基づき。


2005年9月8日 木曜日

『タイドライン・ブルー』08.「再会」

 潜水艦へ、イスラの所へと帰りたい!という目的が物語中に生まれる事で、随分と見易くなってきた。
 …その目的への価値付けが きちんと出来ているかどうか、というのは疑問だけど。
他に どうしようもない(他の場所・人・物には もっと価値がない)ので、潜水艦を目指すしかないのは、分かる。

 アオイ、割と唐突にキールへの思いを口にするが…
うーん、キールを思う気持ちがこれまで上手く表せていないように見えて(上手く表せないキャラだから、というレベルを越えて)、感情説明をセリフに頼りすぎているような。
 いや、ようやく彼女の胸中を明らかにしてくれた事 自体は、歓迎すべきなんだろうけど。

 キール、無計画に浮きドック船 乗員の前に身を晒してしまう。
そうでなくとも密航者は邪魔者なのに、厳しい世界状況が加わっては、「海に放り出せ」という対応をされる事ぐらい予想できそうな…
 イカサマ賭博なんてやっていた割には、基本的に他人の好意を信じているんだなあ。
イカサマ(正しくない形での乗船)がバレたら相手は怒る、捕まったら酷い目に遭う、と経験から知っていそうだけど。
 ユリシーズが気持ち悪いぐらい暖かく迎え、ワガママさえ許してくれたので、「船ってのは、新たに乗り込んできた人間の言う事を聞くもんだ」という間違った知識を得てしまった?



『極上生徒会』23.「怪傑少女探偵団」

 極上寮の管理人・久川まあちの秘密を探る話。
 妙なバトンを持っている事で、魔法少女ではないかと疑われるのがおかしい。
しかし…この作品の世界観からすると…人形が自分の意志を持っていたり その戦友が尋ねてきたり忍者が その辺に居たりしている事もあり、魔法少女の一人や二人、存在して不思議は無いような。

 香の家庭環境と絡め、演歌調人情話風で落とすのは、リアルに捉えて どうこう言うような作品ではないと思うので良いとして、結局 管理人幼女はナニモノなのかとか、そういう根本的な問題は何も解決していないような。
 感動的にまとめたように見せながら、いやいやいや本質を見失ってないか?という視聴者からのツッコミを誘うのが狙い?

 意外と、まあちは本当に魔法少女で、しかし変身は「大人になる」のではなく「いい歳のオバサンが幼女に変身する」形なのかも。
それなら、家事一切が得意なのも世話好きなのも会話中にジェネレーション・ギャップが出ないように「エヘ」ばっかり言っているのも説明が付く。
 ただ…そういう実体を晒す事で視聴者が喜んでくれるかどうかは疑問だが。
「オバサン」ではなく「美熟女」として描けば、それはそれで萌えの対象にならなくもない?


2005年9月7日 水曜日

『かみちゅ!』09.「君に決定」

 権力を得て、好きな男の子に部室をプレゼントしたい、というような、かなり不純な目的で生徒会長選に立候補(推薦候補か)する ゆりえ。
 …意図してか せずか、丁度 衆議院選挙の時期と重なったなあ。

 対立候補が、ゆりえの元に「生徒会長になりたい」という願い(対立候補・ゆりえを何とかして欲しいという悩み?)の相談にやってくる。
 願い事を叶えるのが「義務」であるらしい神様が、自分自身で願いを持ち、それが他の人とバッティングしてしまった場合、どうすれば良いのか、というのはかなり深遠な問題だと思うが、同じ男の子を好きになった少女の願いエピソードと同じく、何だかグダグダのウチに終了。
 いや、そんな所を彫り込んで ゆりえを悩ませるのが狙いの作品ではないし、視聴者が期待している部分でもないのだが。

 大袈裟に書かれた台本に寄らず、自分の言葉で ゆりえが持つ「輝き」を語りきった光恵の応援演説が、感動的。
チョイと涙腺に来てしまう程。
 ゆりえが当選出来たのは、ほとんど彼女のお陰だろう。
 巧言令色 少なし仁
人の心を動かすのは、嘘偽りのない真心なのかも知れない。
……って事を、現・衆議院選挙候補者にも理解して頂きたいもの。

 オチ、こう来るとは思わなかった。
ゆりえの性格を考えれば、無理からぬ事なのだけれど。
 しかし、物理的に世界を改変するような力まで持っているんだなあ。



 HCM-Pro17 アッガイ…うーん、こんなアッガイは嫌なような嬉しいような。
 「しゃがみポーズ」が再現可能!!…ホントだ、しゃがんでるねえ。
ちゃんと「水中戦仕様」になっている所が素晴らしい。
対象年齢は、6歳〜9歳より もうちょっと上でも構わないと思うが。



 映画『魔法戦隊マジレンジャー THE MOVIE インフェルシアの花嫁』を見る。

 テレビシリーズの一話として放送されても違和感のない内容。
それは、良い意味でも悪い意味でもあるが…ここでは良い意味。
 家族愛があり、熱血展開があって勝利に到る。
子供に向けた正しいメッセージを高らかに謳いつつ、しかし説教臭くまではならず。
 「戦隊物」に求められる要素が、短い時間にギュッと凝縮されている。

 両親の過去エピソードと兄妹の現在の姿、サッカー試合中の魁とマジレッドのシュート、色々な物を重ね合わせて、短い、単純なストーリーに深みを出そうとする作り手の努力が心地良い。
 オールド特撮ファンとしては、曽我町子が出ているだけでも(お元気そうで何より)ポイント高い。
 ベタベタのラブコメシーンは、いい歳の人間にはチョイとキツかったが、女の子は可愛かったし、バトルの派手な見せ場も連続しており、十分 面白かったと言って良い出来。


 続けて映画『仮面ライダー響鬼と7人の戦鬼』を見る。

 スタッフ交代前のテレビシリーズが好きだった身としては、キャラの捉え方からバトルの組み立て、作品を包む空気感まで まるっきり違ってしまっているので、戸惑いが先に立ち、話に乗れない。
 戦国時代、明日夢と最初に対面するシーンで、ヒビキがかける言葉が…
とても信じられないぐらい無神経、かつ愚かなものであり、どうしてこんなセリフを言わせなければならなかったのか、理解不能。
 まず それが最大の不満点となっているため、冷静な感想など書けようはずもないけれど…

 これをテレビとは別物の、一本の作品として評価しても、余り高い点数は付けられない。
 上映時間に比してエピソードが詰め込まれすぎており、そのどれもが消化不良で、互いに相殺効果さえ発揮し、見せ場が連続するクライマックスまでも、つまらなく感じさせてしまっている。
 8人も鬼を出そうというのが、そもそも無理では。
「沢山の鬼を出す」事は、企画意図でありセールスポイントだろうから仕方ないのかも知れないが…この時間内で扱えるのは、せいぜいで5人ぐらいまでかと。
 まあ、子供なら、ヒーローが一杯出てくると それだけで喜ぶのかな?
大人にとっては、それぞれ時間足らずで魅力が描き出せていない多数キャラクターの存在など、見分けるのが負担になるばかりで、特に嬉しくないのだが。

 以下は内容に触れてしまうので、未見の方は御注意。



 鬼の中に裏切り者が居て…という展開。
ドラマティックにしようという意図は分かるんだけど、正直、もう食傷気味。
 裏切った理由は理解するとしても、他の鬼達を罠に掛けようというなら、一人ずつ闇討ちにした方が効率良くないか?仲間割れさせたって、あんな理由じゃ殺し合う所までは行かないでしょ?
 子供好きであるとか、何か思う所がありそうとか、もうちょっとで深い、印象に残るキャラクターに出来そうな個性を持っていながら、その一押しが足りず。
驚くぐらいアッサリと退場してしまうし(ディレクターズカット版の噂は聞くが)。
 結果的には、裏切りキャラのエピソードを まるごと削除しても構わないんじゃないか、とさえ思えてしまう。

 裏切る鬼の存在は、鬼後援組織を結成する切っ掛けとして必要だった?
しかし この村人達がまた、鬼を殺そうとまでしたクセに、彼らが魔化魍を倒してくれるや掌を返したように笑顔を向ける、心を感じられない連中なんで、感心しない。
 生け贄を捧げなかった事で被った被害(村の半分が焼き尽くされた、とか)と、鬼を見直すに至る経緯を もうちょっと描いてくれないと、「猛士結成に到る過程を映画で描く」という製作意図だけが突出し、ドラマが追いついていないように見えてしまう。

 尺が足りないため、駆け足になっている所は数多い。
 ご近所を歩いた程度でホイホイ鬼を集めてくる(ように見える)明日夢、都合良く決戦の場に駆けつけてくる鬼達、何故 現代の洞窟にあったのか剣、それを握ってどうしてパワーアップするんだ響鬼…不満を数え上げると、きりがない。

 良かった所。
理不尽な生け贄の運命に けなげに耐える少女二人、バカ殿になっているイブキ、馬鹿馬鹿しい巨大ディスクアニマル(変だとは思うが、笑った)、さすがに盛り上がる 魔化魍に浴びせかけられた鬼達の連続音撃…
 うーん、あんまり無いなあ。

 『アギト』から始まる新生ライダー劇場版シリーズの中で、個人的に一番評価が低くなってしまった作品。
 テレビシリーズの方は まだ残された話数も多いので、これから、新スタッフなりにであっても、面白くしてくれる事を期待したい。


2005年9月6日 火曜日

『創聖のアクエリオン』23.「翼、儚く」

 裏切りがあり怒りがあり信頼があり、普通には面白い。
 でも…妙な言い方だけど、このアニメに期待していたのは こういった普通の盛り上がりでは「ない」ので、微妙な不満が出てしまう。

 堕天翅の羽を植え付けるのは、確かに誉められた行動ではあるまいが…
話し合いが全く通用しない、全滅する(堕天翅に全て刈り取られる)か全滅させるかの戦いの最中では、この際 綺麗事など言っていられない、というのも分かる。
 強攻型アクエリオンに搭載されていたダミー・パイロットスーツの中には、羽との同化に失敗し、悲惨な姿になった人間を入れておくぐらい、徹底して非道な様子を見せても良かったのでは。

 残りは3話?
どうまとめるのだろう?
 強攻型を否定的に描いている所からすると、力ずくで堕天翅を攻め滅ぼしハッピーエンド、とはしないだろうが。
 不動司令の無茶な一言と、アクエリオンのデタラメな力で、爆笑と感動の内にまとめる、という形が、ココまで見てきた視聴者が最も望んでいる終わり方ではないだろうか。



 映画『妖怪大戦争』を見る。
 監督・三池崇史、主演は神木隆之介

 面白かった!
ジュブナイルとして、とても充実した内容。
 ごく普通の、東京から田舎に越してきた男の子が、ふとした事から怪異に巻き込まれ、やがて大きな戦いの中心で行動する事になる。
その過程を、勇気と、冒険と、驚異と、爆笑と、恐怖と、感動で彩って見せてくれた。

 妖怪達に主人公の少年・タダシが脅かされる所は、「ホラー」とか「スプラッター」ではなく、日本伝来の「お化け屋敷」「肝試し」の怖さがあり、いい歳の人間には楽しいんだけど子供だと本気で怖いかも、と思わないでもない。
 それでも、『リング』や『呪怨』の なりふり構わない恐怖演出に比べれば、全然 穏やかな方だが。

 色々に、こちらの感情を揺さぶってくれる映画。
 特に、「色っぽい」描写が多かったのは、意外。
少年の手が触れる川姫の肌の ぬめり具合には、ドキドキ。
服装デザインも かなりえっち。
 化け猫や雪女も良いイメージだったので、もうちょっと活躍して欲しかったかな。

 タダシを演じる神木隆之介が、可愛らしく、演技力が達者であった事も、好印象。
日本映画は、この辺に問題を感じる事が少なくないから。

 ええと、以下はストーリーに触れてしまうので、未見の方は御注意。



 災厄を撒き散らしながら飛翔し、東京へと到る、把握しきれないぐらい巨大なヨモツモノ。
数知れぬ機怪によって、崩壊の危機を迎える人類社会。
異形の者達と共に、立ち向かう少年。
 …まさしく最終戦争の風景であり、ついこの前 映像化されたよりも遙かに『デビルマン』を感じさせてくれる。

 この映画で最も不満なのが、ここから始まる決戦の流れ。
 やっぱり、少年の力で勝利を収める展開が欲しかった所。
実際は…勝利の鍵は小豆洗い?いや、加藤の「豆?」には のけぞるぐらい笑ったんだけど。
 その後でも構わないから、悪を成す者への怒りと、妖怪達の力を一身に集め、少年の止めの一撃で決着…というのが収まりの良いパターン。

 ただ…この監督は、少年漫画的 正統派バトルの組み立てより、「ちょっとズレた決着」にしたがる傾向あり。
 最後まで祭りだと信じて、戦っている自覚がなかった妖怪達。
人間と共にある決戦の最中に、人への憎しみを語る川姫。
 …バトルで盛り上げたいなら、こんな構成は取らないだろう。

 戦いで、人は成長なんかしない。
 主人公の「闘志」の成長は、恐怖に挫けかかる自分を奮い立たせて、爺ちゃんを助けるために暗い山の中へと戻ろうとした、あの時に終わっていたのかも知れない。
友達の すねこすりを助けようとするのは、その流れの中にある行動。
 もう一つ、「大人」へと到る成長を遂げたのは、他者のためを思って「真っ白な嘘」をついた、あの時だろう(それを受ける宮迫の表情がまた、実にイイ)。
 加藤を刀で切り伏せて、何の成長も得られる訳ではない。
 …そういう事を訴えようとしているのか。

 加藤が持つ凄絶な悪意に対し、彼に憎しみの気持ちを抱くタダシでは勝てなかった。
妖怪達の呆れるような陽気さ・無邪気さだけが、悪意を押さえ込み、無力化する事を可能にしたのだ(自分は何にもしていないのに、戦いを総評してみせる水木大妖怪の言葉なんて、もうお手上げに無邪気)。
 タダシは、その二者が ぶつかり合う現場まで「付いて行った」「居合わせた」「大いに協力した」存在だという事なのかも。

 それにしても、川姫や川太郎との別れのシーンには、時間を取って欲しかったなあ。
そうすると宮迫のシーンに上手く繋がらない、って事は分かるけど。
 凄く寂しいエピローグは、必要だったのかどうか。
大人だと「ああ、やっぱりそうなるか」と思うシーンではあるが…ジュブナイルとしては、ここまで見せなくても…と思えてしまう。
何かを感じたようにタダシが振り返るとか、彼の子供が今度は…とか、救いを残す終わり方にいくらでも出来たろうに。
 いや、ここいらは「こうすべき」というのではなく、「好みの問題」と分かっているけど。

 不満も感じつつ、でも上映時間いっぱい、圧倒的に楽しく過ごさせてもらった。
こんなに多数の妖怪が、納得のいく姿で画面に登場する作品、というだけでも貴重では。
 ソフト化されたら見返してみたい、心に残る、好きな映画。


2005年9月5日 月曜日

『奥さまは魔法少女』10.

 もう最終回まで感想は書くまいと思ったんだけど…
 下宿人である若い男・巽を失いたくない嬉子は、ついに自分が「魔法少女」である事実を告げるのだった。
そして、ついでに元・夫にもそれを告白すべく、彼の家に箒で乗り付ける…
 待て待て!
説明するのなら、まずダンナの方から、ってのが道理じゃないの?
キス(及び肉体的接触?)を執拗に拒み、その理由となる自分の秘密を喋らないばっかりに、ダンナはフラストレーションを溜め込みまくり、別居に到ったんじゃないの?

 そもそも、嬉子が巽のドコに惹かれたのか、さっぱり分からないんだけど…
出逢ってイキナリ若い男相手に発情したとしか。
 そこを飛ばして、何故か分からないけど とにかく好きなんだろう、と理解したとしても、ダンナとだって好きだから結婚したんじゃないのか?
傷つけた自覚があるなら、復縁はもう双方望まないとしても、ダンナの方から先に話して謝るのが道筋。
 実際の作品からは、嬉子が「若い男をキープ出来たから、もう古いダンナは完全に切り捨ててイイや」と考えたようにさえ見えてしまう。

 …確かに、人間って時にこれぐらいは愚かで、自分勝手で、打算的で、他者の気持ちなんて知った事じゃないモノではあるけど…
それをアニメで、しかもヒロインとして見せられても、深い理解に基づいて許した上、等身大のキャラクターに好感を持つ、なんて不可能。
 作中でも、彼女の放蕩さを批判的に見ているのはダンナぐらいなもの。
それがもしも次回、嬉子を許すような事があれば、この作品の常識が完全に歪んでしまう。
 いや…でも嫁さんから、「あなたより若くて理解がある素敵な恋人が出来たから、離婚届にハンコ押して頂戴」などとぬけぬけ言われたら、男としては「勝手にしろ」ぐらいしか言える言葉、無いなあ。

 いっそ嬉子を、ワガママ勝手なヒロインとして確定し、街を取り上げようとする魔法評議会に対しブチ切れ、魔法界に乗り込んでジジイ共をボコボコに殴り倒す事で我を通すような、超絶アクティブ・キャラクターに変更。
多分、巽もダンナと同じように、すぐ飽きられ捨てられるんだろうな…と思わせてくれるぐらい徹底すれば、それはそれで面白くなるかも知れないんだけど。
 嬉子をあくまで「可憐なヒロイン」然として扱おうとしている所に、無理がある。

 などと、見ている側の感情に波風を起こさせるのが、作り手の狙い?
次回、ダンナと現在のような関係に到った理由説明を、もの凄いアクロバットでこなす事により、嬉子への好感度を復旧できる見通しが立っているとか?
 …それがどんなモノか想像も付かないけど、取りあえず次回を楽しみに待ちたい。


2005年9月4日 日曜日

『ゾイド ジェネシス』22.「誓い」

 ミィは お姫様だった。
ラ・カンと並び、高貴な生まれだったんだなあ。
 丸焼きしかできない生活能力の低さは、そういった事一切をお付きの者に任していたがためか(いや、幼い頃に旅立っているから、それ以降の…ラ・カンの過保護が原因?)。
 姫様らしく着飾ったミィは可愛らしく、決意を述べるラ・カンは力強い。
ここが、歴史の転換点になるのだろう。

 世界地図に驚かないルージは、自身の認識能力とスケールの大きさを証明したのだと考えても…
世界じゃなく大陸の地図だ、と呟いて、その外にまだ広い「世界」が広がっている事を知っていそうなロンは、ナニモノ?
 前から隠し事がありげなキャラだったが…裏切り者、って訳じゃないと思うんだけど。
もっと進んだ文明を持つ大陸外の世界から来た?
外宇宙人とか、「ディガルド大戦」という歴史を目撃に訪れた未来人とか(収拾がつかなくなりそうだな)。



『仮面ライダー響鬼』30.「鍛える予感」

 脚本が井上 敏樹に代わって一回目。
…という前知識が無くても、本編を見れば雰囲気がガラッと変わってしまった事に、嫌でも気付くだろう。
 雰囲気の良さとキャラクター描写の細かさが大きな魅力だった この作品で、そこを変えてしまうのは大きな冒険。

 う〜ん、まだ何かを語り始めようとする準備段階であり、新しく出て来たキャラクターの基本設定を説明するだけで手一杯だった印象もあって、良い悪いの判断は出来ない。
これからずっと井上脚本なのか、この転校生キャラが片付くまでの間 担当するだけなのか、それさえ分からない訳で(プロデューサーまで交代しているそうで、もう元のスタッフに戻る事はなさそう)。
 ただ…違和感は凄いな。

 これまで通りの進行速度なら、今回は「転校生の予感」とかいうタイトルになり、新キャラが画面に登場した辺りで終わっていたかも。
 嫌味なスーパー転校生…かと思えば、ママに弱かったり運動が苦手だったりと、情けない弱味まで一気に晒す慌ただしさ。
もうちょっと変化には時間を掛けてもいいような……
 ところで、漫研で描いていた絵は、下手というのは気の毒だけど、感心される程でもなく、微妙、ってレベルだと思うぞ( ^_^ )。



『交響詩篇エウレカセブン』20.「サブスタンス アビューズ」

 意図的にホランドを、「気に入らない事があると理由も説明せずレントンを殴る馬鹿」に描こうとしているのは分かるんだけど、その理由がよく分からないなあ。
 「悪役」と分類されている訳でもない年長者が、年少者に対し、無理解で高圧的で暴力的に振る舞う、というのは、見ている人間にとりストレスにしかならない、と、いくら何でもスタッフ、分かっていると思うが。

 今回引き受けた仕事の目的は、実はエウレカを治すためだった、と聞かされたレントンは、自分は何も分かっていないガキだったと知る…
って、一切説明を受けていないのに、分かるはずがない。
 ここは、視聴者も一緒に「自分たちもホランドを誤解していたみたいだ」という気持ちになってもらわないと、困る所では?
でも、とにかくコレまでの説明不足が祟っており…「エウレカは普通の病院では治せない」「宗教的な力?なら治せる」等の情報を伏せたままにしておいて、唐突に「言い訳」のように示されても、気持ちを入れられようはずもなく。
 そういう感情の流れを飛ばして、突然に自虐的な程の反省(開き直り?八つ当たり?)を始めるレントンからも、感情移入を拒まれてしまう。

 ニルヴァーシュと、一機のLFOを除き、他の機体はバッテリー充電中?
ロクに使ってもいない機体を、どうして一度に充電するのか?
 ホランドを一人で出し、危機的状況に陥らせたいから、に決まっているけど、余りにも作為が見えて…

 ホランドを救いに現れ、敵LFOをバカバカやっつけたレントンは、その乗員の死体を見てショックを受ける。
 うーん、どこから突っ込めば良いものか。
 これまでも自分が、敵パイロットを殺してきている事に気が付いていたのかどうか、レントン。
単に「機体の爆発に紛れず、死体を直接見てしまった」から気分が悪くなった?
いつも肉を食べている我々でも、屠殺の現場を見ると無感情ではいられないように?
 しかし…あんまり言いたくないんだけど、どう見ても『エヴァンゲリオン』なカット、シーンが連続した。
ちょっといじれば、印象を変える事は そう難しくないだろうに…意図的?

 血の糸を引いてニルヴァーシュの足裏から落ちる千切れた人体の描写は、ストーリーに全く乗れていないせいもあり、ひたすら悪趣味なだけで楽しくない。
 「ショッキングなシーン」を、しかも放送時間が朝だと分かっていながら見せるには、物語の流れや必然性、演出にも最大限の配慮が必要。
今回の見せ方が、そういった条件を満たせていたかどうか…疑問。

 これで もう20話か…ドラマやキャラクターの関係、いや世界観の説明に限っても、ここまでで どれだけ進められたのだろう?



『D.C.S.S.〜ダ・カーポ セカンドシーズン〜』10.「入部します!」

 冒頭、学校の食堂シーンで、何気なく純一、音夢と一緒に昼食を食べている ことりに驚く。
…突然帰ってきた音夢に純一を奪回された事に対し、もう、何の引っ掛かりも無いんだ?
 こういう展開が決まっていたのなら、ことりを「純一に対して全く恋愛感情を持っていないまま、世話好き母性本能だけで世話を焼いていたキャラ」にしておいた方が良かったろう。

 おバカさんな話として、今回の内容は別に問題なく見られるモノだったが…
どうも、主役級キャラクター達に「心が無い」ように思えてしまい、入り込めない。
 音夢が帰ってくるまでは、割に楽しく見られていたのに。
製作者は、こういうキャラの捉え方・描き方で構わないと考えているのだろうか?
 何か大きな変化があるまで、取りあえず感想はここまでに。


2005年9月3日 土曜日

 WOWOWで放送された映画『マッチスティックメン』を見る。
 リドリー・スコット監督。ニコラス・ケイジ主演。

 仕掛けのある詐欺映画だという前知識ありで見て…
んー、確かに仕掛けはあるけど、予想されるいくつかのパターンの一つであり、しかも あんまり観客に対しフェアな騙し方ではないので、すっきりしない。
 見終わってみれば、アレもコレも伏線だったのか、と思うが。

 病的なケイジ演じるキャラクターと、その娘の関係は、文句なく楽しかった。
娘と二人でセコい詐欺を働く所は、『ペーパー・ムーン』を思わせる微笑ましさ。
 うーん、どう書いてもネタバレになってしまうので感想が難しいけど、とにかくトリックより この親子の関係を優先して見ていく限りは、悪くない、結構 胸にジンと来る所のある映画だと思える。



『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』46.「真実の歌」

 ミーア、退場。
その最後に、オリジナル・ラクスと対面させ、鬱屈を語らせ、僅かな和解を示す「見せ場」を用意して上げたのは、愛情…なのだろうと思う。
 しかし、これはいくら何でも…
ミーアを殺すために色々な無理を積み重ねすぎていて、乗り切れない。

 危険だと分かり切っている月面都市に堂々と寄港、のみならず街中へとフラフラ物見遊山で出掛けまでするラクス一行、間が抜けすぎていて唖然。
都市にはシャトルなど小型機に乗り換えて向かう、ラクスらは もう少しぐらい変装しようという意志を見せる、その程度の周到さが無いと、アホやなあ としか思えず。
 どう見ても罠、と分かっていながら、さしたる対策もなく呼び出された場所に向かうのにも、呆然。
ラクス、キラ、アスラン…この三人を始末すれば、もうザフトに対抗しうる勢力は存在しなくなる訳で、少々の損害など気にせず、スタジアム?ごとミサイルで吹き飛ばしても良かったはず。
 幸いにも、スナイパー達が腰が抜けるぐらい無能であってくれたから無傷で済んだけれども……いや、この世界では、オーブに居た時のキラ達を襲った様子からも分かる通り、「暗殺」って「アホが無計画に行う99%成功しない行い『でなければならない』」とルールが決まっているのかも。

 しかし、あそこまで罠だと見え見えの誘いで、アホな男共はまだしも、ラクスまでおびき出せると考えたのか、暗殺者達。
経緯はともあれ、実際に指定の場所まで来させたのだから、結果から言うと的確な作戦だったのだろうが。
 もっと知能を使って…「来ないと、ミーアのヌードを撮影し、ラクスヌードだとして世界中にばらまくぞ」と脅すとか(笑)。
ラクスの方からすれば、それが自分でなく偽物のヌードだと断定する証拠は、「偽物はオリジナルより遙かに巨乳」という点しかない訳で、そんな事はプライドに賭けても公言出来ないラクスが、にこやかな笑顔の裏に隠しきれず殺意を滲ませて乗り込んできても、おかしくないかと( ^_^ )。

 シティー・ハンター並みの超戦闘能力を発揮するアスランとキラ。
メイリンも意外に凄腕?
 強すぎて、馬鹿馬鹿しくて、割り切れば楽しくさえあったけども。

 ラクスを庇って命を落とすミーア。
この展開では、こうするしかなかろうが…
 そもそもラクスらが月に来なければ、あるいは呼び出しになど応じなければ、ミーアは、いずれ利用価値が出てくるかもと思われる間だけは生きていられたんじゃないか、と思うと…
 暗殺を指揮した女が、今回冒頭、ミーアに さりげなく何度もお茶を勧める、ようやく彼女がカップに口を付けようとした時、アークエンジェルの寄港が知らされ、その瞬間ミーアの手からカップが奪い去られ、「冷めてしまいましたね、入れ直してきましょう」と言われる…どうやら、寄港がなければそのまま毒殺されていたらしい、と見せるなどして、ラクスらの「罪」を取り去る周到さが欲しかった所。

 え!? もしかして次回はミーア中心の総集編?
あと残り話数どれだけ?
そんな事しているストーリー的な余裕はあるの?
 議長を「悪」と断罪できる材料はまだ、酷く少ないと思うんだけど。
 まさか、色々役だってくれたミーアを使い捨てにした、その事実をもって議長最大の悪事とし、倒すべき理由にする…って事は無い…よね?
 そそのかされて、が切っ掛けだったとしても、ミーアは後に納得して、自ら進んでラクスの偽物を務めていた訳で、いずれにせよ物語的に断罪されない訳には いかない役所。

 う〜ん、先が読めないなあ。
よっぽどアホな行動を取らせない限り、この先数話で議長を「敵」に設定するのは難しいと思うが。
 議長との決着は、次のシリーズに持ち越し?



『ウルトラマンマックス』10.「少年DASH」

 DASH基地を見学に訪れる少年達。
歓迎し、ほとんど何も隠すことなく見せてしまう隊員。
 見ている子供達は「自分も行きたい」と感じるだろう、サービス話。
こういうのが『ウルトラ』に求められている要素なんだろう、とは思いつつ、それと真逆の事をやろうとして玉砕した『ネクサス』を、何だか懐かしく思い出してみたり。

 空間を歪めてテレポートを続ける怪獣、その出現地点を予測する事が出来る少年。
ドラマ仕立ては なかなか面白い。
 少年が予測する方法は、多分 不思議なテレパシーで…とか何とか非科学的に逃げるんだろう、と思えば、携帯画面の乱れで分かる、と意外にも考えられたものだった。
…DASHの計器は電磁波(極超短波)をシールドしているから乱れが分からなかった…じゃなくて、そのシールドは「電磁波によりランダムに計器が乱されるのを防いだ上で、異質な電磁波の発生と、その方向を正確に割り出す」ためのモノでは?
 いや、考えた跡がある、というだけで十分だとは思っているけど。

 少年を説得するコバ隊員の情熱、怪獣を倒すまでの流れも、悪くない。
 …マックスを舌で捉えて自らテレポートを止めてしまう怪獣、ってシーンだけは要らなかったような…その隙を突いて攻撃すれば良い、と思われてしまうので。
飛び回りながらチクチク攻撃し続けて欲しかった。

 実は、少年の携帯の待ち受け画面には、以前からコバ隊員の写真が使われていた。
彼は、DASHに入ったらガンナーになりたいと考えて・コバに憧れていたのだ…とする終わらせ方もあったかな…そういうのは くどいか( ^_^ )。
 今回は、黒田 洋介脚本。
「子供向け」に徹するシナリオも、上手いもんだなあ。


2005年9月2日 金曜日

 レンタルで映画『ローレライ』を見る。
 『ガメラ』シリーズの見事な特撮で知られる、樋口 真嗣監督作品。

 不満点、いろいろ。
 潜水艦の乗員が寄せ集めだとする設定は、ほとんどセリフのみで語られ、それが故に生じると予想される不都合と、危機を乗り越え一体になっていく気持ち良さ、というようなモノが無い(後半の大事件への伏線とする意味のみ)。
 ローレライ・システムの中核となる少女。
彼女を乗船させている事で起きそうな、乗員達との摩擦や葛藤、和解、艦長の苦悩、その辺も弱い。
 後半の大事件である船内異変も、伏線の弱さと、その原因がセリフだけで語られるため、無理を感じてしまう。
 唐突に、しかもさしたる意味無く出てくる「語り部」…
こういう不統一な視点の提示は、余り誉められないと思うのだが…

 言えば、どれも「深刻な問題点」という訳ではない。
そのそれぞれを軽めに扱い、サッと通り過ぎる事で、「イベントの一つ」と見過ごしにさせる事は出来るし、実際 出来ている。
 しかし、そのために物語全体の印象まで軽くなり、戦争末期の世界状況、キャラクター達の背負った重み、最後に下す決断の説得力、どれも「ライトな冒険アクション物」と感じられてしまう。

 ローレライ・システムの無敵ぶりは愉快だし、大艦隊を相手に大立ち回りを演じるクライマックスは、十分に盛り上げられていると思う。
 ピエール瀧、凄い儲け役だなあ。
映画の美味しい所を かなり持って行ってる。
 熱い男達の生き様や、ダークに終わらせないエピローグは、決して悪くない。

 期待された特撮に、アラが目立ったのは残念。
特に人間との合成が良くない。
 CGの出来も、膨大な予算をつぎ込めるハリウッド作品と比べてはいけないのだろうと思うけれども、そこそこ お金が掛かったゲーム・ムービー並み。
 ただ、レイアウトのセンスやカットの割り方には、感心させられる所が多かった。



『苺ましまろ』05.「そいね」06.「真夏日」

 佐藤 竜雄と神戸 守がコンテを担当した回を、連続で見られるシアワセ。
 5話、先週 一応見てはいたけど、もう一度見返す事により、アナの苗字がまだバレていないという話を登校時に聞いた美羽が、意味ありげな笑いを浮かべている、というような所から後の悲劇への伏線が始まっている事に、ようやく気付いてみたり。
 しかし、狙って打ち上げてアナ達の教室の窓ガラスを割るとは、恐るべきバッティング・センス。
野球の才能、というより、「故意か偶然か分からない形で悪さをする能力」だけが有り余っている、と捉えるべきか。

 嫉妬心から泣き出してしまう美羽。
トボけているこの作品にしては、戸惑うぐらいリアルな、子供らしい反応。
 こーして見ると美羽も可愛いなあ。いや、元々造形は可愛いんだが。

 6話。
 「暑い、何事もない だらけた一日」だけで30分、楽しく見せきるとは…キャラクターそれぞれが持つ魅力への深い理解が無ければ、とても無理な芸当。
 自販機で買った飲料の缶を うっかり落とした所 坂道の下まで転がって行った……なんてシーン、ナニガシかドラマを描こうとする作品なら「時間を浪費しているだけ」の意味しかないんだけど、そういう無意味さを丁寧に積み上げていく事で逆に「意義」に換える、超絶アクロバットを見せてくれた。
お子様は決してマネをしないように〜5分ぐらいでみんなチャンネル変えちゃうよ。

 数多い無意味な行為に隠れて行っていた、「あたし火照っちゃう〜」声出し大会が、オチで強烈に意味を持ってくるのには意表を突かれ、大笑い。
上手い!


2005年9月1日 木曜日

『タイドライン・ブルー』07.「祈りの都市」

 ジョゼがキールとの掛け合いで情けないサマを晒す事により、すっかり お笑いキャラ化。
 笑いの中に埋もれさせる事で、艦にとり邪魔者でしかないキールを、ジョゼがどうして懸命に連れ戻そうとしたのか、といった、キャラクター掘り下げの足りなさから来る疑問を かなり誤魔化せるので、こういう展開は有効。

 もう、細かい事は忘れて見る事にしようかな…と思う間もなく、最初の島でキールの仲間だった少年の死が告げられる。
しかも その死の原因は、100%潜水艦の…ジョゼの責任でもある。
だから、こういうややこしい事を、忘れようとしてたのに……
 キール、その辺りの経緯には、どう心中で折り合いを付けているのだろう?
仲間ったって利益で結びついていただけの関係だから、死んだ事に対して特に思う事はない。
そんな奴よりイスラが現在乗っている艦との関係が大事…というなら それはそれで構わないけど、ボロボロ涙をこぼすし。
 仲間の死を、自分たちを見捨てて特権を利用し逃げた(と思い込んでいる)キールへの逆恨みで昇華しようとした女の子は、その涙を見て信じられない程アッサリ心変わりし、わだかまり すっかり解消。
 …どうも、ストーリーの都合によってキャラクターが、心を持たないように無感動になったり、感情的な行動を取ったりする、その振幅が極端すぎて入り込めない。

 潜水艦が行った、民間人まで平然と巻き込むミサイル・テロ。
その責任を、劇中できちんと問う気があるのか、「艦長も副長も いい人に描いてるんだから、もうそんな細かい事 忘れてよ」としたいのか、それだけでもハッキリさせてくれないだろうか。



 レンタルで映画『パッチギ!』を見る。
 監督・井筒和幸。

 非常に高く評価されている事で、期待しすぎた面もあるかも知れないが…余り面白く感じられなかった。
監督の前作『ゲロッパ!』は、割と楽しく見られたんだけど。
 そもそも、「ケンカまみれ無軌道ヤンキー映画」が嫌いだからなあ。
なのにこの映画を見てしまった、というのは、血が出るのが嫌いなのにスプラッター映画を見たり、ウダウダした男女関係を苦手としながら恋愛映画を見るようなもので、うっかり見た お前が悪い、と言われて仕方ない。

 以下、ちょっとネタバレ。


 それにしても、ロクでもない人生を送っている兄ちゃんの一人が、割とギャグっぽい事故で死んでくれたって…それが何か?としか感じられず。
 このイベントを切っ掛けにして、在日の人々の溜め込んだ怒りが主人公にぶつけられるんだけど…
死んだ兄ちゃんは、「ヤンキー」としてのメンツを賭けた派手なケンカをしていた訳で、こういう事も覚悟してなきゃイカンのでは?
しかも その直接的死因はケンカじゃなく、交通事故。
 だから、葬儀の席で日本人に向けられる怒りの言葉は、物語の必然性があって生じたもの、というより、監督が語りたいテーマだったからキャラクターにセリフの形で語らせたのだろうとしか思えず、乗れない。
 …「お前があの子達のケンカを早く止めてくれてれば死なないで済んだ!」というぐらい、行き場のない怒りと悲しみを八つ当たり的に主人公にぶつけた、と理解すべき?

 辛い経緯があったからって、その息子の世代が誰彼構わずケンカを売り、平穏に生きる人達に迷惑を掛けた事実は、正当化されない。
 「日本人への怒り」を強く訴えたいんだったら、ヤンキーが関わる物語を排除して、歴史ドキュメンタリーの形で撮る方が効果的だったのでは?

 女の子は可愛かったし、笑えるギャグも あるにはあった。
飄々としたオダギリジョーが愉快。
 物語のメインである恋愛は…
男女がきちんと付き合うには、まず互いに対等な立場に立つ(立とうとする)事、じゃないのかなあ?
女性側に男が一生懸命 合わせようとし、媚びているのは、対等な関係と言えるのかどうか。
 まあ、やむにやまれぬ性衝動に突き動かされるまま、土下座でも何でもするからボクと付き合って下さい!というのが、あの年頃のオトコノコではあろうけども。


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