ときどき日記 2011/03


2011年3月30日 水曜日

『仮面ライダーオーズ/OOO』27.「1000と映画と戦闘員」

 ムチャクチャやがな(笑)。
 平成ライダーシリーズで中盤ぐらいに一度は入る、やりっ放し馬鹿話。
今回は、放送1000回のお祝いと劇場版へ橋渡しする意味もあるか。

 ツッコミ所(ワザと設けられた)は多々あって、もう把握しきれないぐらい。
 鴻上社長のビルで何気なく働いているショッカー戦闘員…の生き残り?…には笑ったが、映司危機一髪の所を救うなど、意外な人の好さを表現する辺り、何が描きたいのか。
彼がショッカーに加わったのは、「世界征服をしたいから」ではなく、「同じ目的を持つ仲間達と頑張りたかったから」だと気が付く…ようなシミジミ展開もアリ?

 突然登場してフォローもなく引っ込む千秋・森下千里らゲストは、劇場版からの流れなんだろうな(千回記念だから、「千」の入った名前のゲストを迎えたのではないか、と掲示板で御指摘いただきました。この次の回でハリ「セン」ボンの二人が出ていたことからも、その通りみたいです)。
 バカな内容だけど、アクション部分はきっちり撮ってあって、活躍が格好良く見えるのは嬉しいところ。
 後編の更なる弾け方に期待。

 ついでに、シリーズここまでの雑感。
 バッタヤミー(仮面ライダーに憧れた宿主によるイメージなのか)が登場した話は、印象深い。
 「正義のためなら人間はどこまでも残酷になれる」というセリフの強烈さ。
ヒーロー物のカテゴリーで描けるギリギリ(まあ、平成ライダーはかなり脱線した事もやるけど)にまで挑んだ異色作。
 「そんな悪いヤツ、イイから殴っちゃえ・二度と悪事を働けないぐらいボコボコにしちゃえ」とかいうのは、割と誰でも考えるだろう事。
 どこまでが「正しい力の行使」なのか、どこから「やり過ぎ、自分の方こそが恐ろしく暴力的な存在」に変わるのか、当事者はつい見失いがち。
それは、もしかしたら日常的な暴力行使に慣れた人間より、平和を愛する穏やかなごく普通の人間の方にこそ、顕著に表れる傾向なのかも知れない。
 義を見てせざるは勇無きなり、というのは確かに真理なんだけど、「正義のための(気持ち良い)戦い」に懐疑的でいる事も、「正しい」立場に居続けるため、必要だったり。
 などと色々考えさせられる、深い話だった。

 あと、伊達がキャラとして無用なまでに面白い。
面白すぎて、本来の主役である映司の影が薄くなってしまうほど。
 伊達が登場してから、不気味な悪役側の人間かと思われた研究所長・真木が絡まれて「いじられキャラ」と化し、人間的な側面を見せ、お笑い要員に。
後藤も彼と関わる事で一皮むけた感じだし…こういう役回りは、まだ人間的に未完成な映司や、非人間的なアンクでは無理だからなあ。
 作品中で最も大人の、頼れるお兄さん。
 もしかして伊達は、ナニガシかの疾患を抱え、長く生きられない設定を持っている?(体調検査に応じない所など)
 更に妄想だけど、映司が大きな心の傷として抱えている「目の前で失われた少女の命」について、実は誤解で、医師として各国を回っていた際、伊達が瀕死の状態だった少女を助けており、その回復のため巨額の費用…一億円が必要だった、とすると、話がキレイに繋がるんじゃないかなあ、とか。
小さくまとまりすぎ?


2011年3月27日 日曜日

 WOWOWで放送された映画『よなよなペンギン』を見る。
 りんたろう監督による、3DCGアニメ。

 ペンギンみたいな格好をした女の子がヒロインなんだけど、この子は「本当にペンギン、この世界のペンギンはこういうもの」なのか「人間の女の子がペンギンのような服を着ているだけ」なのか、最初分からない。
セリフで説明されて後者だと分かるけれど…
 CGアニメでは文字通り何でも出来るため、作品世界での常識と非常識を最初に明確に示す事が必要。
 手描きのアニメなら、高いレベルのアニメーターであれば、「これは異質な服装である」という気持ちを絵の中に込めて見る側に伝えることが出来る。
CGアニメでも、もっとずっと高品質なものなら映像のみでの情報伝達が可能だったかも知れないが…

 絵本的な作品、と言うべきか。
 このアニメでは、前置きも説明もなく異常なことが起こり、それに対して少女は観客との橋渡しになるような特別のリアクションを取る訳でもない。
 あるがまま、目の前に展開される様々なイメージを喜んで受け入れられる観客(主に子供)向けの作品であって、「何故?どうして?」を求める客宛てには作られていないアニメ。
 残念ながら、この作品ではそのイメージもこちらを圧倒してくれるに到らず、最後まで見ても「いい歳のオッサンである自分が一人で見る作品ではないし、見て欲しいと思って作られてもいない」評価は変わるまいと思い、30分弱で鑑賞を終了。


2011年3月26日 土曜日

『フラクタル - FRACTALE -』10.「僧院へ」

 各勢力が命を賭けた決戦の最中、飛んできて無傷のクレインも不自然だけど、この重要な局面で指揮官であるスンダが着艦する彼らをお迎えに出ている呑気さには驚く。
 確かに、全体の戦況が分かり辛いしロストミレニアム・僧院双方共に何の作戦もなく漫然と戦っているだけの面白味がない空戦ではあるが、制作者自らが「弛緩した戦いだよ」と認めるようなシーンを作っては困る。

 背後からの攻撃を受け危機的状態であろう艦内で、突然「人殺し!人殺しだけじゃなくて自分殺しだ!…人殺しだけど仲間だ」と、演説を始めるクレインに目が点。
そんな場合なのか…この子は、というか制作者の頭の中でこのセリフはどう受け取って欲しいのか、実に不思議。
 スンダ達を人殺しと呼ぶからには、自身は何があろうと銃を持たない信念があるのかと思えば、僧院突入後は大した葛藤もなく人に対して銃口を向ける(話の都合に助けられ結局殺さないで済むが)。
 ここいら、「その場その場での描きたい物によりキャラの人格が歪められている」のか、「クレインって状況判断がまるで出来ない上、人格が分裂気味の自分勝手なガキである」として問題ない行動に描いたつもりなのか、分からない。

 フリュネの首を絞める、実は成長したフリュネ複製の一人であるモーラン。
 モーランの内面なんて描かれたっけ?
積み重ねられた行動と心理描写の結果、でなければならないものを、思いつきみたいにポンと投げてこられても反応に困る。
 フラクタル必要論・不要論についてもそう。
そのシステムが理想的にも悪夢のようにも示されておらず、「あっても良いし無くても良い」程度のものなため、そんなこと言われても……

 クレインとの約束を破ってまで彼の元に行きたいネッサ、決死の思いで(だろう、楽々に見えたけど)彼女の気持ちに応え僧院へと突っ込むエンリ、この行動の結果が、「イキナリ捕まっている足手まといの二人」という絵で表されるのにビックリ。
戦いで物語を盛り上げようという意図はないのかも知れない…他の何でも盛り上がってない…が、ウンザリするような愚挙(に描く行動)を見せるのはさすがにどうだろ。
 僧院のババア達も全員、ネッサ・フリュネ複製の老人体なのかなあ。
「それからの私は全てコピーのコピー」『ルパン対複製人間』マモーみたい。
最後には巨大なオリジナルのネッサが登場したり。


2011年3月25日 金曜日

『魔法少女まどか☆マギカ』09.「そんなの、あたしが許さない」

 少々録画が溜まっていたものを、連続鑑賞で追い付く。
 10話目はもしかして録画失敗した?と思ったけど、TBSじゃまだ放送されてないのね。
動画配信は行われているようだから見ようか迷いつつ、でもまあ通常放送まで待つかな。

 キュゥべえがこんなに大きく、ストーリーのカギを握っているとは思わなかった。
魔法少女物でマスコット動物キャラなんて、本当に添え物で大した活躍する訳でもないから。
 似てるのは、『ぼくらの』のコエムシか…アレは「マスコット」と言うには余りに邪悪で可愛げのカケラも無かったが。
 ラブリーな顔・声で、何の悪気もなく、責め立てられても決して感情的にならず(感情が無いからだけど)、淡々とゾッとするような事を喋るキュゥべえがステキ。
 魔法少女達は、やがて魔女になっていく宿命を背負っている、と明かされる辺りは、ゾワゾワっとする恐ろしさと面白さ。

 どんな願いでも叶える代償として、魂(感情エネルギー)を要求する、という意味では、キュゥべえ達の種族は「悪魔」と似ている。
 しかし、こんな手間を掛けてまで回収したくなるほど、感情が崩落する際に放つエネルギーは大きいのか。
まあまあぐらいのレベルでは、費用対効果に見合わないような。
「治る見込みがなかった少年の体を治療する」ため、引き替えに使うエネルギー量も相当なものだろうし。
 物理的に宇宙に影響を与えない、熱でも光でも運動でもない(一気に転落するところからは、感情的位置?)不可思議なエネルギーは、手間に換えられない価値がある?

 キュゥべえ達の種族が、エネルギーを何に使っているのか、にも寄るか。
それを再変換して冷暖房したり車を走らせたり、という事ではなく、直接彼らの体に取り込んで生体エネルギーに換えたりしているなら、量よりも「質」あるいは「味」が優先されるかも知れない。
 感情を持たない彼らにとって、強烈な感情変化のエネルギーは、嗜好品や麻薬にすら似た「娯楽」を提供してくれるものだったり。
 そういう俗な話でなく、エントロピー増大を押し止め逆転させる唯一の方法として、宇宙を救うのに用いている?

 他の魔法少女を普通の人間に戻してください、って願いも有効なのかなあ。
だったら、少し前に魔法少女になった少女を元に戻す、という願いを次々続けていけば、エネルギーの持ち出しばかり多くなってキュゥべえの経済システムが破綻しそう。
 いや、いっそ「死んだ魔法少女を全員元通りに生き返らせて」「今後、地球人に一切の手出しをしないで」「キュゥべえ種族を絶滅させて」とかいう願いを言ってみたらどうか。
『ドラゴンボール』神龍のように、自分の力(権限?)を越える願いは叶えられなかったり。
「それは無理だよ」ぐらいにアッサリ流されるだけかも。

 さやかは、もう人間(魔法少女)に戻ることなく お終いなのかな。
 心が塞いでいく様子は辛かったが、「これだけの代償を払った自分を選ばない・愛さない幼なじみ少年を憎悪し害そうとする」ような最悪の展開にまでは到らず、僅かな救い。
 彼女と杏子が相似しつつ対になって、二人共に消える最期は、悲壮でありながら制作者による救済の意図をも感じさせ、何とも言えない後味。

 違う時間軸、という概念が登場するとは思わず、意外。
 これを用いれば、「夢オチ」的にハッピーな終わり方へと導くことも出来そうだけど、このアニメがそういう方向を目指すかは疑問。
 でもまあ、「可愛いだけのキュゥべえが居て、明るく楽しく前向きな『アリガチ魔法少女』の活躍が見られる違時間世界(OPで見られるイメージのような)」を示して対比するのは面白そう。


2011年3月24日 木曜日

 危ないから水道水でミルクを作るな、等と言われ、ヨメがちょっと不安に駆られオロオロ。
水のペットボトルなんか、そうそう買い置きしてある訳もなく。
 このまま数値がガンガン上がっていくならともかく、そうでなきゃ必要以上に気にせず普段通り様子見で良いみたい。
 しかし、あの政府発表と一部マスコミの報道じゃ、ペットボトル水の買い溜めに走るのも無理ない。
「水道水に毒が入ってるぞー」ぐらいの勢いだったから。

 ヨメと、困ったもんだねーとかブルーな顔で話している時、ふと見ると、自力で立ち上がった娘が一歩、二歩、三歩と歩行。
 これまで、手を引いてやる事では歩いたし、自分で足を踏み出そうという努力は見られたけれど、こんなに長く、割合安定した格好で歩いたのは初めて。
 ヨメと、声を上げて大騒ぎ。
子供って凄い!

 昨日は、ほぼ喃語(ウニャウニャいう赤ちゃん語)しか喋れなかったのに「ニャンニャンねーこ」「マーマ」「パーパーパ」と意味のあることを言ってみたり(まだ、その単語が意味するところは分かってないらしいが)、突然の急速な進歩。
 そういえば寝返りもハイハイも前触れ無くイキナリ出来るようになったし、子供の進化って、親が油断しているウチに「えっ?何で急に?」という形で訪れるのかも。
 暗めの気分も吹き飛ぶ出来事でした。


2011年3月21日 月曜日

 娘が床に座り込み、何やら紙をクシャクシャしてるので、ゴミ箱から拾い上げたものかとよく見れば、千円札。
宅急便が来るのに備え、机の上に置いておいたのを抜き取ったらしい。
 慌てて「これはダメよ〜」と取り上げると、ギャン泣き。

 替わりに持たせる物として、お菓子の紙製空き箱を渡すが、泣いて受け取らない。
 単行本のオビに付いていた紙、これならお札と大きさや感触が似てるだろう、と思い差し出すが、泣いてソッポを向く。
 他に……と見回すと、宅急便支払用の百円玉が。
コレは形状も感触も全然違うし無理だろうな…と思いつつ見せると、パッと掴んで泣きやみ、若干不服そうながら首を傾げて眺めている。

 金か!結局金なのか!
 紙幣や硬貨の意味なんてまだ分かるはず無いんだけど。
手渡す親の表情や雰囲気から、「価値のあるものだ」という事を読み取ったのかなあ?
 将来がコワい。


2011年3月19日 土曜日

『フラクタル - FRACTALE -』09.「追いつめられて」

 シェルター?に隠れ、無事だったクレイン達。
 死ぬ訳はないので妥当な続き方だけど、フリュネの膝で眠っているのは隠れ場所を教えてくれたクローン幼フリュネ(ネッサ姿)だとばかり思って見ていた。
服が違うし、彼女は、爆発に巻き込まれて死んだのか。
 クレインがそのことをまるで引っ張っていないよう思えるのが、不思議。
泣いて喚いて落ち込まれるのもウザったいけれど、僅かなりとリアクションはあるべき。

 「人を殺したんだろう」と言われて狼狽するエンリが不思議。
 前回の襲撃で僧院の研究所?を壊滅に追い込んだのはスンダ達じゃないが、その前の儀式急襲の際、少なくとも「僧院側のババアを皆殺しにする勢いだった」「一般市民に死者を出すことも厭わなかった」のは確かで。
 そこを踏まえて、エンリが「殺したから、何?」「悪いヤツらだから殺したのよ」とか言わせると、殺伐とした、救済が難しい物語になるのもまた確か。
 あの敵味方にバカバカ死者を出した儀式急襲イベントは、緩い物語をハッとさせる役割を果たしはしたけれど、それ以上に後の展開に説得力を失わせ、閉じ方を困難にしてしまったと思う。
ハッキリと殺人シーンを見せる厄介さ、について、余り考えずやってしまった、としか。

 フリュネのことを好きだと叫ぶクレインに、なるほどとかやっと言ったな、という同意の感情はとても抱けず、「なんで?」と思わせてしまうのが、この作品最大の失敗。
そこまでフリュネと感情的交流があったとは感じられないし、神の目で見る視聴者視点でもそんなに魅力的な少女ではないから。
 クレインの気持ちに説得力を持たせるのが、ここまでのシリーズで最も大切な事だったんじゃないのかなあ?
 結構な関わりを持ってしまった美少女であり、彼女のため厄介に巻き込まれてしまったけどそのお陰で目が開かれたのも確かで、放っておくと酷い目にあわされそうに思え、「フリュネとは自分にとって何なのか」分からないからこそもう一度会いたい、ぐらいが理解できる限界。

 出陣に臨み何故かクレインに好意を示すエンリも同じ。
制作者の頭の中では整合性が取れている、良いシーンですらあるのかも知れないが、コチラは「そんな要因あったっけ???」。
 グラニッツ一家出陣、テロ組織の飛空挺勢揃い、もらった一軒家でくつろぐクレインら、の場面で切ない感じの挿入歌が流されるけれど、どう受け取れば良いのか、受け取って欲しいのかが分からない。
 「パターンに思えるから嫌」かも知れないが、物語やキャラクターを描くには踏んでいかなければならない地道な段階、というものがあって、そこを飛ばした上でしかし「ちょっと良いシーンだけは見せておきたい」というワガママをムリヤリ通すと、こんな感じになる。

 どう終わらせる作品なのかと思っていたけど、僧院とロストミレニアム側の総力戦、攫われた(自ら出向いた)フリュネの奪回、恐ろしく小物な悪オヤジとの対決、という大きなイベントが組まれたので、カタは付けられそうだなあ。


2011年3月18日 金曜日

 震災被害の もの凄さに、ショックを受け続ける日々。
 仕事の大詰めもありつつ、電力供給危機が続き、録画番組消化とかここの更新を躊躇っておりました。

 東京での生活上も、買い占めなどにより物資が足りないところアリ、不便。
 特にパン…娘は食パンが大好きで、シチューに漬けたりチーズ挟んだりするのもだけど、素の状態の食パン(素パンと呼んでいる)でもパクパク食べる。
しかし、パン屋には何故か食パンが無い、菓子パン・調理パンならそこそこあるのに。
 娘は、滅多な物を食べさせられない段階のため(まだアレルギー要注意だから)無理だが、普通の人々は食パンで「なければならない」理由はない…と思え、不思議。

 なんていうのは随分と甘えた話で。
 多くを失い、何もかも欠乏し、寒さに耐えている被災地の人達を思えば、こんなもの どーでも良すぎる。
 原発関係も、どうにか収まるとイイなあ。


2011年3月11日 金曜日

 大地震。
 ウチは家族全員、犬まで含み、ケガ一つ無く大丈夫でした。
家の中は大変なことになっておりますが。

 どうぞ、皆様ご無事でありますように。



『フラクタル - FRACTALE -』08.「地下の秘密」

 元ネタを宮ア 駿アニメや『ナディア』に頼っている、と思われたこの作品だけど、ここで『エヴァンゲリオン』綾波ネタか……
 オリジナル、のつもりなのかなあ?
今、しかも大量のコピーを提示して存在不安を示し、「私が死んでも代わりは居るもの」的にクローンを描いては、『エヴァ』に関係なく受け取ってくれと言う方が無理。
 まだ物語の途中なので判断は出来ないが、クローンに「しなければならない」理由はあったんだろうか。
ズラリ並んだコピーの一人に過ぎない、なんて設定が無くても、『ラピュタ』シータは、数奇な出自や背負った過酷な運命、それらに関わりなく自分を自分と認めてくれるパズーに出会うことで生まれる希望、といったものを描き切れていた訳だけど。

 ただ、これで随分と話は分かりやすくなった。
 実体ネッサ(幼いフリュネ)の成長した姿が、クレインと行動を共にしているフリュネなのだろう。
初登場の際、フリュネが飛行機体から飛び降りたのは、「私が死んでも代わりは(以下略)」という気持ちによるものか。
後に現れた(現在も一緒に居る)フリュネが、初登場時と繋がっていないような思考や行動を見せるのは、実際別個体(ある程度の記憶共有はあり)だからかな?

 僧院側の父親は、フリュネと本当に血が繋がっていないのか、遺伝子提供者ではあるのか。
実の父親の方が、娘にイヤらしく執着する気持ち悪さは強くなりそう。
瓦礫の下敷きで死んだ?…さすがにそれは無いよね。
 スンダやエンリ、まだそんなにクレインと親交が深まっていたとは思えないけど、命懸けの救出行へ。
まあ、「身内に甘い」性格は示されていたし、フリュネ・ネッサ共にクレインが居なければ船に留まる理由を持っていないから、彼の奪還は必須なのかな。

 手のケガに布を巻いた幼フリュネが入った容器を、渾身の力で止めようとするクレイン。
炎の中に立ちつくし、行くべき方向を指し示しながら、「特別」な自分にしてくれた巻布を抱きしめるように微笑む幼フリュネ。
 演出と作画には見所があった。
 「何々に似ている」という所は置いといて、このぐらいの物語的な動きが早くからあれば、視聴脱落者をだいぶ抑えられていたかも知れない。


2011年3月9日 水曜日

 漫画家でありアニメ監督の村野守美、逝去。
 『カムイの剣』キャラクターデザインも強烈だったが、自分にとっては、何より映画『ユニコ魔法の島へ』の監督。
公開当時、劇場で見て、色と動きと音楽で表現するアニメーションの魅力が横溢する内容に、感動したのを憶えている。
子供達が大いに湧いていた劇場内の雰囲気も、忘れがたい。
魔法使いが不気味ながら面白くて、落書き帳に真似して描いたなあ。

 漫画家としても優れた作品を残して逝かれたが、もっと監督としてアニメを手掛けて頂きたかった。
 ありがとうございました。
 ご冥福をお祈り致します。


2011年3月6日 日曜日

 WOWOWで放送された映画『コララインとボタンの魔女』を見る。
 『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス(よくティム・バートン「監督作品」と勘違いされる)』『ジャイアント・ピーチ(大好き)』のヘンリー・セリック監督が手掛ける、人形アニメ。

 人形が驚くぐらい滑らかに動き、表情豊かで、セコい所の見当たらない美麗なセットを組んであるため、最初は「CG?」と思ってしまう。
 アナログな暖かさや良い意味での不自然さがあって差別化できているけれど、その辺はCGでも故意に入れればこの先まるで不可能な表現でもなく思え、今後、恐ろしく手間暇の掛かる人形アニメが どうやって独自の魅力を発揮してCGと差を付けていくか、難しいところ。

 物語自体はそんなに意外なものでもないが、世界観の構築やコララインのキャラクターがとても良く出来ており、色彩設計まで含めた画面の美しさもあって、内容にググッと引きずり込まれ、楽しく見てしまった。
 ダメダメな現実の人間達と、凄い・理想的な夢の住人達の対比が面白い。
ババア二人組の「本当の姿」には、笑ったり感心したり某アニメ化された漫画を思い出したり。

 コララインの両親は さして裕福でなく、いつもライターとしての仕事に忙殺されて、娘に割く時間が限られている。
娘を愛していない訳ではないのだが、彼女を受け入れる余裕が無く、「邪魔」にさえ思うことが度々。
 この辺、凄くリアルで身に詰まされる。
ヒマな時はともかく、ギリギリ追い詰められた状況では、娘の幼い・意味がない「戯言」なんか聞いていられない気持ちになって、仕方なかろうと思ってしまうため。
 〆切最終日に到っては、娘に対し「一日中寝ていてくれないものか」などと酷いこと考えるし。

 ボタンの魔女は、悪役として描かれているけれど、凄く寂しいキャラだと思った。
 コララインの魂だけが欲しいなら、最初に会った時から(コラライン両親のように)閉じこめて強奪することも出来たろう。
 でも、美味しい料理・全てを受け容れる物分かりの良い態度・楽しい時間を与えたのは、騙して懐柔するため、もあったろうが、ウソでない本当の愛情が欲しかったからじゃないかなあ。
コララインが寝入るまで、ベッドの側に腰掛け、優しい笑顔を浮かべて見守っているシーンなんて、ちょっと胸が痛くなる。

 魔女も、コララインも、愛情を求め、他者に要求するモノばかり大きいという意味では似通っている。
その前に、自らを省みて変えようとする努力が不足しているところも。
 それは人の業だと言え、愛犬が死んでも側に居ることを要求するババア二人組・トビネズミに無理な芸を仕込むボビンスキーの強欲さにも通じる。
 ボタンの目は、現実を見えなくさせ、勝手な理想ばかりを見続けさせる力があったのでは(魔女の「余所の子でなく、私と繋がった娘になりなさい」という気持ちもあろうが)。
コララインは、美しいばかりでない現実も直視し、受け入れ、努力により変えていこうとする気持ちがまだあったから、逃げ出すことが出来た。

 娘が大きくなったら、見せてやりたい。
 どう思うかなあ、「ボタンの目にさえしなくて良いなら、ダメダメな両親なんか捨てて魔女とずっと暮らしてもイイ」とか思われたりしそうでコワくもある。
 「代償を何も求めない愛情は、だから無限に与えられるはずがなく、ほとんど親からしか貰えない恐ろしく貴重なもの」…なのかも知れない、などと考えてみたり。



『フラクタル』07.「虚飾の街」

 前回、今回と、いくらかストーリーが動き出したように思え、だいぶ離れかけていた集中力も戻ってきた感じ。
 ただ、こうなると「フラクタル」という特殊な、扱い切れていない設定がネックになっている。

 一人で気ままに楽しく過ごしているのかと思えば、えらく悲惨な境遇に追いやられている(選んでいる)クレイン父。
 彼は、どうしてあんな事やり続けてるんだろ?
いや、一応は目的を語っていたけど納得できる内容でなく。
 そういう人間である父が、息子を放置しているのは不思議。
息子が暮らすフラクタル街も崩壊してしまってたら、どうするつもりだったのか?
 今回描かれたようなフラクタル大都会で、何らかの才能を認められ、自分一人面白おかしく過ごしている…ぐらいの典型的「酷い父親」イメージだったんだけど。
 他に女を作って蒸発したものの、女に捨てられ一人になっても今更家族に合わせる顔が無く、うらぶれた街で暮らす父、というのが近い像?

 結局、クレインは男の正体に気付かなかったみたいだが、父の方はどうだったのか。
当事者二人を曖昧に終わらせておいて、勝手にフリュネが真実に気付いてしまう、この終わり方も「どう受け取って欲しいのか」不明確。
 「解釈や意味付けを見た人に任せる作り方」……かなあ。

 今回。
 あれがほぼ完全にフラクタルが機能している街?
被せたバーチャル映像と現実の間に齟齬があり、楽しそうというより、危険でこんなとこ住めない、としか。
『電脳コイル』でもそういうシーンがあったけど、アレは余りに古くなり人も来ない場所で、やむを得ないと思えたが。
 フラクタルも、データ更新が数十年(百年?)単位で行われていないのか。
そうなると、段差でコケて骨折したり下手すると死ぬ人間が出そう…とても楽しい街に思えない。
 だから、金持ちは街を出ている?
牧畜して自然に近い環境で生きるのは、決して「優雅」とばかり言えないような。
 バーチャル映像が消えた途端、街中に人の姿が全く無くなってしまうのは、第一話のバザーもそうだったけど、何故?
面倒臭いことは勿論、整えた街中で楽しく快適に生きることまでドッペルに全て任せ、絶滅に瀕している(生殖行為もなくなって)残り僅かの人間は、どこかでクレイン父のように苦難の道を歩んでいるのか。

 人型(鎧型)ロボットが登場したのは、初めてだっけ。
フラクタルにより誤魔化している街で実務を担当しているのは、こういったロボットなんだろう(アレは実物だよね?)。
 クレインを撃った銃は空中にポンと現れたように見えるけど、実物?バーチャル銃?
ネッサに触ることも出来るんだから、クレインの体内機構に「銃撃された」誤信号を送りさえすれば、本当に撃たなくても殺せたりするのかな。

 電脳バーチャル世界に『電脳コイル』のような魅力がないため、いっそフラクタルなんて設定やめてしまえば、とか思ってしまう。
『未来少年コナン』イタダキで、インダストリアとハイハーバー対立の図式をそのまま持ち込めば、遙かに分かり易くなりそう。
そうなると、キャラや物語自体の弱さが よりハッキリしてしまうだろうが。
 不明点も不満点も多いけど、とにかく話に動きが見えたので、最後まで見続けられそう…かな。


2011年3月4日 金曜日

『ドラゴンクライシス!』08.「危険なテスト」

 ローズの、保護欲をかき立てるキュートさが目に沁みる、正統派ジュブナイル。
 今回、新登場した迷惑な研究馬鹿・ビアンカの性格付けも、彼女が巻き起こす騒動も、予想を大きく超えるものではなく、しかし決して悪い内容でもなくて、実にスタンダードなストーリー。

 危機を救ってくれた竜司の姿に、幼い頃のビアンカを助けてくれた竜司父(多分)が被る辺りに、彼女の行動動機や好意発生ポイントがありそう。
もっと踏み込んで欲しかったけど、隣の部屋に越してきてレギュラーに加わるようだから、まだ彼女が魅力を増すイベントは取ってあるのかな。
 作画的には、剣のパワーを発動させ、一太刀で巨大な敵を破断する竜司の迫力と、落ちてきたビアンカを空中で待ち、受け止めた反動で回転しながら飛び去るローズという「ビアンカの重さ・ローズの軽さ・発生させている不思議な飛行力」を感じさせるシーンが素晴らしく良くて、感心。

 前回「狼たちの真実」で描かれた、狼少女アイとマスターの関係も、「信じ切っていたマスターが実は自分を酷い境遇に追いやっていた悪辣な男だと知り、怒りを燃やすアイ」という、まあ分かり易い筋立てで、いつも通りかなあ、と思ったが…
 それでも危機に陥ったマスターを気遣い駆け寄るアイと、最期に彼女の気持ちを解き放とうというのかウソをつくマスターに、「信頼」でも「愛」でもない、「良い話」と言うのも憚られる、うーん何だろ、一言では表せない複雑な人間の有り様が感じられて深く、沁みる。
 ここだけでも、このアニメを見てきた甲斐があったなあ。


2011年3月3日 木曜日

 ようやく復調。
 ずいぶん休んでしまい、これじゃホントに「ときどき日記」だなあ。
ヤクザな漫画描き稼業だけならともかく、パパ業まで加わっては、自由に使える時間が少ないこと少ないこと。

 ニンテンドー3DSを購入。
 ああ、こう見えるんだ。
立体と言うより、奥行きがあると言うべきか。
『アバター』なんかもそうだった。
 昔のメンコとかシールであったような、レイヤーを重ねて擬似的に立体に見せる手法、アレに近いような。
 レイヤーの重ね方によって近い遠いを感じさせてはいるが、一枚のレイヤーの中では遠近感を出すのが難しいようで それぞれは平面にしか見えず、現実の立体感とはまるで違う不思議な見え方。

 元から本体に入っているソフト、人の顔を取り込んで標的にし、現実の部屋風景を背景にシューティングさせてくれるゲームが楽しい。
 カード情報を読み取って行うゲームも、なかなか新感覚。
 3D写真が撮れるのはイイなあ。
あと五千円高くなっても良いから、解像度を上げてくれると嬉しかった…トイカメラぐらいの用途で使って欲しいんだろうが。

 ソフトは、「リッジレーサー」を購入。
 確かに立体を感じさせてはくれるけど、レーシングゲームが得意な訳ではない事もあり、コースの把握が楽になり走りやすいとかそういうことは別になく、「視覚効果が新しいレーシングゲーム」としか言い様がない。
 グラフィックや音はDSから大きく進化しており、まあそれだけでも価値はあるか。
 今、ウチのDSは、「ジップロックに入れて風呂へ持ち込み、湯に浸かっている間 遊ぶ」のがメインになっているけど、さすがにまだ3DSを持って入る度胸はないなあ。

 特殊機能を活かした、新しいソフトの登場を待ちたい。
 バーチャルボーイには、「遊んでいると視力が良くなる」という都市伝説(?)があった。
3DSでは無理なのか。
 画面内にホントに距離があるのなら、近景・遠景を切り替えて見せて筋肉を鍛え直したり出来そうだけど、ウソだからなあ。
 立体視で視力回復する、って話もあるから、不可能でもない?


ときどき日記・目次へ

11/02の日記を読む