ときどき日記 2008/09

2008年9月30日 火曜日

『ワールド・デストラクション 〜世界撲滅の六人〜』最終13話.「未来には二通りある」

 デストラクト・コードの本体は、キリエだった。
…という衝撃の真実が明らかになる話だったけど、うーん、一応 伏線もあったし、まるで納得できない訳ではないにせよ唐突に思え、「そう言われてもなあ」感が強い。
 世界のリセットスイッチとなったキリエと、これまでの のほほんとしたキリエは、発動を迎えてどのような同居具合だったのか。
 コードが発動しかけたぐらいで慌てて止めてしまうモルテの、不徹底さ。
旅を通して見てきた世界の光景と、キリエへの気持ちが そうさせたのだろう、とは思うけど。
 そもそも、「誰か一人が強く願ったら世界まるごと やり直しにしちゃえ」と考える「神様」は、乱暴というかデタラメに過ぎないか。

 不思議や不満はあるけど…
このアニメにデストラクト・コードが占める割合は、実際の所、余り大きくなかったと思える。
 キリエとモルテとクマが見せるドタバタの珍道中こそが楽しかったのだし、もっと先まで見たかった要因で、「コードの正体に迫る」話には、さほど興味を持てず。
作り手側も、これについては「旅を続けさせ、ストーリーをまとめる小道具(原作ゲームへの義理?)」という以上には、重要視していなかったかと。
 コードの存在を消去し、獣人の圧政に苦しむ人々を救うべく(あるいは成り行きで指名手配されたため逃避行の)旅を続けるデコボコ三人組の お話として語っても、このぐらいな内容の物は出来るだろう。

 キャラクターとしては、取りわけ、クマのくせにクマと呼ばれるのを嫌がり、可愛いが凶悪な戦闘力を持ち、古谷 徹の声で喋る、アンバランスな魅力に満ちたトッピーの造形が、素晴らしく良かった。
 重い過去を抱える無敵戦闘娘・モルテも、大抵は役に立たないキリエも、それなりに上手く描けていたと思う。
 世界救済委員会の二人組は、もっと魅力を付加できたろうと思えて、残念。
リ・アなんか人気取れそうなキャラなのに。

 物足りなさまで含め、B級作品の味わいがある、気負わず楽に見られるアニメだった。



 WOWOWで放送された映画『ソウ4』を見る。
 監督は、シリーズの『2』以降を手掛けているダーレン・リン・バウズマン。
 リー・ワネルが脚本から離れたからなのかどうなのか、ザンコクというよりグロ・悪趣味な所ばかりやたらパワーアップした、サスペンス・ホラー・シリーズ最新作。

 ここまでの作品は全部見ており、痛い描写や気持ちの悪いシーンに「うわっ」となった事はあるけど、それはストーリー上の必要が(いくらかは)あったからで、さすがに今作冒頭のような、ただ単に死体を切り刻むだけで面白くもないグロシーンを延々と見せた事は無かったような。
 衝撃的な描写とストーリーにより、これまでのホラーと一線を画した一作目は素晴らしかったけれど、もう物語としてのショッキングさを維持するアイディアもパワーも無くなっており、痛々しい画面だけで何とか もたせようという必死さを強く感じてしまう。

 とはいえ、手足をスパスパーッと気持ち良く切り落としていく悪辣な仕掛けとか、『3』と絡めて意外性を演出しようという工夫(そのため、この映画単体で見ても意味が分からない)など、そこいらのダメホラーに比べればまだまだ頑張っており、見ていられないレベルに落ちた訳ではないが…
 『3』で終わった方が、形としてはキレイだったろう。
 …と文句を言いつつ、今年暮れ公開となる『5』も、レンタルか放送待ちでは見てしまうんだろうな。


2008年9月29日 月曜日

『鉄腕バーディーDECODE』12.「DOOMS DAY」最終13話.「Stand by Me」

 12話。
 リュンカの発動により、東京を大惨事が襲う。
 最終話を控えた物語の盛り上げ方が素晴らしく上手く、驚くぐらい呆気なく塊となり崩れて死んでしまう(本人も自分がどうなったのか気付かないままの最期だったろう)シャマランから始まり、あるべき所に人の姿がなくカラッポの服だけが残る、街の異様な姿を見せて「恐ろしい事態が進行中」と感じさせる演出に、トリハダ。
 そこに、連邦の超兵器による攻撃が。
敵のバリヤーで弾かれたとはいえ、まだ無事だった人々が その爆発に巻き込まれて命を落とし、しかし連邦はそれら被害を気にする様子などなく、より強力で人類にとっては致命的な次の一撃の発射を決定する。
 この辺りもゾワゾワする恐ろしさで破滅のカタルシスに満ち、魂をグワッと掴まれてしまう。

 既に亡いシャマランの「神」を気取るような放送と、並行して描かれるカタストロフ。
 残った最後の希望・バーディーと、小夜香を助けようと走り出す つとむ。
 とにかく見る側の気持ちを高揚させてくれる上手い演出が連続し、平均してレベルが高いこのアニメの中でも屈指の名エピソードだなあ、と思えば、絵コンテは『カウボーイビバップ』の渡辺信一郎。
ああ、納得。

 最終話。
 小夜香を救う ただ一つの方法。
リュンカを自分の中に受け入れる…それを躊躇いなく実行する つとむ。
 楽しい思い出のデートで、初めて交わしたキスと重なるシーンの作り方に、またトリハダ。
 無敵の力を持たない、「人間」である自分の勇気と愛情を力に換え、行動する つとむの姿に、バーディーと彼を別れさせた意味を強く感じる。
 バーディーの一撃による つとむの悲惨な死と、共生による復活。
最初の切っ掛けとなった事件を繰り返す、納得の展開。
 実に、巧い。

 このアニメは、つとむと小夜香、二人による小さな恋の誕生から悲劇の幕切れまでを描くもの…と思ってきたけれど、意外にもコミカルに、ちょっと切なくも心救われるエンディングを迎えた。
それはそれで、素晴らしく、良し。
 リュンカが存在しなければ、そもそも無かったはずの恋。
つとむは、リュンカに感謝すべきか、呪うべきか。

 リュンカを受け入れる際見せた、つとむ一世一代の告白には、もうちょっと軽いアニメなら異形生物といえど心動かされていたかも。
 バーディーと共生する つとむと、リュンカと共にある小夜香。
このままで、良いカップルになれた可能性があるんだけど。
「リュンカも小夜香も争って表面に昇ってこようとし、つとむを奪い合う」
「バーディーは、まだリュンカを危険視して警戒」
「つとむ=バーディーの危機には、リュンカが『私のカレに何するのよ!』と戦闘参入」
…って感じの「萌え」度合いが強いアニメにも出来たのでは。
 それで面白いかどうかはともかく。

 本当は、つとむを好きだったのは小夜香でなく、最初からリュンカ(その一部?)だったのかも。
つとむのような「二人が一つの体に共生型」じゃなくて、彼女が『ウルトラマン』ハヤタのような形なら(いや、ハヤタは記憶を失わされただけか)。
 破壊を望んだリュンカだが、初めて自分を受け容れてくれると言ったつとむに惹かれ、危険は分かりつつも彼の方に移っていった…と考えると、もう一つ悲劇の物語があったような…いや、大分 強引な解釈(^_^;)。

 「リュンカ事件」は終わったけれど、まだ地球の脅威は去った訳でなく、バーディーも残ったのだから、当然 続編が考えられる終わり方だと思う。
 唯一引っ掛かるのは、「バーディーがアイドルをやっているという設定は余り意味がなかったなあ」ぐらいの、面白い作品だったので、同じスタッフが手掛けてくれるのなら、この続きを是非 見てみたい。


2008年9月28日 日曜日

『コードギアス 反逆のルルーシュR2』最終25話.「Re;」

 この物語を終わらすのには、いくつもパターンが考えられたと思うけど、その中で、最も良い・見る者が納得できる終わり方ではなかったろうか。
 スザクが爆死したと見えても、例えばカレンやC.C.が本編中で死んだとしても、そこで作品が終わるという気はまるでしないけれど、ルルーシュの命が失われた途端、「この後はもうエピローグだ」と感じられたのは、やはりこのアニメが彼の生き様を描く事をこそ、テーマにしていたから。

 ルルーシュは、頭が良いようで抜けていて、冷血だが情に脆く、目的のためなら手段を選ばない部分を持ちつつ常に迷い続ける、大きさと小ささと、嫌われても仕方ない汚さと憎めない愛嬌を併せ持つ、矛盾に満ちたキャラ。
 この作品は、そういう彼の人生を描いたものなので、「他のキャラの扱いがナイガシロ」とか「結構 描き残した部分がないか?」とか言っても仕方ない…んだろう。

 ルルーシュが死んで平和が来るのか、という所など、凄く疑問。
 生きて善政を敷き、世界を自ら良い方向に導けばいいのに。
悪逆非道な独裁者として人々の憎しみを集めるにしても、もっと長く(そこそこ長い?)その地位に就いてムチャしないと、市民から平和を強く求める気持ちが出てこないような。
 父皇帝のようになりたくなかったのだろうし、長期に渡り意図的に最悪の存在としてあり続けるのも、それはそれで大変だろうけど。

 のうのうとルルーシュが生き残ってしまうラストも見てみたかった気はするが、本当にやったら さすがに非難ゴウゴウだろうな。
 生存を許される分岐点など とうの昔に越えており、物語のオトシマエをつけるには、命をもってする他にない。
 出来る事はやり終えて、未来を託すスザクの心をギアスを使わずに縛り・彼も進んでそれを受け、妹が望む世界を確保する。
実に綺麗な幕切れだったと思う。
 兄の本心を知ったナナリーの、歪む表情と、魂を振り絞るような号泣の演技が素晴らしく、ちょっとホロリ。

 ちゃっかり生き残りヨメと子供まで得た上、日本代表みたいな顔をしている(事実?)扇が可笑しい。
 アーニャとオレンジ農園を営むジェレミア…こんな幸せそうな「その後」が見られるキャラだとは思わなかった。
 シュナイゼルはどうしたんだろ。
ギアスは、かけた主の命が消えても有効?
父皇帝が消えてもナナリーの目が開かれなかった事からすると、一度かけたギアスは解除されるまでずっと機能し続けるのかな。

 不平も不満も不可解もあるけど、見終えた気分は不思議と爽やか。
ルルーシュが遂げたのが、「志半ばでの無念な死」ではなかったから。
 彼が満足して死んだなら、それで全て良かろう、と思える、そのぐらいルルーシュが中心の作品だったんだなあ。

 苦しい部分もありつつ、常に次回を楽しみに待たせてくれる、パワーに満ちたアニメだった。
「この先」はもう無いのが、寂しい。
 いや、劇場版という話も?



 WOWOWで放送された映画『アレックス・ライダー』を見る。
 監督は知らない人、主演も無名の新人。
 少年が主人公になった、ジュブナイル版『007』。
『スパイキッズ』よりは、秘密情報部員っぽいかな。

 『007』を終始強く意識して作ってあり、主人公の叔父役で出てくるユアン・マクレガーが秘密兵器を駆使したアクションを見せる場面など、そのまま。
彼は本家のジェームズ・ボンド役にもノミネートされており、イメージの固定を嫌って断った、とか聞いたけど、コレには出て良いんだ。
 短い時間で、ポンポンと話が進んでいくので、退屈せず最後まで見られる。
 アクションの撮り方には凝った部分もあり、特に主人公がロープを使って見事な戦闘術を見せるシーンなど、面白い。
 全く表情を変えない神経質そうな上司とか、少年と一緒に暮らす美人の家政婦さんなど、脇のキャラも…ちょっとしか描かれないけれど、楽しい。

 以下、内容に触れる部分があるので、未見の方は御注意。

 ジュブナイルだから多少子供っぽいのは構わないと思うけど、さすがに悪のボスが犯行を企てる大元の動機が「遙か昔イジメられたのを数十年経っても根に持っていて仕返し」というのは、どうだろ(社会的問題に重ねてはいるが)。
いや、『007』だってそういう部分はないでもないんだけど、もうちょっと ぼやかした方が…
 恐るべき犯罪計画にしても、ショッカーの「少しは費やす時間とか費用対効果を考えたらどう?」作戦みたいなもので、余りにも非効率・非現実的。
これもまあ、本家にもある要素か。

 主人公の少年が、普通の生活からスパイになる際、驚くぐらいキッパリ割り切ってしまうのに違和感。
これなら、別に本職のスパイを主人公に据えても問題なく。
 躊躇い・恐怖・学校生活との板挟み・それらを抑えて湧き上がる敵への怒り、そういった部分を描かないのは、勿体ない。
 ラストも、続編を考えているのだろうが、自身の手で全てを解決した訳でなく少々引っ掛かる終わり方。

 全体に、悪くはない、でも劇場に足を運ぶほどの映画ではなく、テレビで放送されたら見る、ぐらいで丁度良い内容。


2008年9月27日 土曜日

『マクロスFRONTIER』最終25話.「アナタノオト」

 物足りない部分はアリ。
 アルトが生きていたのは、まあ殺す訳もないのだし良いとして(それならミハエルも生きていて構わなかったろう)。
 大事件として引いてきたはずの大統領暗殺犯・レオンの始末が、酷くアッサリ。
現大統領(代理?)であり、しかも敗色の濃い戦闘の只中という極限状態にあるのに、クオーターからの言葉を受け、彼に銃口を突きつけたり出来るものだろうか。

 バジュラの事を、以前は「グレイス(含む科学者達)により作られた人工生命」だと考えていたけど、自然発生した「そういう生き物」なのね。
 集合体としてある彼らはともかく、多大な被害を受けた人類側は、彼らを受け入れられるのだろうか。
…かつて人類を絶滅寸前まで追い込んだゼントラーディーとでも上手くやっていく、適応能力の高い「プロトカルチャー」であれば、大丈夫なのかな。

 ??と思わされる部分はありつつ…
しかし、オリジナル『マクロス』劇場版に匹敵する、音楽と映像が融合して生み出す圧倒的な迫力と高揚感、音と動きで単なるストーリー以上の物を伝える「アニメーション」ならではのパワーが炸裂する後半の展開に、グウの音も出ないぐらい心揺さぶられてしまう。
 戦闘ミュージカルとでもいう圧巻のバトルを披露したのは、まずオリジナル『マクロス』だが、今でもそのトップを走るのはこのシリーズなのだと、知らしめてくれる。
 音楽の力で戦いの趨勢さえ変えてしまうのが この作品だけれど、そのパワーは見る者の心にまで届き、歌エネルギーの奔流に押し流される内、何だかもう細かい事なんかどうでも良くなって、シリーズ全体の印象が「傑作」方向に大きく押し上げられてしまう。

 ダイダロス…じゃないマクロス・アタックが見られたのは、懐かしくて嬉しい。
 この最終話は特に劇場版『マクロス』を下敷きにしている事が強く感じられ、オールドファンは単純に喜ぶばかり。

 飛び飛びで何話か見ていたけれど、後半はほとんど見ていないヨメが、「あの三角関係はどうなったの?男の子は誰を選んだ?」と聞いてきたので、「いや、ランカかなーと思うけどハッキリとは選ばず終わった」と答えると、「えー、こんなに話数かけて、それも決められなかったの?」。
 この作品は、それぞれ何かしら問題…素直に相手と心を通じ合わせられない理由を抱えた三人が、それを解決し(気持ちの上で乗り越えただけ?)、本当のスタートラインに着くまで、を描く話だったのかな。
 バジュラと共にある関係も始まったばかりだし、本当にまだ「これから」。

 新しいモノを見せつつ、旧来のファンに「これこそマクロス」と感じさせてくれる、気合いの入った面白い作品だった。
 劇場版、やるんだ。
オリジナルの劇場版のように、基本的にはテレビシリーズをなぞるのか、この後を描く内容なのか。
 良いものが出来ると、いいなあ。


2008年9月26日 金曜日

『ひだまりスケッチ×365』最終13話.「おかえり…うめ先生」

 予告が無いのと、新たに始まる新番組の紹介を見なければ、これが最終話だと気が付かないぐらい、いつもと変わらずさりげない終わり方。
 今期の第一話は入学試験の頃であり、最終話が一年の新たな始まりである お正月…といっても元旦が終わり新学期が近い時期の話だけど。
まだまだ終わる気のない作品だという事が感じられ、普通に第三期も作られるのではなかろうか。
それは、願望も含めて。

 第一話と前回の話がちょっと異質で、「動き」を通して何かを描こうとする事が少ない この作品において、驚かされるぐらい よく動き、それを上手く面白さに繋げてあったと思う。
 …というような所を除けば、第一期とさして変わりのないシリーズだった。
それは別に悪い事ではなく、「視聴者の望む心地良いかたち」を壊さず維持していくのも、立派に才能でありサービスだろう。
 ヒロや沙英が卒業を迎えるエピソードを描くまで、続く作品なのかな。
『ARIA』が完結してしまった今、これといくらか似た空気を持つアニメは『スケッチブック』ぐらいなものなので、長く続けてくれると嬉しい。



 WOWOWで放送された映画『インランド・エンパイア』を見る。
 デヴィッド・リンチ監督。

 難解な監督の作品中でも、これはより一層分かり辛い、と言われていたので構えて見たが、いや、そんなに分かり辛くない。
 ある女の過去と現在を、現実と夢想と妄想を交えて描く作品。
現実の部分が分かれば、後はその流れから、何を言わんとしているのか理解できなくもないだろう。
 …と思いつつ見終えて、ストーリーを頭の中で再構成しようとしてみると、途端によく分からなくなる。
感覚的には「分かったような気がする」んだけど、特に細部やらシーンごとの繋がりを把握するのは、難しい。

 挟み込まれる「ウサギさん一家」の解釈とか、どうとでも取れすぎて、確定不可能。
 そういう「分かったような分からないような」描写と、異様でありショッキングな映像を用い、見る者を迷宮の奥深く誘い込んで迷子にさせるのが、映画としての狙いなんだろうな。

 こういう傾向のモノばかりになってしまったら、映画を見るのがメンドくさくなってしまいそうだけど、色々な意味でそうそう・誰にでも作れるはずがなく、たまに見る分には、思考的刺激や映画鑑賞による疲労を感じる「楽しさ」を味あわせてくれる、なかなか希有な作品だと思える。
 何度か見れば、もうちょっと内容を理解できるかも知れないんだけど、「分かったような分からないような」で置いておくのもまた良かろうか。


2008年9月25日 木曜日

『魔法遣いに大切なこと 夏のソラ』最終12話.「夏のソラ」

 海の波の表現が、素晴らしく良かったなあ。
滑らか、というよりザカザカと荒れたタッチで描かれていたけれど、それが波の荒々しさや勢いを良く伝えていて。
 独特のデフォルメ様式を持つこのアニメだからこそ、違和感なく生きた描写だろう。

 死に至る病を抱えながら、一人北海道に帰ったソラは…
 うううーん、あの結婚式を見せる魔法は、誰に、何のために使ったモノなの?
 もう死んでいる父親を、一時的に現世へと呼び戻して、その夢だった娘の花嫁姿を見せて上げたのか。
しかし、その姿は現実でなく幻だし、結婚相手が実在するかどうかすらコレでは定かならず、そうまでして父親に見せても「娘の魔法レベルは凄く上がった」ぐらいで終わりそう。
 父親の望みを叶えるという名目の元、自身の願望を叶えた…あるいは、一人残される母親に思い出を作って上げた。
そういう所なのかなあ(数年後の再会で母親は豪太の顔を見分けられなかったが)。

 豪太を北海道まで一緒に連れて帰り、本物の結婚式(の真似事)を見せる事も可能だったのでは。
もう死ぬ、という事で、豪太の人生に「幸せ」の反動として現れるだろう、大きなマイナスの影響を残すのが嫌だった?

 淡々とした演出で、ソラの死は驚くぐらい呆気なく(母に抱かれているシーンで本当に死んだのかどうかも分からないぐらい)描かれた。
 てっきり違法魔法で助かると思い込んでいたため、アッサリ死なせてしまったのは意外。
魔法にも限界がある、と言うには、超絶便利なんでもパワーとして使いすぎていたような。
 「お涙頂戴」然としたゴリ押しがなかったのは爽やかだ、とも言えるけど、見終わって大きく何が受け取れたとも個人的には思えない終わり方だったため、いっそパワー全開の「泣かせ」を押し込んでくれた方が、それを「サービス」として評価しやすかったろうか。

 前回、豪太がソラを両親に紹介する際、若い二人をまるで映さず、両親だけ見せてシーンが終わった。
視聴者が見たいのは、ソラ・豪太の方だと思うんだけど…
「見せない事で、逆に想像の余地を残す」ようなシーンではなく、「両親のリアクションにより、そのものを見せるより多くを表現する」程の演出は成されておらず、ただ「両親だけを見せたかったから見せた」としか。
 そういう感じで、描きたいものを、描きたいように描ききった作品。
そのテーマなり想いなりを視聴者が受け取れたかどうかは、制作において重視している事の一番目に位置していないよう、感じてしまう。


2008年9月24日 水曜日

『ゼロの使い魔 三美姫の輪舞』最終12話.「自由の翼」

 戦争など大きなスケールの戦いがある訳でなく、敵ボスキャラを倒す訳でもない、割合と小さな規模のクライマックス。
 巨大鎧兵との戦いも、苦戦があり逆転があってつまらなくはなかったが、このぐらいの規模のバトルなら、これまで「中ボスクラス」程度の戦いとして普通に見られたものだと思えて。
 新規参入キャラであるティファニアが、最終回ではほとんど「居るだけ」に終わり、物足りない。
巨乳キャラなら他にも多くいる作品なので…ルイズの強力なライバルとしては、シリーズ後半で「囚われのお姫様」扱いされ、他のキャラを凌駕する扱いとなった、体型がほとんど変わらないタバサをクローズアップしておけば、十分だったような。

 お話は、「取りあえず一段落」ぐらいのもので、まだ終わっておらず、次期シーズンの制作が決定している事を伺わせる。
 作画はキレイだし、女の子達も可愛く、今後も、ずっと見続けていって損な作品にはならないと思う。
 ただ…作品のテーマである「ルイズのツンデレ」成分に、大分お腹が一杯になってきた、という部分はアリ。


2008年9月23日 火曜日

『ストライクウィッチーズ』最終12話.「ストライクウィッチーズ」

 かなり詰め込んだ最終話。
せめて後一話ぐらいあれば…

 攻め込む戦いを目論む軍上層部や、ネウロイにより大事なものを奪われ・喪わされ、その行動の基本に「怒り」や「敵意」がある他のウィッチーズと違い、元々戦いを忌避する気持ちが強い芳佳の特殊さ。
物語の進展と共に、彼女を戦士として成長させる事で、その性格付けは薄れていくモノと思っていたが、最後までそこからブレず、「大事な物を守る戦い」としてクライマックスを構成する巧さに、感心。

 再度集結する仲間達、悪い上官に対し糾弾・失脚への見通しを立て、全員が出撃しての戦いへ。
戦艦を取り込んで浮上するウォーロックを敵にして、これまで関係性を描いてきたキャラクター達が、その成果として、納得できる連携戦法を見せる…ラストバトルに相応しい盛り上がり。
 「これでお仕舞い」を具体的に映像化する、芳佳・ストライカーユニット・ミサイル攻撃(?)。
ちょっと『Vガンダム』を思い出してしまったり。

 ネウロイの撤退?が よく分からないけれど…
 ウォーロックのコアは、軍により回収されたネウロイのはず。
ネウロイ本隊の目的が、『ナウシカ』王蟲のように「危機に瀕した仲間を連れ戻す」事にあったとすると、既に正常な思考能力を失わされたウォーロック・ネウロイが迎えた死により、人類世界での作戦行動が終了したから…とか。
 最後の最後で示される「芳佳父からの手紙」など、第二期の制作を前提としているのか、謎を残す終わり方。

 全体として。
 「美少女が編隊を組み、必要以上にパンツを見せながら生身で、デカい機銃を抱えて謎の敵と空中戦を繰り広げる」という、どうやっても商売先行・狙いすぎアニメにしかならないような題材でも、真面目に、頑張って作れば、侮れない作品が出来るのだ、という事を知らしめてくれたアニメ。
 オープニングを見て、多すぎる!と思ったレギュラーキャラクター達だけれど、それぞれ分割して一話ずつ丁寧に描かれるウチ、きちんと個性を持った女の子として把握できるようになっていった。
こういう作品の鑑と言って良い構成だろう。

 最後まで全く崩れず、高水準を維持した作画もポイント高い。
 最終話でも、田中宏紀による素晴らしい作画が見られ、眼福。
髪の毛のはためき方、細かく個性を持たせた動きの演技の付け方など、レベルが高いこのアニメの作画中であってさえ、「ここは、そうでしょ」と分かる突出した巧さ。
 今後の更なる活躍を楽しみに、お名前は覚えておいた方が良いんだろうな。

 作品への不満を言うなら、やっぱり「まだ足りない!」という事になる。
キャラへの彫り込みの丁寧さから、てっきり2クールのアニメだと思っていたぐらい。
 せっかく立てたヒロイン達のキャラクターなのに、コレで終わりじゃ勿体なさ過ぎる。
 同じスタッフ・同じ制作体勢で、是非、「この先」を見せて欲しい。


2008年9月22日 月曜日

『コードギアス 反逆のルルーシュR2』24.「ダモクレス の 空」

 掲示板では ご指摘を頂いていたけれども、その通り、ルルーシュは闇雲に世界の支配権を手に入れようとしていたのではなく、その先に何かを(ゼロ・レクイエムというモノか)見据えて行動している訳ね。
 彼の行動が正しかったのか間違っていたのか、それは膨大な人的・物質的損害を出しても成し遂げなければならなかった事なのか、まだ真の目的が分からない今の時点では評価出来ず。
 ルルーシュが、咲世子に、自分を殊更に「悪の元凶」のごとく言うよう指令してあった…のだろうから、やはり世界の憎しみを一身に受ける、『ガンダム00』ソレスタルビーイング的な計画か。

 前回の感想で、ルルーシュが最も多くの物を持っていたのはアッシュフォード学園で失意の日々を送っていた間だろう、と書いたけど、今回、C.C.に感謝の言葉を述べる彼の様子からは…
何もせず与えられた環境に甘んじるのではなく、どれだけ大事な物を失おうとも、自ら行動し、何かを…例えそれが幻であろうとも…自分の力で掴み取ろうとする、その意志と過程にこそ意義と意味を見出している、という事が感じ取れる。
 若いなあ、そして強いなあ。

 対して、シュナイゼルの内に潜むものは、野心でも悪意でもなく、「虚無」に近いモノなのだろうか。
全てを拘り無く捨てていく、自らの命にさえ拘泥しない、彼に通常の方法で勝つ事は不可能。
ギアスによる支配も、「勝った」事になるのかどうかは分からないが…
 そこに到る、以前も一度使った録画データを使ってのトリックが、見事。
見直してみると、シュナイゼル搭乗機のスクリーンにルルーシュが映る前に、録画データを読み込んでいるような表示がちゃんと出ているのね。
 ほとんど並ぶぐらいの知性を持つ相手の思考をどれだけ先読みしてるんだ、とか、どのぐらい時間があればこんな長い録画が出来るのか、といった疑問もあるけど、キレイに騙された上「その手があったかぁ!」と叫んでしまったので、こちらの負け。

 コーネリアが生きていたのはまだしも、ギルフォードの生還にはビックリ。
どういう理由で?
 こうなると、他の「死んだように見せていた」キャラクターも、生存している可能性があるなあ。
それを、残りの本編でちゃんと描くかどうかはともかく。

 残るは、ルルーシュとナナリーの決着か。
 ナナリーの両目が開かれたけど、ギアスの光を宿しているはず、とばかり思い込んでいたので、普通の目なのが意外。
彼女の超絶便利ギアス能力…例えば「死んだ人間を生き返らせる」とか「時間を巻き戻す」により、ドガチャカな終わり方をしたりすると、非難ゴウゴウだったろうな。

 大きく注目を浴び続けてきた今作も、残り一話。
 どういう終わり方をして見せてくれるのか、放送を楽しみに待ちたい。



『炎神戦隊ゴーオンジャー』31.「歌姫(アイドル)デビュー」

 パターンからはみ出すエピソードの多いこの作品中でも、今回はホントの異色話で、えらく笑わされてしまった。
 新たな、恐ろしい脅威を前に、敵味方が手を組む、というシチュエイションは珍しくないけど、ここまで悪ノリされると気持ちが良いばかり。

 格好つけて歌ったのに、めっきりダメ出しをされてしまい、凹みまくるゴールドが可笑しい。
 急造アイドルユニット・G3プリンセスのアホな特訓方法に笑い、らしく見せる歌唱シーンの楽しさには感心。
コスプレの多さから、「七変化」と呼ばれるヒロイン当番回のバリエーションか。
 他二人は まだしも、及川奈央のセーラー姿に余り違和感がないのは、さすがだなあ。

 前にもケガレシアがゴーオンジャー側に折れかかるエピソードがあったけど、今回も、もうちょっとで和解し合えそうな終わり方だった。
何か気持ちを読み取らせそうなサインを一切浮かべない、去り際に見せるケガレシアの表情が、なかなか。
 最終的には仲良くなれるのか…スッパリ「悪」と割り切って片付けてしまうのか。
ユニットを現実にも売り出そうという意図がありそうなので、単純に殺して終わり、という事は無いのかな。


2008年9月21日 日曜日

『マクロスFRONTIER』24.「ラスト・フロンティア」

 ここしばらく作画の不安定な回が続いたような印象だったけど、それはこのクライマックスに全力を投入するためだったか、と思わせる、渾身のバトルを展開してくれた。
 人類(フロンティア船団)の生き残りを賭けた総力戦だが、その狙いはバジュラの壊滅のみならず、その母星への侵攻・侵略計画まで含む。
バジュラからすると、人類側こそ「邪悪な侵略者」。

 バジュラ母星宙域で展開される、種族の命運がかかった戦いに、流されるランカの歌を「愛・おぼえていますか」とする、余りにも皮肉なチョイスが妖しい高揚感を呼ぶ。
 シェリルの歌も決して悪くないのだけれど、『マクロス』劇場版主題歌には敵わなくて当然。
特に、その「歌」のパワーを劇場で体感した世代の人間には、そう思える。
 対抗するには、シェリルも負けずに同じ歌を歌うか…歌詞の破壊力に賭けて「私の彼はパイロット」でも行ってみるべきか。
いや、バジュラへの影響力は歌い手の体内因子により決定づけられる訳で、歌の選択に凝っても仕方なかろうが。

 敗色の濃い戦闘中に、アルト死亡?
まさか本当に死んだとは思えないけど…絶対に死ぬと見えたオズマが生き残り、予想もしなかったミハエルの退場があるアニメなので、確信は持てない。
 アルトの死を受けて放つシェリルの絶叫が、心をコントロールされて機械的に歌うランカを凌駕し、戦況に変化をもたらす、とか。
安定しない心理状態で歌っても、バジュラを制御する事は出来ないんだっけ。

 次回予告を、オリジナルシリーズのエンディングに似せて作ってあったのが、ちょっと懐かしくて嬉しい。
 まだまだ取りこぼしている部分は多いと思え、キレイにまとめるには相当の時間が必要だろうけど、もう終わりなのか。
どういうエンディングを見せてくれるのかな。


2008年9月20日 土曜日

『我が家のお稲荷さま。』最終24話.「お稲荷さま。初詣に行く」

 異形の者達との、緊張しているようで ゆる〜い生活を描くアニメ、最終話。
 24話、というのは、最近のアニメとしては なかなか長くやったと取れる。
強敵を倒すとか、努力して皆で何事かを成し遂げる、といった大きな物語がある作品ではないので、半分で終わっても差し障りはなかった…と思うけど、この緩さと、独特の空気が醸し出す「非日常的日常」の面白さ、といったモノを感じてもらうには、最低でもこのぐらいの話数は必要だったのか、とも思う。

 最終話からして、高上兄弟に危機が迫り、彼らを救うべく天狐は一人離れていく事を決意する…という、もっとドラマティックになりそうな事件が起こされたのに、天狐は余りにも素直に元いた田舎に帰っているし、岩戸隠れをする彼女(彼)を引っ張り出す方策は、一緒に暮らしてきた期間に培われた「愛」とか「家族意識」とかいう感動的なものではなく、「美味しそうな おしるこの匂い」。
 普通には、物足りない筋立てかと思うけど、すぐ行方を推測する高上兄弟・彼らにとって唯一心当たりであろう分かりやすい所に行っている天狐(家か封印場所でしか生きられない、という訳ではないよね?)、言葉での説得は既に終わっており、後は出て来やすいように食べ物で釣ってやる兄弟・その気持ちに応えて出てくる天狐…といった見せ方で、もう彼らは強い結びつきを持つ「家族」になっていると示す、この作品らしいクライマックスの設け方だったと思う。

 いくらかは苦労するかと思われた玉耀への説得についても、影から見ている事で自ら天狐と一家の結びつきを理解してくれ、また天狐が「家族」というキーワードを用いる事により、難なく取り込みに成功。
 天狐はともかく、自分達に害をなした玉耀をスッと受け入れる高上一家は、凄い。
 この作品で設定された最強のパワーは、天狐らが使う超常的妖力などではなく、どんな相手でも事態でも取り込み、「家族」「日常」の一部と化してしまう高上一家の許容力・懐の広さ深さ・悲観的にならない心の強さ、そういったモノだったのかも知れないな。

 シリーズ開始当初は、丁度終了した『狼と香辛料』の後を継ぐ作品と勝手に思い込んでしまい、それにしては「萌え」が無いとか文句を言っていたような気がするけど、すぐに、天狐はそういう対象ではなく「家族(困った姉、ぐらいか)」なのだと理解できた。
そもそも「男」でもあるし、性別の概念からさえ離れているキャラなんだけど。
 感情の起伏が弱く低血圧気味のコウについても、やはり恋愛対象としては描かれず、困った妹、ぐらいの見せ方。
もっと人気を取れる提示の仕方はいくらも考えられたと思うが、悪く言えば「淡泊」、良く言えば「あざといドラマ運びや演出によりキャラを売り込もうとする嫌らしさが無い」作品姿勢のため、突出して売れるようには細工されていない。
いや、十分可愛いけれども。
 作品中で、恋愛感情を意識して行動しているのは、佐倉美咲だけ?

 とにかく地味な作りだから、絶賛するとか そういう事ではないと思うが、制作者の狙い通り(だろう)「地味な面白さ」が良く出ている、楽しい作品だった。



『セキレイ』最終12話.「縁ノ鶺鴒」

 あ、もう終わりなんだ。
 まだ、ようやくキャラクターが出揃った…いや、出揃ってさえいない?段階であり、シリーズのクライマックスとして「ゲストキャラクターを閉鎖領域外へと逃がす」ストーリーでは弱く感じるんだけど。
 最終回に来て新たな謎が示されるし、伏線の回収には遠く、バトルロイヤルの終わりはまだ遙か彼方で、見えない。
 原作連載は現在も継続中なのだろうから、仕方ないが。
人気があった場合、当然のように続編を作る予定なのだろうし。

 とにかく女性キャラクターが可愛く、個性豊かであり、見ていて楽しい作品だった。
武道家風硬派ツンデレ・月海と、本気のバトルは見せないのに影でずっと「最強」を感じさせ続ける大家さんが、特に好み。
ダメダメな主人(そうとも思えないけど)に、古女房のような ひたむきな愛情を注ぎ、自身らの行動は割とロクデナシっぽいのに好感度をググッと上げてくれた響と光の二人組も、良いキャラ。
 各種女の子を取り揃えてズラリと並べ、「これだけ居ればどの子か好きなタイプが居るでしょう?」とする萌えハーレムギャルゲー構造をバトル物に持ち込んで、成功した例ではなかろうか。

 キャラの魅力を支える作画が、最後まで崩れず、高い水準を保ち続けたのはポイント高い。
 バトルの見せ方も工夫されていて、緊張感があり、女の子達の強さと脆さと柔らかさを感じさせるに十分だった。

 このスタッフで、このレベルをキープしたままでの続編を、希望。
 しかし、続編があったとしても、また12話ぐらいでは物語の最後まで行けないんだろうな。
こういう作品では、「ヒロイン達の魅力」をこそ楽しむべきと思うので、物語完結までの過程は長ければ長いほど良いが。


2008年9月16日 火曜日

 仕事スケジュール入り。
 金曜日…ぐらいにはまた更新できるよう、頑張ります。


2008年9月15日 月曜日

『コードギアス 反逆のルルーシュ R2』23.「シュナイゼル の 仮面」

 ルルーシュとシュナイゼルの、知略を尽くした総力戦。

 黒の騎士団は、現在シュナイゼル側に付いているけど、日本の独立・安全さえ約束してくれれば、ルルーシュに付いても構わないはず。
彼らを裏切っていたゼロ・ルルーシュを信用できない、という事かも知れないが、妹を殺し母国の首都も平然と消滅させるシュナイゼルだって、信用度は変わらないか、もっと低い。
 ディートハルトがルルーシュ側に居れば、上手く情報をリークし、シュナイゼルと黒の騎士団の関係を悪化させられたかも。

 ブリタニア首都を消滅させてしまったシュナイゼルは、もう今更 躊躇う(本性を偽る)必要を感じないのか、コーネリアもアッサリと始末する。
 彼は、いかにも内側に怖いモノを呑んでいそうなキャラだから、その行動もさして意外ではないが、「避難誘導が出来ていた」と嘘をつかれたとはいえ、それでもなお被害皆無とはいかないだろうフレイヤの使用を認め、戦場で敵兵士を殺すスイッチを入れてしまうナナリーの堕ちようが、恐ろしい。

 総力戦は、「全てを失っていく戦い」。
 日本を特別な存在たらしめていたサクラダイトの鉱脈を爆破し(再採掘は可能?)、大勢の兵士をギアスにより進んで死地に赴かせ、切り捨てるルルーシュ。
 コーネリアを殺し、ナナリーを騙し…それは彼にとって損失ではないのか…そもそも「失ってはならないもの」を持っていたのかどうか分からないシュナイゼル。
 壮絶な喪失戦の中で、ルルーシュが失った最も大きなものは、「ナナリーを敵にしてしまった事」ではなく、彼女が手を血で汚さざるをえない状態に追い込む事で「守るべき純粋で無垢な価値を無くさせてしまった事(純粋無垢さのダークサイドが顕現している、とも言えるが)」、かも知れない。
 また、彼は妹のため世界を作り直そうとしていたはずなのに、世界を変えるためには妹も特別扱いできない、という、手段と目的の転換が行われてしまったのも、悲しい。

 ルルーシュとシュナイゼル…彼らが理想とする世界は、あまり変わらないんじゃなかろうか。
どちらが作り上げる世界も、優しくも住みやすくもない、ただ至高の存在として頂く人間の顔が違うだけ。
 だったら、どちらでも相手に全てを譲り、自身の安全を確約させた上で穏やかな生活を送った方が、幸せでは。
…それは、権力欲というのが どうも理解できない、覇気のない自分だから思う事かな。
 二人が理想の世界を築き上げる過程で、最も大きな障害となり、先々を考えても生かしておけないのが互いの存在だろうから、「戦いから降りる」というのは「自らの死」に直結する選択だけど。

 ルルーシュにとって、一番幸せであり、多くの物を持ち得ていたのは、自らは不遇な時代と考えているだろう、ギアスを手に入れる前のアッシュフォード学園生活だったと思える。
 もしも戦いに勝利し、世界を自分の思うがままに変えられたとして、それで彼の心が満たされる瞬間は訪れるのだろうか。

 ナナリーのため、彼女の事など何とも思っておらず、自らの覇道のため戦ってきたと嘯くルルーシュだけど、それは本心に近かったのかも知れないなあ。
 妹や、多くの愛する者達に囲まれていたとしても、平穏な生活に飽いていく事は彼に耐えられず、それよりは、強敵を前にギリギリの状況で策略を巡らし、勝利を掴む…あるいは「無残に敗北して死を迎える」事の方を、選ぶのだろう。
 手段を選ばず野望や理想に焦がれる者は、やがて愛する者のみならず、自らをも その炎で焼き尽くす。


2008年9月13日 土曜日

『我が家のお稲荷さま。』23.「お稲荷さま。だいえっとする」

 三人娘(こう括って良いものかどうか)のダイエット話。
 普通の女の子である美咲や、始終食べ過ぎている天狐はともかく、食べる事にあまり興味が無さそうなコウまで体重増加なのが意外。
実際は、護り女道具の持ちすぎ、といった理由だったけど。

 女の子の、体型維持に賭ける必死さをまるで意に介さない…そもそも美咲は別段太ってないのだろうが…昇。
 チーズケーキの店に彼女を誘うのは、いくらか「女の子」として意識し始めているからなのか、本当に「ちょっと食べてみたいけど一人じゃ入り辛い」からか。
まあ、女の子を伴って行きたいだけなら、天狐でもコウでも構わないはずだけど。

 超常存在同士の大抗争が勃発しそうになりながら、いつも致命的な大事に至らず、割と ほのぼの終わってしまうのが持ち味の作品。
どちらかというと、最初からこういう ゆる〜い雰囲気で展開してくれる話の方が、好きだなあ。
美咲による、ほとんど空回りの一途さ懸命さが好きだから、という部分もあり。
 天狐もコウも、昇を挟んで三角関係を形成するようなキャラではないので「誰を選ぶか迷う」必要など無く、美咲の気持ちが大きく報われる終わり方だと、いいなあ。


2008年9月12日 金曜日

『ひだまりスケッチ×365』11.「パンツの怪」

 気を失って倒れていたヒロについて、その原因を沙英が推測する。
ああ、いつも体重を気にしているヒロなので、ダイエットのし過ぎを理由と考えて間違いないだろうな、と思っていれば、「天井が低い場所」という、「ゆのは背が低い」事を表す会話で ほぼ消化し終わったと思っていた場面設定が もう一度意味を持ち、意外な真相へと繋がってくるのに感心。
 ちょっと、推理モノっぽいぐらい。

 ヒロのダイエットはアパートの謎部屋内部に関わり、天井の低い場所は吉野屋先生の おバカさんギャグ(笑ってしまった)に発展する、実に上手いネタの広げ方。
 もっと ほわほわーっと、取り留めがない終わり方をして構わない作品なのに、かなり考えた構成だなあ。


2008年9月11日 木曜日

『魔法遣いに大切なこと 夏のソラ』10.「いのち」

 ほとんどの人が予想できていたんじゃないかと思うけど、指導教官がソラの胸に顔を埋めているように見えたのは誤解。
病気の発作に襲われた彼女を介抱していた、というのが真相、らしい。
あんな怪しげなやり方で行う介抱って?とは思うけど、動悸を確かめていたとか、そういうコトなんだろうか。

 驚いてドキドキする、そのドキドキのようなモノが止まらなくなって死んでしまう病気、って、何?
魔法遣いに特有らしいから、現実には無い病気なんだろうが、それにしても子供にするような説明。
 雷に驚いて動悸が止まらなくなる娘が、前回はイキナリお泊まりで問題なく朝帰りしたのか。
次第に悪化している、という事ではあるんだろうけど、シリーズ最初の方でトレーラーが目の前に落ちてきた時は、驚かなかったのかなあ。

 架空の病気を作るなら、作品の特色である魔法を絡めて、
「ソラは、病に苦しむ人を放っておく事が出来ず、無認可で次々魔法治療を行っていた」
「病気の治療は、(下に書いた『ダブルアーツ』の設定みたいに)魔法士の体に、患者を蝕んでいた病魔のマイナス因子を引き受ける事でしか、出来ない」
「大きな病気を全快させる度、魔法士は死に近づいていく」
とか、そういう理由付けでも。
 この辺をあんまり理詰め(?)にするのは好みじゃないかも知れないけど、「何でもできちゃう魔法遣いでさえ治療不可能な、不思議病気だ」みたいに語られても、「流行りの難病物として、死を挟んで泣かせに持っていきたい」意図ばかり強く感じてしまって。
 実際、とにかく恋人が死ぬ物語が人気を集めてしまう傾向はあり、そういう路線狙いなのか。

 物語としては、「結局ソラは死んでしまい、豪太や他の魔法遣い達が『大切なこと』を学ぶ」あるいは「魔法遣い達による違法魔法が起こした奇跡によりソラ全快、やっぱり何かを学ぶ」、どちらかになるんだろうな。
 上手く魔法を絡めて、作品を閉じて欲しい。
今回の内容なんか、魔法が無くても…無い方が自然に、成り立つストーリーだったから。
 ストリートミュージシャンがチラと見ただけのイメージから、ソラの幻を作り上げ、その行く先を突き止める、面白いと言うよりはストーリー進行に便利な、何でもアリの魔法を描くと、「どうやっても救えない命」という設定に重みが無くなってしまう。



 木曜日になってナニだけど、「少年ジャンプ」に連載されていた漫画『ダブルアーツ』が終わってしまった。
 不治の奇病トロイによる死が蔓延する架空世界、その毒を自らの体の中に引き受ける事で感染者の治療を行うシスターの少女・エルーが、治療限界に達し、死の発作に襲われた際、少年キリが彼女の手を取った事により、奇跡の物語が始まっていく。

 「キリと手を繋いでいないと、エルーはすぐ死んでしまう」という設定は、非常に面白いと思ったけれど、展開のしようがない読み切りのアイディアであり、連載にするには大きすぎる足枷となって、進行の邪魔になる、あるいは すぐこの設定を解除する事になるだろう…と思っていたが…
 「手を繋ぐ」という事を常に物語の中心に置き、テーマとして扱う、既存の思考に縛られない自由さに、驚かされっぱなし。
 トロイの患者達としか触れ合う事が出来なかったシスター達が、キリと手を繋ぐエピソードなど、ネタの広げ方が実に上手くて ほろほろと泣ける。
 互いの手を離せないキリとエルーの不自由さが、やがて二人だけしか持ち得ない「力」になっていく逆転の発想には、ただ感心。
『ルパン三世』で、ルパンと次元が、あるいは銭形が、手錠に繋がれた自由が効かない体勢のまま見事なアクションを見せた事がある、あの辺りから発想を…いや違うか。

 無闇に戦いたがる武装少女・スイや、一行のお守り役(?)を務める無愛想なファラン・デンゼルのキャラクターも面白く、まだ「ジャンプ」的「バトルトーナメント開催」展開に陥らない、どう転がるか分からない物語で、先が楽しみだったのに……
とても勿体なく、残念。
 旅が終わり、愉快なキリの両親と二人が再会するまで、読み続けさせて欲しかったなあ。


2008年9月10日 水曜日

『ストライクウィッチーズ』10.「信じてほしい」

 人間型ネウロイと接触した芳佳は、ただ恐ろしい敵とばかりは思えないその行動に何かを感じ、攻撃を躊躇うが、彼女を助けようとやってきた坂本少佐は撃墜され、生死の境をさまよう…
 物語開始当初、戦いを嫌い銃器を手に取ることさえ嫌がった芳佳だが、「人間味」を感じない敵に対し、次第に攻撃する事への忌避館が薄れ、ここしばらくは戦士としての成長を描くストーリーになっており、最初の設定は無駄だったかなあと思っていた。
なるほど、人類の宿敵であるネウロイとも分かり合える素養を、強く持つ少女という事で、こういう展開に持っていくための伏線だったのか。

 軍にとっては勿論、ネウロイへの怨みを抱えていたりする他のウィッチーズにとっても、敵と接触しながら攻撃せず(されず)、味方を危機に陥れた芳佳への疑惑は、あるべき。
 なのに、どうにか軍法会議を免れた途端、「みんなでお風呂」になってしまうのが、この作品らしさ。
 普段から下半身をほぼ露出し、視聴者サービスを…いや、余計な衣服で魔法力を遮断しないよう暮らしている彼女達にとって、全裸で居られる浴場は最も自らの、そして相手の力を感じ取れる場であり、「芳佳が裏切った」「敵により洗脳されている」といった事実が、もしあった場合も読み取りやすいから……とか。
 殊更にはしゃいで見せ、疑念を持たれて当然の芳佳をより深くまで受け入れようとする、仲間達の気持ち良さを受け取るべきなんだろうけど。

 ネウロイは最初から、人類の文明を模倣して、攻撃してきている。
元々は平和な種族だったモノが、最初に人類からの「悪意」を受け、それをそのまま返す形で侵略行動を行っている、とすると、物語ラストまでの道筋が見えやすい。
 ウィッチーズを遙かに超える戦闘兵器を、軍は繰り出してきたが、これも模倣され、より攻撃力を増したネウロイとなって返ってくるのかな。
血を吐きながら続ける悲しいマラソン、というヤツで。

 坂本に重傷を負わせる原因を作った芳佳に怒りを感じながら、しかし治療力の未熟さにくじけかかる彼女を叱咤激励し、その懸命な行動を評価もしてみせる…なかなかフクザツな内面を覗かせるぺリーヌが可愛い。
 芳佳に対するぺリーヌからの糾弾に堂々と立ち向かい、どれだけの重罪になるか分からない芳佳の単独行動に躊躇いなく同行しようとする…親友を得たことで当初の気の弱さから遙かな成長を見せるリネットも、泣かせる。
 人数が多すぎ、まだよく把握できない女の子も居るけど、少なくともメインキャラの捉え方は非常に確かな作品。

2008年9月8日 月曜日

『World Destruction ワールド・デストラクション〜世界撲滅の六人〜』10.「カラクリロボには108の原則がある」

 量産されたものと思えるロボットの一体が、主人公達(特にクマ)との関わりを通して「心」に目覚めていく。
 こういう話は好みなんだけど、さすがに30分で描き切るには無理があり、ロボットの変わりように不自然さを感じてしまう。
声優が山口勝平なので、てっきりレギュラーに…「世界撲滅の六人」の一人に加わるものだと思っていた。
 次第に人間らしくなっていくロボット、というのは、ドラマティックであり、『オズの魔法使い』の例に寄らず、旅のお供に適していると思うが。

 レギュラーにならないのだとすると、ラスト、都合良く無事で再登場するのが蛇足。
 この作品は、意外なところで以前のエピソードを引いていたりするから…今回も、指名手配書がニセ撲滅委員会であったり…いずれまた、物語に関わって来る事もあるのだろうか。



『コードギアス 反逆のルルーシュ R2』22.「皇帝 ルルーシュ」

 この作品は、ルルーシュが全てを失っていく話かと思っていたが、前回から、ブリタニア皇帝の地位を得、頼り甲斐のありすぎる右腕としてスザクとの関係も修復され(かつてのような「友達」として、ではなかろうけど)、過度に色々なモノを抱え込んでしまったような。
 といっても、最愛のナナリーはおらず、倒すべき敵としての父を、大事なものであったはずの母と共に、自ら否定して消し去り、内心を打ち明けることが出来ずカレンには別れを告げられ(自らも告げ)、旧友リヴァルも切り捨て…これは破滅に向かう自分の運命に巻き込むまいとする優しさか…孤独の度合いは、より増しているのかも知れない。

 ルルーシュは、「世の中全てを正しく変える」事に情熱を感じていた訳ではない…と思うので、絶対的な地位を得ても、そこから先、は無いような。
 余りにも大きな喪失で空いてしまった心の穴を、強力なエネルギーで突き進める改革や謀略、未だ存在する強敵・シュナイゼルとの戦いで埋めようというのか。
 ブリタニア内部の大改造はともかく、超合衆国の国々まで どうこうしなければならない理由は分からず、ルルーシュが目指す未来は見えてこない。
 世界を思うがままに変えようという意味では、彼が否定した父親と同じ事をしているだけのような。
 「全ての人々が分かり合える、優しい世界」を拒絶した以上、「誰とも分かり合わない、混沌とした(だからエネルギーに満ちた)世界」を築き上げる狙いか。

 ルルーシュとスザクが組めば無敵かなあ、と思っていたけれど、ナイトオブラウンズさえモノの数としないスザクの強力さは壮絶で、呆気なささえ感じてしまう。
 しかし、ルルーシュも分かり辛いが、スザクは今、一体何を目指して戦っているのか、更に不明確。
現在はまだ台風の目の位置にあるから安定を保っているだけの日本を、恒久的に自立して安全な立場に導くのが目的?
そもそも彼は「日本人の自由のため戦っていた」…とは思えず、最終目標が分かり辛かったからなあ。
 大規模破壊への自責の念から逃れようと、「自分の正義」を捨てて「ルルーシュの大義」に乗った、とか。

 そして、やはり生きていたナナリーの再登場。
ルルーシュが取る行動の原動力となっているキャラなのに、直接描写すらなく死亡扱いにされていたので、どう考えても…だったけれど、知らぬ間(ハッキリとは)に兄の敵になっていた総督就任と違い、今回は自ら敵となる意志を表示。
 こうなると、ルルーシュは完全に戦う理由を失ってしまうのでは。
現在のルルーシュが、どこを目的地と考え、どれだけのエネルギーをもってそこに辿り着こうとしているのか分からないので何とも言えないが、それは妹よりも大事なのか、そうでないのか、問われる事になるだろう。
 父親の大義を否定する理由をくれたナナリーに、より良い世界を作ってくれる期待をもって世界を任せ、自身は退任して穏やかに暮らす…というのも手だろうけど、ルルーシュに相応しい生き方とは思えないし、この作品がそんなエピローグを迎えるはずもない。

 父皇帝が消えても、なお閉じられたままのナナリーの両目が開かれる時、世界の趨勢は決する…?
 実はナナリーこそ全ての黒幕でした、とか、ルルーシュはまだ父と対峙したまま「シュナイゼルと戦う未来」を見せられている、とか、何とでも無茶な展開は考えられるけど、想像を絶しつつ視聴者の期待に応えられるクライマックスを、無責任に希望。


2008年9月8日 月曜日

『ケータイ捜査官7』19.20.「圏外の女(前編)(後編)」

 ここ二週間分、見ていなかったので、まとめて鑑賞。
故意に、と言っていいぐらい それっぽい演出が見られ、もしかしてとスキップで飛ばしていたオープニングを確認してみれば、やっぱり押井 守脚本・監督回。
 犬、謎の女、オヤジ、妙な蘊蓄や理屈を含んだ長ゼリフ、後ろを通り過ぎる戦車(?)、アホみたいなギャグ…
監督らしいギミックの嵐。
 余りにもそれっぽ過ぎるため、逆に、他の監督によるパロディーの可能性を疑ってしまうぐらい。

 女が抱える書き割りとしての犬に、勝手に喋らせているのが可笑しい。
腹話術で…とか考えたけど、女と離れた所に置いてあっても口は動くし喋るし、一応は独立した、魔法少女に付属する小動物的キャラクターだと捉えるべきか。
 こんな余計なモノは出すクセに、この作品の主題となっているフォンブレイバー7については、二話を通じて ほぼ出番無しのまま終わらせている。
主人公が、さほど積極性を持っていないキャラクターなので、監督の好きなバカ暴走状態へと彼を至らしめるため、通常「ツッコミ」役であり「常識」を体現する7を邪魔者と考えたためかな。
 その代わり、少年相手に無茶苦茶なアドバイスを与えるヤクザオヤジが登場。
主人公を誤った方向へと導き、自分も誤った行動を取って、生身で艦載機トムキャットと化して空を飛ぼうとした挙げ句、墜落(この辺『スカイ・クロラ』と関連が…無いか)。
まあ、こんな役を7には割り振れないだろう。

 主人公の鼻面を掴んで引きずり回す、大食いで自分勝手で、優しいお姉さんのようであり最悪の詐欺師でもあり、即物的でありつつ詩人でもあり得る女のキャラクターが、実に監督っぽい。
『紅い眼鏡』…いや、『御先祖様万々歳!』に近い?
 さすがにシリーズとしてのフォーマットがあるせいか、主人公を破滅に追い込んだりは出来なかったようで、「下世話なメーテルと出会う事で少年が何だか一つ大人になったような気がするけど錯覚かも知れない」という物語になっている。

 押井監督は、こうしてシリーズとしての お約束に四肢を縛られ、酷く制限された範囲で好き放題やらせた方が、エンターテイメントとして見やすい作品を作るなあ。
また、このシリーズ中で監督の手によるエピソードが見られると良いけど、残り話数も少なかろうし、難しいか。
 この作品、放送開始当初は「サイバー犯罪に立ち向かう少年と相棒」を描いていくストーリーになるかと予想したが、回を進めるごとに「面白ければ何でもあり」な様相へ。
どんなテーマでも乗せられるフォーマット、という意味では『パトレイバー』に近いかも知れず、監督に向いている題材だと感じられるんだけど。



 地上波で放送された映画『サイドウェイ』を見る。
 小説家志望の冴えない教師と、かつての輝きはないプレイボーイの俳優、この中年二人によるロードムービー。

 コミカルで笑ってしまう部分もあるが、大半はシリアスであり、人生の盛りを過ぎながら、まだ夢を諦めきれず、しかし現実から離れて生きていくほどには若くない男達の姿が、染みる。
 大事件が起きる訳でなく、意外なラストが待つ訳もない、地味〜な話。
自分なら、二十歳ぐらいでこの映画を見ても、何が面白いのかサッパリ分からなかっただろう。
 劇中でワインに対する蘊蓄が多く語られ、時間を掛けて熟成していくその味わいを「人生」になぞらえ、描いているが、自分も、傷みつつ劣化しつつ、こういう映画が分かる程度にはオッサンになったんだなあ、と しみじみ。

 主人公が未練を残す別れた奥さんが、あんまり美人でないのはリアル。
 ラストシーンのその後、幸せが待つのか そうでもないのか…ハッキリさせず終わる渋さも心地良い。
余りにも冴えない、鈍い、ダメダメな、しかし誠実な主人公に感情移入しつつ見たので、いくらかでもハッピーな出来事が待っているはずと信じたい。


2008年9月7日 日曜日

 CSで放送された映画『立喰師列伝』を見る。
 原作・脚本・監督、押井 守。

 押井監督の映画は、非常に細かく考えられた理屈の上に成り立っている。
それを、「絵」に変換して見せてくれるモノと、そのまんま「理屈」を正面に立てて客に投げつけてくるモノがあるが、この映画は後者。
 絵作りから、怒濤のナレーション洪水で見る者を押し流そうとする構成まで、『ミニパト』(押井 守は脚本・音響プロデュース・演出コンセプトを担当)に似ているだろうか。

 平面的なようで立体を感じさせる、実写の人間を紙人形風に処理した画面が面白い。
 キャスティングも、樋口真嗣や川井憲次、河森正治といった、有名どころ(俳優として、じゃないけど)が、不気味だったり情けなかったりする役で出ており、その無駄なインパクトに笑ってしまう。
 山寺宏一による、名調子のナレーションも素晴らしい…
のだけれど、見ているウチ、激しい眠気に襲われてしまうのが不思議。

 監督がこれまで作ってきた作品に度々登場する「立ち喰いのプロ」が題材となっており、完全には語られなかった彼ら彼女らの有り様を補完する作り方なので、「押井作品の大ファン、という程ではない」「立ち喰い師って何?全然思い入れ無いよ」という人には、まるで向かない映画。
 立ち喰い師と店主の息詰まる戦いや、感心するような立ち喰いのテクニックを見せようとする作品でもなく、単品でこれだけ見て「面白かった」という評価にはなり辛いかと。

 押井監督による、延々と続く妙な(納得できる部分も)理屈を楽しむ作品。
ハンバーガー屋なんか、大した注文でもないのに長く待たされたり、勝手に後回しにされることは珍しくなく、こんなプライドを持って立ち喰い師に対応してくれるとは思えないんだけど、それもまた「立ち喰いのプロが居る、押井 守視点で歪んだ世界」として楽しむべき。
 …とか言いながら、前述したように自分も途中では眠くなったりしており、大した押井監督ファンじゃないな。



『バトルスピリッツ 少年突破バシン』01.「正面突破バシン登場!」

 カードバトルゲーム・アニメ。
 肝心のカードゲームのルールについて、まるで説明されないため、どういう戦略でどう戦って何故勝った・負けたのか、何となくしか分からない。
 『遊戯王』とかと大体同じルールだから分かるでしょ?という事なのか、ターゲットであろう子供達は既にその辺 理解済みだから説明など必要ないのか。

 男の子が元気一杯なのは良いけど、第一話として通常必要な「強くなる内的素養の提示(ずば抜けた記憶力や計算能力を持つ・父親がゲームの制作者、等)」あるいは「外的要因との遭遇(伝説のカードを手に入れる等)」が、見たところ描かれておらず。
 元々、凄くカードゲームに強い訳ではないらしい主人公が、頂点に立つような少年相手に、何を勝機と考えて挑んだのか(勝ち負けよりまず突っ走る性格ではあろうが)。
 僅かに描かれた勝つべき要素としては、「他の子供が短気を起こして捨てたカードを拾い、オレだったらどんなカードも無駄にしないと言った」…ぐらいだろうが、そのカードは対セレブ少年戦で既に提示し、消されてしまい、「やっぱ拾ったカードは弱い」と切って捨てているからなあ。

 次回、その言葉を反省してカードと心を通じ、勝利に向かうのかも知れないが…
 「天才的少年」と「さして強くない主人公」では、主人公が負けて当然。
だから、「主人公はこのまま負けてしまうのか」では余り興味を引けず。
「意外にも主人公が勝ってしまいそうな流れを見せる」「しかし天才少年は、相手の健闘を認めつつも意味ありげな笑い」ぐらいで続いた方が良かったかと。

 『パワパフガールズZ』と同じデザイナーによるキャラクターは可愛く、目を見せない処理のメガネを掛けた女の子など、良い感じ。
 見続けていけば、それはそれなりに楽しめる内容になってくるのだろうと思うけど、第一話で余り心を掴まれなかった以上、ここまでに。


2008年9月6日 土曜日

『マクロスFRONTIER』22.「ノーザン・クロス」

 ランカはバジュラと共に去り、マクロス・クォーターも船団を離れ、謀略を用いた者が指導者となり、だいぶ混沌とした模様に。
 しかしレオンは、こんな酷い有様となった船の指導者になって、何をしたいんだろうか?
短絡的にグレイス(の一人)も処分してしまうし…ランカが居なくなった今、バジュラに勝つ目算は立っている?
 暗殺などしなくても、船がこれだけの惨状を来しているんだから、合法的に大統領を罷免、あるいは辞任に追い込めたのでは。
そうなると選挙が行われる事になり、その場合、必ずしも彼が次期大統領に選ばれるとは限らないのか。

 クォーター海賊化宣言。
 これは、船団に留まっては権力者の秘密を知る危険人物として、反逆者の汚名を着せられ逮捕されたり抹殺される恐れがあるため、一時逃亡を決めた、という事?
 アルト達にも事情を話し、連れて行ってやれば良いような。
病を抱えるシェリルを伴っての逃避行は危険であり、彼女と関わるアルトは船団に残した方が良いと判断したのか。
いずれクォーターによる逆襲の際には、彼を抱き込んで内部から協力させようという腹積もりも?

 混乱した状況で、先が読めなくなってきた。
 バジュラの最終目的が明らかになっていない事からすると、彼らの方に理があり、人類は自ら抱える「悪」のため襲撃されている、というような理由付けがあったり。
「全て悪いのはレオンでした」とすると話がスッキリするけど、単純すぎる上、彼は そんな年齢でもなかろうし(遺伝子操作で若返っており実際は百歳を超えるとか?)。


2008年9月5日 金曜日

『COBRA THE ANIMATION』01.「コブラ ザ・サイコガンVOL..1」

 漫画『コブラ』の30周年記念、という事で、企画されている一連の映像化プロジェクトの内、開幕を告げるOVA四本の第一話。
脚本・絵コンテ・監督を、原作者である寺沢武一が務める。
 好きな作品だが、「少年ジャンプ」連載以降の作品については、ほとんど読む機会が無く。
そのため、このOVAの原作となっているエピソードも、知らない。

 アニメは、これで崩れていると言うのは可哀想だけど、お金を出して買うだけの価値がある作画かどうかは、微妙。
 冒頭、電車高架下の薄暗がりで何か言ってるだけの賞金稼ぎをコブラが撃ち殺す下り。
何でコブラは そんな所に居たの?わざわざ撃ち殺すほどの相手?敵の強さも凶悪さも見せていないので、弱い者イジメにしか見えない。
 久々の「コブラ映像復帰」ファーストシーンなのだから、やるんならもっとハッタリを効かせて欲しかった。

 今作は全編ハッタリが不足していて、サイコガンを「何となく」撃つし、アクションも実は結構凄い事をやっていたりするんだけど、見せ方が淡々としているため驚きはない。
 飛び立った飛行機械が操縦不能となり、墜落する辺りの危機感の「無さ」は、凄い。
まあ、コブラは無敵で不死身のスーパーマンな訳で、何が起きても大丈夫、という強固な安心感があり、それを崩すのは並大抵じゃなかろうが。
 敵ボスの恐ろしさを、この第一話で全く見せてくれないのは、不満。
「こんな相手とどう戦うのか」と思わせ、次巻以降へと客を引っ張っていく原動力とすべきでは。
 ヒロインも、狙う宝も、説明と魅力が不足している。

 原作で先の展開まで知っていてアニメ化を望んでいた、あるいは『コブラ』そのものの大ファンである、という人向け。
 野沢那智と榊原良子によるコブラとレディの会話は懐かしく、軽口を叩きながらヒョイヒョイと危機を擦り抜けていくコブラは原作通り、なので、合わないとしたら、テレビ版放送から25年も経って、さすがに時代から外れてきたか、自分がこういう作品に求める物が変わってきた、という事なのだろう。



『ひだまりスケッチ×365』10.「まーるニンジン」

 宮子は、あんまり裕福な家庭に育ってないんだっけ?
いつもお腹を空かせて、他人様から食べ物を頂くことについて何とも思っていないみたいだけど、それはそういう個性なのかと。
 スケート靴を買ってもらった話をしていて、「誕生日に親が、なけなしのお金で買ってくれたんだよー」と笑顔で言っていたが、それは親にとってあんまり使って欲しくない表現のような…

 その親語りと引っ掛かってなのかどうなのか、今回メインは ゆの両親によるアパート訪問。
 ああ、子供をビックリさせようと突然 部屋を訪れてみるとか、友達にやたら子供のことを頼み込んでみるとか、「娘に甘い親」の有り様としてイカニモで、微笑ましい。
昔は、「子供」の立場から「こんな親はうざってえな」と思っていたような気がするけど、もう「親」の視点から、「愛だねえ」とか感じる年齢。

 宮子が粘土細工の素材として借り受ける男の子の靴を、後にイタズラする伏線として機能させているのが、上手い。
どうせならもう一度、ゆのの部屋の上がり口に置き去られた その粘土靴を見て、ゆの父が取り乱す、という展開があっても良かったろうか(髪の毛を用いては、同様のネタをやっていたけれど)。

 粘土への対処法を語っているウチ、いつの間にか自分の年齢(肌年齢?)と その内容を重ね合わせてしまい、泣き出す吉野屋先生が可笑しい。
そういえば何歳なんだろうか、この人は。
 制作された美術作品への評価は、大変に難しいと思うので、それを投げ出して授業への感想文提出で換えようとする吉野屋先生の態度も、仕方なくはあるかと感じる。
ただ、そんな事 言っていると、「学校」「授業」としては成り立たなくなってしまうけど。
それに…感想文の出来不出来で成績を付けるのは、更に難しいような。
 ゆの両親から娘をお願いされたと、わざわざアパートまで伝えに来る所とか(若干 誤解を招く言い方を含んでいたが)、型破りだし子供っぽくもあるにせよ、悪い先生じゃないな。


2008年9月4日 木曜日

『魔法遣いに大切なこと 夏のソラ』09.「初恋」

 前々から、お互いに好意を感じ合っては居たのかも知れないが…
二人だけの初デートはともかく、手を繋いで歩くのもともかく(波打ち際でキャッキャふざけて追いかけっこは、さすがに古いデート表現かと)、イキナリ朝帰りさせるのって どうだろ。
 途中の段階をかなり飛ばしているようで、これまで感じてきたソラのキャラクターと合致しない。
 いや、本当は朝帰りじゃない?
深夜があって明け方を迎えていると取れる背景描写はあるが、土産物を買って帰る直前のシーンは普通に夜みたいだし、でも指導教官二人が意味ありげな会話をしており…うーん、釣り?

 そしてすぐさま、指導教官と怪しげな事をしているソラ、それを見て強くショックを受ける豪太…という引きに繋げるのだが、どう見ても誤解のシチュエイションであり、せめてもう少し上手くやってくれないとドキドキもハラハラもしない。
 そういえばソラが熱を出すエピソードがあった事から、彼女は何かしら重い病気にかかっており、その治療(診察?)を受けていた、ぐらいの裏事情なら妥当か。
「死人を魔法で生き返らせる事は出来るのか」という、以前の印象的なセリフにも関わる?
 いっそ「誤解じゃありませんでした、先生とデキてました」、の方がショッキングだし、先の展開は読めなくなるけれど。

 ところで、公式サイトに掲載されている今回のあらすじ

> 研修最後の休日。豪太はソラを自分が育った街、江ノ島に誘う。1日楽しく海で過ごした二人だが、そこで思いがけずひよりの想いを知ってしまったソラは、つい豪太に素っ気ない態度を取ってしまう。「私は恋に向いてない……」ソラの心中は複雑だった。そんなとき、ソラに異変が起こる――。

 は、本編と相当違っているような……


2008年9月3日 水曜日

 映画『ハンコック』を見る。
 ウィル・スミス主演の、落ちこぼれスーパーヒーロー物。
 ええと、以下、内容に触れてしまうので、未見の方は御注意を。

 もっと「頑張っているのに理解してもらえない、やむを得ず出した被害なのに市民や公的機関からは常に怒られている」ような、少なくとも観客側からは「ヒーロー」に見える造形なのかと思えば、凄まじい無神経さと毎度出す被害の大きさに、驚く。
もっとコミカルなタッチであれば、被害も「まあいいや」と見過ごせたろうけど、所々重い、現実に即した描写が入るもので、どうせ絵空事と割り切れず、ハンコックに感情移入し辛い。

 それでも、ハンコックがある家族と出会い、マシな自分になろうと懸命に努力し、事件を解決していく…この筋立ては正しくて、心を掴まれる。
皆に受け入れてもらえる中盤クライマックスは、感動的ですら。
 だが、ここでまだ映画の中程。
後半は何をやるのか……ハンコックの力の秘密に迫る、彼の力でも対抗できない恐ろしい敵が出現する、それは『スーパーマン2 冒険編』のように彼の同族である、もしくは考え方を変え彼のスーパーパワーが失われ人間に近づいていく物語になる、恋をする…
色々考えられると思うけど、その色々を、未整理なまま全部突っ込んでしまったような印象。

 街で見せる大暴れは、アクションとしての見せ場であり、観客を飽きさせない仕掛けだったのかも知れないが、人の好いお父さんが全力で止めようとした行為なのに…と考えると、楽しさなど無く、彼の話の何を聞いていたのか疑問に思うばかり。
 明かされるハンコックの正体や、能力に加えられる制限事項も、「映画の中でそう言っているからには そうなんだろうけど」としか思えない強引なもので、気持ちを入れて見るのは難しい。
まあ、「スーパーマンはクリプトナイトが弱点」だって、強引と言えば強引か。

 この映画を、「落ちこぼれ超人がスーパーヒーローを目指す物語」と思って見ては間違いで、「夫婦の有り様がテーマ」と考えると、筋は通る。
そういえば、『スーパーマン リターンズ』に ちょっとだけ構成が似てるのかな。
 それにしても深かったり心を動かす部分があったとは思えず、パターン通りやっても そこそこは面白くなりそうな素材を、好みではない方向にネジ曲げちゃったなあ、という印象で、とにかく個人的に残念。


2008年9月2日 火曜日

『コードギアス 反逆のルルーシュR2』21.「ラグナレク の 接続」

 ルルーシュママンが生き残っていた(?)理由については、幼いアーニャの体内に退避して無事だった、という事で、無茶だなあとは思うけど「そういうギアス」と言われては仕方ない。
 「母が生きていた」というのは驚愕の展開だが、これだけ大きなイベントなのだから今回はそれを受けて、「母の死を憎しみの大きな原動力としてきたルルーシュのリアクション」とか「実は母こそが皇帝すら操る全ての元凶」とかいう更なるドラマの積み重ねを見せてくれるものと期待したけれど、その辺りは割とアッサリ。
そういう異様な状況下にある妻を皇帝はどう思っていたのか、自由が効かずアーニャの人生を眺めているママンは その間 何を考えていた?とかいう所への彫り込みも薄く、ううーん。

 皇帝の目的にしても、「ギアスのある世界」ではあるけれど、もうちょっと現実に即したものであって欲しかったかなあ。
目的をセリフばかりで言われても、上手く理解が出来ないし、納得はもっと出来ない。
 皇帝の不自由さがもっと描かれていれば…強大な権力を握っているのだろう皇帝であれば、こういう超常的なモノに頼る以前に成すべき事はあったんじゃなかろうか。
「過去の傷から自由になれない人間達」を描く作品でもあるので、皇帝も、「幼い頃の約束を、幼い頃夢見た形で達成することに頑なになっている」のか。

 超自然的存在にギアスをかけてしまうルルーシュ、というアイディアは凄い。
てっきり、ママンを操ってオヤジを後ろから刺させるのかと。
 ただ…うーん、「具体的に形さえ把握できない、凄いらしいモノ」が出てくると、少々熱中度は下がり気味。
智力・戦闘力を尽くしたギリギリの戦いが この作品の魅力なので、不可思議なモノを不可思議なギアスで定かには分からないけど どうにかした、という展開は、喜べない。

 皇帝もママンも こんな簡単な退場?
急に一ヶ月後?ルルーシュがスザクと組んで皇帝に?
 最後?の敵がシュナイゼルであるのはともかく、呆気にとられる展開で、アレヨアレヨ。
 確かに、障害を克服して再び黒の騎士団に返り咲くより、一応は継承権を持つ皇帝の座に着く方が、合理的…?
 「ナナリーが見つかった」とか言っていたけど、それは生きて・死体で?(掲示板でご指摘を頂きました。爆発の後のことではなく、一期と二期の間の事を指しているそうです)
この流れだとナナリーがギアス能力者で無いとは考えられず、それを使えば危機回避も容易か。
 取りあえず、次回待ち。


2008年9月1日 月曜日

 映画『ダークナイト』を見る。
 監督・クリストファー・ノーラン、主演・クリスチャン・ベールを始め、主なスタッフ・出演者は前作『バットマン ビギンズ』とほぼ同じ。
 アメリカで驚異的な興行収入を上げており、正面から否定する感想を見た覚えがないので、かなり期待して、ハードルを上げての鑑賞。

 見る前は、『スパイダーマン2』のようなモノを想像していた。
バットマンが街を守る象徴となり、人々の心を一つにしていくような。
 しかし、実際はその真逆。
バットマンの存在が、「悪と適当に共存している」街の体勢を崩し、激しい対立を生む。
それが、悪を憎むバットマンと正反対の…しかし同族の匂いを放つジョーカーを呼び込んでしまう。
 市民に理解されるスパイダーマンに対し、大事なものを失い、人々から憎しみさえ受け、負の感情を黒いスーツへと一身に受け止めていくバットマンの切なさ。

 バットマンとジョーカーが、実は紙一重だという事を、「二面性」を表すキャラクターを通して見せていく構成が、見事。
 恐怖の対象であったコウモリに、自らが変わり、街を守る「恐怖」になっていく前作のストーリーも素晴らしく上手かったけど、今作もまた、色々読み取るのに不足しない深さと、『バットマン』という作品に対する強い愛情が溢れている。

 ジャック・ニコルソン版に比べ、ヒース・レジャーによる今作のジョーカーは、救いようのない狂気を帯びており、「世に害をなす悪党」というよりは「最悪のテロリスト」と感じられて、怖い。
 次々繰り出されるジョーカーの策略(手を変え品を変え、よく考えてある)が、人々を追い詰め、平時は秘めてある悪意を、そしてある者からは善意を引き出す。
 自分の命をも平然と賭けて、「殺さなければ殺される」状況を作り上げ、他者を弄ぶ彼の有り様は、ちょっと『SAW』ジグソウにも似て思える。
ジョーカーの場合、人間の醜さを顕わにしたいのであって、助かる道を用意していない事も多いのが、人を試しているジグソウとの違いか。
 キャラクターの根幹を成す毒々しいユーモアは健在で…笑うよりは狂いっぷりにゾッとさせられるばかりだけど…道化は演じてくれる。
施設爆破の際、反応の悪い起爆スイッチを何度も押して、いざ大爆発が始まると体をビクッとさせ慌てて車に逃げ込む動作は、ちょっと可笑しく、可愛かったかなあ。

 執事・アルフレッド役のマイケル・ケインが、飄々としながら渋く要所を締めていて、好き。
生粋の執事なのかと思えば、若い頃は戦場で剣呑な仕事も遂行してたのね。ケインの役者歴にも重ねて?
 彼と、フォックス役のモーガン・フリーマンが、無理難題に「そんなこと出来ません」と決して言わない遂行能力の高さでバットマンを支えており、頼もしい。

 ジョーカーにより混乱に陥れられる街には、もう何だか言い飽きたし聞き飽きたろうけど、「9.11以降」を感じさせる緊張感がみなぎる。
 アクションの演出には迫力があり、前半でバットマンが見せるビルからの脱出アイディアには、無茶だと思いつつも感心させられてしまった。

 最後まで見ると、タイトルが、ヒーローの「バットマン」ではなく、「ダークナイト」である意味が染み通ってくる、重く、苦しく、痛く、悪を成す個人を倒し、しかし誰の心も救う事は出来ず、全てを背負って一人走り去っていく闇の騎士の背中に「漢」を感じずにはいられない、傑作。


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