ときどき日記 03/08(後)

2003年8月31日 日曜日

『機動戦士ガンダムSEED』46.「たましいの場所」

 圧倒的だったはずの種割れ状態フリーダムとジャスティスが、今回は押されまくっていたのが不思議。
長時間の種割れは、キラ・アスランの体に負担を強いるとか?
 言ってしまえば、フレイのカプセルを奪い合う展開に、緊迫感を持たせる都合によるんだろうが。

 フレイのカプセル争奪戦は、結構ハラハラしながら見てしまった。
 特に、フリーダムがボコボコにやられる所など。
『0083』第5話で、装備不足もあり宇宙で袋叩きに合うガンダムの姿を思い出す。アレでも顔面を破壊されていたし。
 ただ、キラが回収するのが必ずしも良い結果だとは思えなかったので、複雑。
ラクス勢は何と言っても弱小勢力であり、全滅の恐れさえある。
加えて、キラの気持ちが今は まるでフレイには無い、と知らされに決まっている、居心地が悪いだろうアークエンジェル艦内に収容されるのが幸せかどうか、という問題もあり。
 かといって頭の悪い小物に牛耳られている連合に迎えられるのも不幸だろう。
 いっそ、何も知らぬうちにディスクごと宇宙の藻屑と消えた方が…とか、極端な事まで考える騒ぎ(笑)。

 フレイは、一時期、物語の行く末さえ左右しかねない強烈なキャラクターだったのだが、誘拐監禁・解放を通じて、すっかりアクが抜け、影が薄くなってしまった。
 それで、物語として得たモノは、今のところ「ニュートロンジャマー・キャンセラー」の技術が入ったディスクのみ(コレで核攻撃が可能になったのだから、大きなターニングポイントではあるにせよ)。
 こんなモノ、無線にでも乗せてデータ転送した方が早いし、カプセルにディスクだけ積んで打ち出しても済んだだろう。
何考えてるんだクルーゼ?
 クルーゼを父親と間違えたフレイの行動は、きっちり謎解いてくれるのかなあ?
もしか父親だとすると、フレイとフラガは兄妹だという事になるんだが。
残り話数からすると、放り出しっ放しになる恐れも。

 うんざりさせられたポイントは、帰還してオイオイ泣き出すキラ。
ナニを泣く事があるんだか、サッパリ。
 上記したように、多少なりと冷静に考えるなら、自分の元にフレイを連れ帰った所で彼女が幸せを得られる可能性など、酷く低いと分かりそうなもの。
 自分の出生の話についても、泣くほどショッキングとは、第三者の立場からは思えないし。
 ラクスの同情を引きたかったとしか。
 メタ的に言えば、製作者側から「泣いてるキラ君って可哀想ー、見てるあんた達も可哀想だと思いなさいよ!」と強要されているようで、かえって覚めてしまう。

 戦闘そのものは、無理を感じつつも面白いんだけどなあ。
キラの心情・行動が正面に出てくると、途端に画面から気持ちが離れてしまう。



『十二国記』45.「東の海神 西の滄海 転章」

 聞いた限り、これがシリーズの最終回となるようだ。
 最終章、面白くはあったのだが…
 とにかく駆け足で物語が進むため、善政を敷いていたはずの指導者の非道な内面が見えてくる所とか、逆に いい加減なヤツと思われていた指導者の正しさが表れてくる所など、もう少しじっくり描かないと、「いいヤツかと思えば悪いヤツでした」という あらすじを見せられているようで面白味を感じ取りきれず、物足りなさばかり感じてしまった。

 総集編といえる この最終回で、ナレーションを使って取りまとめ、僅かずつ要素を付け足す事で、全体の印象はかなり良くなったけれども。

 それにしても、面白い作品だった。
 原作の力が大きいのだろうが、余所では目にした事がない独特の異世界観や、特異な風習・人間関係から生じていく事件を、確かな説得力を持って描き出し、強く内容に引き込むシリーズに出来ていたと思う。
 もっと見たい、というのが正直な所。
しばらく間をおいて、スペシャルや短期シリーズといった形での復活を望みたい。



『高橋留美子劇場』09.「茶の間のラブソング」

 ううう、いい歳したオッサンには染みる、泣きたくなるほどキツイ、しかし優しい話で、30分間すっかり入り込んで見てしまった。
 高齢化社会の到来に伴ってシニア向け雑誌の需要が見込まれているけども、こういう作品であればそのニーズに応える事が出来るんじゃないだろうか。
 というかまあ、有り体に言って「高橋 留美子先生は何を描かせても巧いよね」という事だけど。

 夫婦、見合い結婚であり愚直な旦那は遊びに連れて行く事も少なかったろうから、心残りなのは、楽しいデートの思い出が欲しい、とかそーゆー事かと思ったんだけどな。
同じようなネタを、『うる星』で、幽霊少女との真夏のデート、という形にして既に描いているか。
 高橋先生は、特に今回見られたような不器用なオジサンに、優しい視線を向けた作品を創られる事が多いように思う。


2003年8月30日 土曜日

『住めば都のコスモス荘・すっとこ大戦ドッコイダー』07.「「妹LOVEでドッコイ」」

 ギャルゲー大好きなマッドサイエンティストじじいの、「妹とは、生まれた時から共に暮らし、誰よりも互いをよく知る存在であり、しかも兄には絶対服従、更には家族という何よりも強い愛情と、禁断の関係という背徳感が 一層強い絆となる。コレは他人の女では決して得られない歓びなのじゃ!それがお前らには分からんのかあぁ〜っ!!」という熱弁に踊らされ、アパートの女性住人が「妹萌え」を最大の武器と勘違いして鈴雄に迫るお話。

 何がビックリしたと言って、劇中に出てくるヤバ目のギャルゲーがまるっきり『シスタープリンセス』であった事。
一応ゲームタイトルは『Thirteen Sisters』と、ちょっともじった上に1人増やしてあったけども(その1人は、最初のアニメ版で監視役に付いてた子かな)。
 「おはよう、兄チャマ」と起こしに来るのが四葉。
 「兄君さまと一緒にお買い物なんて、幸せですわ」と春歌。
 下着姿で登場するのが咲耶。
 雷に怯えお兄ちゃまに抱きつく花穂……
 名前も姿も声優さんも、ほぼそのまんま。
いや、本家よりもサービス精神が旺盛かも。
 『シスプリ』の原作者は、自作品の管理に非常に厳格、と聞いて居るんだけど、これはオッケーだったんだろうか?
さすがにここまで許可も取らずに出来る訳が無し、メディアワークスつながりでクリアしたのかな。

 そのゲームをやっている主人公を見た小鈴が、「普通の健全な男の人ならこんなゲームやる訳無いし…」とかムチャクチャな事を言ってるんだけど、ココまで含めて許可済み?
 こういうギャグ(パロディー)は、ギリギリであるほど楽しい。
そういう意味では、一杯一杯の所まで暴走して見せた今回は、この部分だけでも見応えがあったと言える。

 すっかり乗せられてしまい、「妹」になって現れるヒヤシンスとエーデルワイス。
ヒヤシンスは さすがに無理があるというか「兄」より年上という時点で『Zガンダム』のロザミア・バダムを思い出してしまったが、エーデルワイスなら「お兄ちゃん・アタック」も十分に有効ではないだろうか。
少なくともオレには有効(笑)。

 実の妹には勝てないと思い込んだ、エーデルワイスの操るゴーレムが放つビームが、高層ビルを3つ連続で貫いていく所など、バカバカしい、どうでも良い所だろうに、非常に力が入ったシーンになっている 細かなこだわりが嬉しい。
 主人公の熱弁で我に返る女達…って、そんなに説得力があるセリフ言ったか(笑)?
アレはまあ、切っ掛けに過ぎなかったのかね。

 ラストの、年上教師萌えとしてチラッとだけ登場する「風見みずほ」先生の声を井上喜久子にアテさせる無駄な豪華さも楽しい、何だか凄い話だった。



 映画『ハルク / HULK』を見る。
 田舎では放送していなかったし、スーパーチャンネルなどでも流されていないので、テレビシリーズは見た事無いなあ。
原作コミックも読んでないし(概略は知っている)。
 監督は『いつか晴れた日に』(未見)、『グリーン・デスティニー』のアン・リー。

 2時間以上ある映画だけど、とにかく最初の1時間ぐらいまでがダルい。
よく分からない上につまらないドラマを延々と見せられるばかりで、眠くなってしまう。
 全体に、物語やキャラクターは、どうこう言うレベルに達してないと思う。

 特にキャラはどいつもコイツも破綻した奴等ばっかり。
 主人公のオヤジが異常者なのは、まあ構わないけども…
 ジェニファー・コネリーのオヤジ、主人公が 危ないヤツだったそのオヤジと同じ研究に従事しているのに放っといて、しかも娘との交際も無視していたのに、突然に「娘に近づいたら殺す」みたいな事を言い出すのは どーゆーつもりなんだ?(それまで存在を知らなかったとか?)
ラストの悲劇(喜劇?)も、ひたすらこのオヤジの判断ミスによるモノだと思うが。
 ジェニファーぐらいはせめて、「マトモ」側でなければならないと思うんだけど、娘である自分でさえ大切には扱ってくれない軍人オヤジに、平気で何度も主人公を売り渡し、彼の行く末も確かめないままに見捨てて家に帰ってしまうが、その割には平然と主人公に愛を語ったりする人格破綻者で萎え萎え。
いやまあ、美しいから かなり許せたりはするか(笑)。

 話の語り口や人物描写は、この監督、『グリーン・デスティニー』でも上手くなかったからなあ。
期待する方が間違い。
(追記・ダーク・ディグラーさんから、「監督は本来、語り口も人物描写も確かな作品を撮る方で、『グリーン・ディスティニー』や『ハルク』の監督をするのが異色」というご指摘を頂きました。この2作以外見ていないのに、勝手な断言をして申し訳ない)
 で、正しく期待すべきアクション描写。
これは、やはり面白い。
 重力やら体重を無視して、ひと飛びで数百メートルを、スーパーマリオばりに軽やかな跳躍能力で移動するハルクには、大笑い。
 何しろ限界のない怪力を持ち、傷を負っても瞬間に治ってしまう回復力を備え、超高速で移動、しかも、スーパーマンのクリプトナイト、ウルトラマンの変身時間のような能力制限事項が取り立てて無いため、戦車とか戦闘ヘリと戦ってくれても「負けるのでは?」というドキドキハラハラなど全く感じないが、さすがにアン・リー監督と言うべきか、ハッタリを効かせまくった馬鹿馬鹿しいほどのアクションの迫力は、見応えもカタルシスも十分!
 井筒 和幸監督なら、「こんなCGがバタバタしてるだけの映画、ダメに決まっとる!」と全否定の評価をするかも知れないぐらい、ハルクもメカもCGで描写されているんだけど、そこに拒否反応が現れない人間なら、笑って楽しめるかと。

 親子の相克とか、どうせ描き切れやしないドラマ部分をキッパリ切り捨てて、あと30分短くしてくれれば ずっと見やすくなった映画だと思う。


2003年8月29日 金曜日

『ボンバーマンジェッターズ』48.「激突!?ジェッター星!」

 ゼロは、マイティの記憶や思考形態を持ちながら、しかしマイティではない機械の体を持ったアンドロイドであり、その内には「マイティを殺した」記憶すら存在している。
 …こんな複雑なキャラ、よく説得力を持って描けるなあ。
 適当な所で誤魔化さず、シロボンとの会話一つ一つを通じて、その位置や生じた距離を確かめていく様子には圧倒されるばかり。

 ゼロが、自分にとって既に唯一の「兄」である事を理解しながら、受け容れる事が出来ないシロボン。
 ゼロに「ゼロさん」と呼びかけながらも、「ぼく、ジェッターズに入ってこうやって兄ちゃんと一緒に居るのが夢だった…夢だったんだ!」と、ギリギリ兄と認めたい切ない気持ちを見せるシーン。
またそれが、ゼロと一緒に居られて「夢が叶った」部分と、実体としての兄の死によって「夢のままに終わる」部分を同時に意味すると伺わせる辺り、鳥肌が立つぐらい巧い。

 絶対の危機に、チョイチョイと座標を修正出来てしまうのはどうか…と思ったけど、ゼロの存在と、タイムリミット一杯まで あがき続ける勇気は計算外で、そこまでの防御措置は講じていなかった、という事かな。

 面白い。
シリーズとしても、綺麗な終わり方を見せてくれそう。


2003年8月27日 水曜日

『スクラップド・プリンセス』19.「母の嘆きの無言歌」

 隣り合った牢獄に入れられた母娘の、母はそうと気付いて、娘・パシフィカは知らないままに交わす言葉が、次第に、確かに親子のものに変わっていくセリフの運びが見事。
「もう、誰かを好きになる歳になったのね」、という母の言葉の深さたるや!
 じわじわと盛り上げられた感情が、「お母さん!」というパシフィカの絶叫でクライマックスを迎える構成も素晴らしく、ホロリと来てしまった。

 惜しいのは、投獄された母親が死を目前にしている状況について、事前の情報がちょっと足りなかったかなあ、という事。
唐突に感じられて。
 娘を庇った妃(きさき)に、狂った父王が厳しく当たったのだろう、と想像は出来るんだけどね。

 辛い展開が続くけれども、ただ嫌な気分にさせるだけではなく、解放や救いをきちんと設けてあるのには感嘆。
 面白いや。



『おねがい☆ツインズ』06.「恋愛同盟」

 なるほどねえ、これが、特に『シスタープリンセス』に代表されるタイプの作品が選ばなかった路線の話なんだなあ。
 「萌え」方向にだけ特化するには、ただ1人好きな相手である男の子を巡って、女の子同士が葛藤する、少々「みっともなく」、「生」を感じさせる部分は、必要ない、どころかヘタすると主目的への障害にすらなりかねない。
だから、『シスプリ』アニメ版においては、一つ屋根の下に大量の女の子が住みながらも、互いに必要最低限を下回るほどにしか干渉し合わなかった訳だ。
 多くの、ギャルゲーを元にして女の子をずらりとカタログ的に並べたアニメでも、女の子同士の関係は薄い。
 「萌え」ではなく、「ドラマ」を描こうとするなら、避けて通れない部分だと思うが。

 『ツインズ』は、そういう所にも踏み込もうという意図があるのだろうか。
男の子を巡る女性陣が2人(生徒会副会長を入れても3人)と、数が少ない事で、各人にかける描写の密度を上げられると見越して、かな。

 ただ…それにしては少々食い足りない印象。
お風呂で2人 泣き合って、「恋愛同盟」を結成、なんていうんじゃ綺麗事過ぎる。
 かといって、登場キャラクターが皆、愛恋沙汰に振り回される余りに驚くほど愚かでシンドイ行動を取り続けた前作『ティーチャー』みたいになられても、個人的には困るんだけど。
 …これも暗黒面に進みそうな予感があるんだよなあ……
 せっかくの同盟の設定。
盟約に沿ったり裏切ったりで、これからどれだけ劇中に活かしていけるかが見物。

 各キャラクターの心情を、行動に寄らずモノローグばかりで表したのは、どうだろうか。
確かに分かり易いんだけど、かえってドラマが薄く感じてしまった。

 「肉親かも知れない」「他人かも知れない」という言葉は、かなり印象的なキーワードであり、多用しすぎると鼻についてしまう恐れもあるかと。
 また、麻郁の人の良さを見る限り、例え他人であっても「好きなんだからココに居させて」と頼み込めば追い出しはしないだろうと思え、このキーワードは単に本人の意志として近親愛を忌避したい、というだけの意味しか持たなくなっているような。
 やっぱり、「常識」を体現する存在が物語中に居ない事が、どこまでオッケーで どこから許されないかのボーダーラインをぼやけさせてしまったのでは。
 厳しい教頭先生や、口うるさい隣のおばさんなどがいれば、「他人だったら この家に一緒に居られない」という危険性に、もっと切迫感が出ただろうが。


2003年8月26日 火曜日

『フルメタル・パニック?ふもっふ』01.「南から来た男」「空回りのランチタイム」

 WOWOWで放送していた『フルメタル・パニック』の続編…というか、「番外編」に当たるのではないかと思われる作品。
 というのも、日常においては恐るべき生活不適応能力者であり、重度の軍事オタクにしか見えず、ズレた行動ばかりを示す相良宗介が、戦時・戦場にあっては、状況と噛み合った有能な兵士としての姿を見せる、その二重性がこの作品の特色な訳だけど、公式ホームページの「陣代高校を舞台にした、お気楽でゴクラクな短編をモチーフに…」といった文章を見る限り、「有能な兵士」の面は描かれずに終わる可能性があるため。
 前作での、戦場の緊迫した演出が面白かった事もあり、学園生活のみで終わるのは若干残念にも思うが…

 今作、単純にコメディーからギャグ寄りのアニメとして見ても、なかなかに出来が良いと思う。
 宗介の思考・行動と、平穏な日常とのギャップが きちんと提示されているのに、更に分かり易くすべく逐一 千鳥かなめによるハリセン(!)でのツッコミまで入れてくれるのだから、親切この上ない。
 ボケとツッコミのテンポが良くポンポンと話が進んでいくし、後半で見られた自転車とパトカーのチェイス、時間ギリギリの電車に乗るべく改札を通らずにホームに飛び移り、着地した勢いのまま前転を繰り返して列車内に突入する所など、アクション演出にも見応えがあった。

 主人公2人の関係については、やっぱり前作を見ている方が より理解を深く出来たと思う。
でも、ここから見始めたとしても、ミリタリー・バカで一直線な宗介と、呆れて迷惑に思いながらも 彼の本質の輝きには惹かれていく かなめ、という関係は、無理なく理解できたろう。

 作画品質も高く、これからを楽しみに思える、面白い第一話だった。



『D.C.〜ダ・カーポ〜』08.「うたまるの夢」

 本編の内容は、実質上の総集編。
 だからまあ、それについては特に言う事がないんだけど、ようやく声優さんのプロモーションビデオが終わって、シリーズ番外編的な短編アニメが入るようになったのは嬉しい。

 今回の短編は、桜にまつわる怪談気味の話を女の子達だけが公園でしている、というもの。
 話の内容そのものは他愛もなかったが…
 演出をした もりやまゆうじ氏の手腕により、現実が非現実に変わろうとする境界線を感じさせる画面作りが出来ている事に感心。
ホラー映画とかゲームの、今にも何かが起こりそうな冒頭部分を見せられたような気分。
 ここからもう一歩踏み込んで、女の子達がホラーな事件に見舞われる話にしてしまうのも面白かったかも…と思うけど、「萌え」から離れ過ぎてしまうから、ダメか(笑)。



『グリーングリーン』07.「プールサイドでびっしょびしょ」

 大バカ三人組の行動、女の子に対して攻撃的であった時には ちょっと引いてしまうモノを感じていたが、最近は、妄想におぼれた挙げ句 自滅するパターンに変わってきた。
これだと、素直にバカさ加減を楽しめ、ぼちぼちと笑って見られるので結構結構。

 しかし本当に、主人公であるはずの男の子は「添え物」だなあ。
 今回なんか、可愛い女装姿を晒して三人組のリビドーを全開にした以外には、ほとんど何の活躍もしていない。
 常識を語って暴走のストッパーになる役割すら果たしていないので、今のところ居ても居なくても構わないと思うな。



『住めば都のコスモス荘・すっとこ大戦ドッコイダー』07.「栗華の夢でドッコイ」

 押井 守を思わせる不条理系ドラマで、イマジネーションの豊富さも見応えあったし、現実と幻が交錯するラストまで楽しく見られた…のだが、そもそも今回 メインに据えられた栗華というキャラクターに さしたるバックボーンも無く、こちらに思い入れが出来て無いために、作劇の技術だけを見せられたように感じてしまった。
 少しだけでも、積み重ねたモノがあればなあ。

 それにしてもバラエティー豊かなシリーズで、毎回色々と工夫を凝らしながら、何とか視聴者を楽しませたいという制作側の気持ちが、達者な技術を介して こちらに伝わってくる。
 あと一押し、何かが加われば、個人的に大絶賛のシリーズに化けてくれそうなんだけど。



 ああ、そういえば自分もそうだった、と思ってしまった杉の木工房さん2003.8.22(金) の日記
 何かというと、学生時代は読書感想文の類を書くのが酷く苦手だった、という事。
 有り難い事に280万ものHitを頂いた節目でもあり、思い出話をつらつらと。

 国語の教師(の一部?)には、緩くはあるんだろうけど感想に対する「正解」が頭にあり、それに沿わないモノに決して良い評価を出す事はない。
 高校時代、教科書で、夏目漱石『こころ』の一部分を読まされ、それについての感想文を書かされた事がある。
 その当時は こういう暗鬱な内容のモノを受け付けない精神状態で、だから素直に、「暗くて面白くもない小説であり、後ろ向きな事ばかりを考えている主人公には価値を認められない」と書いた。
 もちろん、後になって全文を読んでからは感想が違うので念のため。
 そうした所、その否定的感想文が授業中に教師によって読まれ、的はずれである事や、主人公に文句を言うキミ(オレ)は どれぐらい立派な人間であるのか、などとあげつらわれ、嘲笑のネタにされてしまった。

 読んで、感じた事を書け、という指定だったから その通り書いたのだが。
教師のお気に召す感想を書け、と最初に言われていたなら、多少なりと器用な立ち回りを考えただろう。
 いやまあ、高校までの授業なんてのは全体に「教師にいかに気に入られるか」をテストする連続みたいな側面があるのは知っているべきで、それを無視すれば、こちらが否定されても仕方ないのかな。

 それもあって、感想文含む、文章そのものを書くのが長い間、苦手だった。
 大学卒論の文章も、テーマにした部分は短く済んでしまい、しかし原稿用紙100枚以上で、という条件になっていたため、必死で語尾を伸ばして行数を稼いだのを覚えている。
「〜だと言われているが、確かに、その論にはある程度の説得力があると言わざるを得ない」
「必ずしも正しいとは言えないけれど、しかし、間違いである、とも断言できない部分があるのではないだろうか」
…というように、実にみっともなく(笑)。

 アニメやら映画の感想を云々し始めたのは、パソコンを手に入れ、まだ「パソコン通信」と言われた初期ネットで文章を書き出してからだなあ。
 好きな作品について、書きたい事だけ書いて、しかも「正解」を誰かが持っている訳ではないので頭から否定される事がない。
 読んでくれた人から「自分もそう思う」や「こういう解釈もあるのではないか」、「違う違う、間違ってるよ」という有り難い御意見を頂いたり、ごくたまには「オマエ面白い事 言うじゃん」とお誉め頂く事さえ。

 幼児が言葉を喋るようになるのは、例えば自動車を見て「にゃーにゃー」と間違って言っても厳しく否定される事が無く、「喋った事」そのものを周囲が喜んでくれ、誉めてくれるのが嬉しいから、という説がある。
 ヨチヨチ歩き程度の文しか書けなかったオレが、こんな長い駄文を平気で書き散らせるようになったのは、ひとえに皆様の暖かい御理解と忍耐のお陰だと思う。
 心よりの感謝を。
 ありがとうございます。
今後ともよろしくお願いします。


 ああ、そう考えると、アニメの感想についても「誉めて伸ばす」事を まず考えた方が良いのかなあ。
「誉めて伸ばしてあげる」ような偉い立場に自分が居るとは思わないが、もしも製作者がココを目にした場合、オタクオヤジの感想サンプルケースとして読んでも、貶されてるよりは誉められている方が嬉しかろうし。

 うーん、考えよう。


2003年8月25日 月曜日

 映画二本立て、『爆竜戦隊アバレンジャーDELUXE アバレサマーはキンキン中』『仮面ライダー555 パラダイス・ロスト』を見る。

『アバレンジャー』
 いやあ、面白かった。
去年の映画『ハリケンジャー』も、面白くはあったんだけど若干もたついた感じがあったのだが、こちらはとにかく速いテンポで押してきて、考える暇を与えない。
 ただただ客を気持ちよくするために作られた、純粋 混じりっけ無しのエンターテイメント。

 ゲストで出た敵の背景が余りにも薄いとか、王女がかわいそう過ぎとか、冷静になると不満点も無いではないが…
まあ、細かい事だな。
 ライブで戦うアバレンジャーをなめて、後ろの方で爆竜集団が激突している様子をワンショットで捉えるなど、大スクリーンを活かした迫力ある画面作りも素晴らしい。
 敵味方入り乱れて踊りまくるエンディングまで、一気に見せられてしまう楽しい映画。

『555』
 うーん…
 重なる設定を多く持ちながら、しかしパラレルワールドの話である、という所を上手く割り切らないと、??と思う部分が出来てしまうだろうな。

 お馴染みの登場人物をテレビとは違う世界に置いて、その行動をシミュレートしている映画。
キャラクターがしっかりと出来上がっているから可能な手法で、確かに、見知った奴等の見知らぬ行動には興味を引きつけられた。
 ただ…
重なる部分が多すぎるが故に、テレビからの予断として、コイツがこんな事するかなあ?とか、こんな気持ちを持っていたとは思えない、という所が出てしまい、それが映画に入り込む障害になってしまっているのは残念。

 シリーズのラストだけを描いた映画『龍騎』でも、時間が足りていない印象が残ったが、『555』はもっと極端で…
最低でも後1時間、出来るなら テレビシリーズ1クールぐらいは、消化するのに必要な内容の濃さだったと思う。
 大変な駆け足になってしまい、あちこちに納得できない部分が残ってしまった。
 魅力的な雰囲気のあった外人ライダーも、強く引きつけられる所まで行かないまま退場だし。
 窮地を脱する方法が、誰かからもらったパワーアップ・アイテムに よるのも、「根性」とかそーゆーモノにこだわる古い人間としては不満。

 テレビも含め、この作品のテーマって「コミュニケーション」、もっと言えば「コミュニケーションの不足がもたらす悲劇」なのかな。
 巧がもっと能弁であったなら、キャラ同士の衝突の多くは起こらないで済んでいたような。
 人間とオルフェノクにしても、もっとよく理解し合えれば、殺す・殺される以外の関係もあり得たのではないだろうか。
 …ま、喋れば分かり合えるってモノでもないが(笑)。

 文句ばかり書いてしまったけど、上映時間中は画面に釘付けになる面白さがあったのは確か。
 キモであるバトルシーンには大変な迫力があり、頑張ったCGの効果も相まって、特に死闘に次ぐ死闘となるラストバトルにはドキドキさせられっ放し。
 ファンなら劇場で見て損のない、見ておくべき映画。

 絶望的な「人類の黄昏」の中、仮面舞踏会を催す切なさは個人的に好みなイメージ。
 僅か数千人しか人間が生き残っていない状況下では、「オルフェノクを全て倒して万歳」にも出来まいから、あのラストで納得。
 人類は、もう負けたって事なんだよね。
負け、というか…新しい種に進化していこうとする流れに、あくまで抵抗しようとする旧人類は、大きな観点からすると「悪」とさえ言えるのかも知れない。
 オルフェノクが悪であり、人類が善であるとは「しない」、高度なドラマ作りに感心。
 同じ旧人類からすると哀しいけれど、消え去る事が、劇中で示された進化の必然か。

 ところで、集められた1万人のエキストラってアレは「ライダー」だったの?
1万人「オルフェノク」じゃなくて?


2003年8月23日 土曜日

 見たまま感想を書き忘れていた映画『チャーリーズ・エンジェル フルスロットル』
 監督は前作と同じくMcGという人で、主演も同じくキャメロン・ディアス、ドリュー・バリモア、ルーシー・リューの三人組。

 何というか、全然真面目にお話を見せる気がなくて、勢いだけのデタラメな映画になっている。
…この表現だと普通はムチャクチャ悪口になる所だろうけど、この映画に限っては「誉め言葉」、というかまあ「製作者の狙い通りの受け取り方をした」事になるのではないだろうか。
 ルーシー・リューのオヤジ役として、よりにもよってバキバキの英国出、元モンティ・パイソンのジョン・クリーズをキャスティングする辺りから人を食っている。
父娘の間をつなぐ母親が出ないせいもあるけど、この2人が並ぶと、顔立ちも人種も含めて「他人でももっと似てる」と思わせられてしまう(笑)。
 また、この父親が出てくる意味が、誤解に基づくルーシー・リューの売春疑惑に絡んだ 死ぬほどしょーもないシモネタを消化するためだけだというのも、実にバカバカしい。

 ドリュー・バリモアが若気の至りで付き合っていたロクデナシが、強力な敵となって立ちはだかってくるのだが、フツーのワルだったはずなのに、敵になった途端にターミネーターばりの恐ろしさを発揮。
敵の親玉は、どこまで事情を知って、何を最も有用なポイントとして彼を使ったのか。
 …そんな事が引っかかるようでは、この映画を最後まで見る事さえ危うい。

 ストーリーの無さは前作以上。
前作も相当に無かったのだが、それよりも更に、何も無くなっている。
 シーンのつなぎ方が乱暴なため、ただでさえ薄い脈絡の流れを見失ってしまう事もしばしば。
 意味のないキャラクターに時間を割くのはやめて欲しかったなあ。
「無意味な事をしている」というギャグかも知れないが。

 それら、物語として映画を見る際には致命的なマイナスポイントを数多く備えながら、しかし見終わった感触は「楽しかった」になる不思議。
 主演三人の撮り方は、他の映画と比べると身もフタもないというか余り美しくないというか( ^_^ )、なんだけど、その辺を差し引いても、楽しそうに演じている事が伝わってくるからかな。
 画面にリズムがあり、それに乗せられていく気持ち良さもあるし。
 同時期に『マトリックス リローデッド』があったので厳しいが、この映画もアクションにはアイディアをかけていて見応えがある。
ただし、「ココでこのアクションを入れる意味は?」などと、なるべく考えないで見る心構えは必要。

 友人が、CMで、ダムから落ちていきつつヘリに乗り込むシーンを見て、「あそこは実に下らないと思うんだが、あの先のどこかに見るべき価値があるのか?」と聞くので、「無い」と答えておいた。
 全編あの調子なのだから、あそこのノリに同調できないなら、見ても時間を無駄にするだけだろう。

 見た所で何の得もないが、もしかしたら現実に悩んだり考え込んだりしている事をバカバカしく思わせてくれるかも知れない、可愛らしい、罪のない映画。


2003年8月22日 金曜日

『宇宙のステルヴィア』21.「みえないかべ」

 少しずつ描写を加えてきた事で、一群にしか見えなかった男の子達に見分けが付くようになってきた。
 女の子に対する態度にしても、
・自分がまるで女の子の気持ちを分からない事に気付き、戸惑う者
・まるで女の子の気持ちは分からないが、どうにか寄っていこうと、現実に必死の努力を続ける者
・まるで女の子の気持ちは分からないが、恋愛慣れを気取る者
・女の子の事よりも食べ物に興味がある精神年齢の者
…と、描き分けが出来ているのに感心。
 結局は誰1人 女の子を理解できていない訳だけど、まあ男の子ってそんなモンでね(笑)。

 人類存亡の危機と、志麻・光太の恋愛の危機を、同等か、あるいは恋愛の方にウエイトを置いて描くのは良いと思う。
思えば『マクロス』だってそういう構造だったし。
 ただ…両者が上手く噛み合っていないように見えてしまうのは難。

 カール・ヒュッターおじさんはエイリアン?
 うーん…意味ありげな言葉を呟く事はあったけど、エイリアンというほど人間離れした思考でもなかったと思うが。
 伏線が弱すぎるため、これなら他に誰がエイリアンであっても、同じ程度に納得でき、同じ程度に「はあ?」と感じてしまうだろう。
 これは、今後の扱い方次第かな。



『スクラップド・プリンセス』18.「路地裏の哀歌」

 「浜辺の施設が壊滅した」というような、規模が大きいため悲劇の所在がぼんやりする描写はアリとしても、今回のように「見知って、パシフィカと好意を結んだ一個人が、彼女を追う者の手にかかって非業の死を遂げるプロセスをきっちり見せていく」事があるとは思わなかった。
 この話も、魔法や超技術が存在する作品世界からすれば、死の直前に助けられた、としても特に問題は無いようなモノだが…
そういう陽気で ご都合主義なラインには沿わない、沿うつもりが無い、製作者の強固な意志を示したのかな。

 フューレからは、松田優作が自分の役柄の最期によく見せたように、強烈な無念さと、裏腹に どこで終わる事も覚悟はしていた生き方が感じ取れ、重い中にも格好良さがあり…そうだなあ、簡単に言うと「痺れるぅ〜」とかそんなの( ^_^ )?
 信じるものを失って ただ生きてきた彼にとり、最期に自らが見出した「守るべき価値ある存在」のために命を失う事が出来たのは、幸せだった、と言えるのかも知れない。

 彼に直接 死をもたらしたのは王国軍兵士だが、彼らは単に命令に従っただけであり憎悪の対象になり得ない。
王国首脳部も、伝説やピースメイカーに操られる形で討伐の命令を出してしまっただけだし、ピースメイカーの行いは無私の善意から出ているとさえ言える。
 宇宙からの侵略者が、言われている通り人類に敵意を持った存在ではないとすると、パシフィカはフューレを失った哀しみと怒りを どこにぶつければ良いのだろうか。



『おねがい☆ツインズ』05.「女の子は好きですか?」

 パターンもアリガチも恐れずに、ひたすら客に喜んでもらうための「サービス」を突っ込んで来るエンターテイメント精神には感心。

 転んだ所で偶発的に唇がぶつかってのキスとか、それへの対抗心から積極的にキスするイベントを、今後 出てくるであろう「肉親」への愛情を遙かに超えた 相手への執着の動機付けにするのは全然オッケーだけど、それは「ラブコメ」としてのリアリティー・レベルであって、過度の悲劇への切っ掛けになるようなモノではない、という事は分かってる…よね?
「パンをかじりながら遅刻遅刻と叫んで走っている女の子と曲がり角でぶつかる」、『エヴァンゲリオン』最終回でパロディーにされた「パターンの楽しさ」と同等だった訳だけど。

 どうもこう、前作で「おバカさん系ラブコメ」が後半一転「悲惨に見せたい気持ちだけが暴走した悲劇」になってしまった心の傷(笑)が癒えなくて。
 過剰に警戒してしまう。
 そういう視聴者のハラハラ・ドキドキまでもコントロールして楽しませてやろう、という程したたかな作りになっているのなら、降参( ^_^ )。


2003年8月21日 木曜日

 近所のレンタル屋がキャンペーン価格で貸し出しをしていたので、まとめて3本、映画を借りてくる。


『千年女優』

 監督は『パーフェクトブルー』の今敏(こんさとし)。
脚本は『キノの旅』の村井さだゆき。

 原節子をモデルにしていると思われる往年の大女優を、ドキュメンタリー製作会社の社長と部下が訪ね、その昔話を聞いていく、というのが基本スタイル。
彼女が少女時代に心 惹かれた1人の男性を追い続ける姿が、時代を超え、主演した映画の背景を借りて、虚々実々のウチに語られる。
 非常にトリッキーな作りで、細部にこだわりすぎても、大雑把に見過ぎても物語を見失ってしまいそう。
 「映画」に対する愛情が溢れており、それぞれのシーンの元ネタを想像するだけでも、オレは楽しかったが。

 結局 女優は、主演した作品内での演技だけではなく、「初恋の男性を追い求める悲劇の女性」という役を、人生を掛けて演じ続けた、という事なのだろうか。
「『初恋の男性を追い求める悲劇の女性』という役を、人生を掛けて演じ続けた女性」を、その最期に演じて見せたのだろうか。
 「映画内映画」という多重の構造を作品に持たせると、深読みに果てが無くなってしまう。
仮想現実を描いた『マトリックス』で、現実はドコにあるのかを考えるようなモノで。

 作画も演出も、チャーミングさ(死語?)を感じさせる老齢期の女優を筆頭にキャラの「演技」も、非常に高いレベル。
 アニメ、というよりもまず「映画」を感じさせる、面白い作品だった。



『トリプルX』

 監督は『ドラゴンハート』『ワイルド・スピード』のロブ・コーエン。
主演ヴィン・ディーゼル、共演にサミュエル・L・ジャクソン。
 町のワルをエージェントに仕立て上げて、お行儀の悪い007さながらの大活躍で事件を解決させようという お話。

 アクションは面白かった。
…予告でほとんど見せられていたため、既に新鮮さは感じなかったモノの、迫力があったのは間違いない。
 問題はストーリーの方。
 せっかく主人公を「ワル」に設定した意味がほとんどないのに、ガッカリ。
この話なら、007が主人公でも問題ないだろう。
 もっと酷いヤツで良かったのに。
悪辣で傍若無人、他人のためには指一本動かさない悪さが欲しかった所。
 それよりもサミュエル・L・ジャクソン演じる指揮官が、一歩上を行く「悪党」であり、反抗を封じられ否応なく協力させられてしまう、とすると基本設定が活きたかと。
 まあ、大衆娯楽作品としては この程度に把握しやすい「ワル」というか「はみ出し者」を主人公にした方が、イキナリ感情移入できて見易いのかもね。

 敵とする悪党が、割に小さい組織しか持っていないのも食い足りない。
これなら、潜入捜査なんかチマチマやらずに、力ずくで潰しても良かったのでは?

 物語としては ほとんど全くハラハラさせられる事がないけど、その分アクションが多目になっているので退屈する事はない。
 でも、うーん、007が好きで、暇だから何も考えずにサッパリ見られる映画が良いなあ、と思う人だけにお勧め、という程度の内容かな。



『カンパニー・マン』

 監督は『CUBE』のヴィンチェンゾ・ナタリ。
 好奇心から産業スパイになろうとした平凡な男が、次第に恐ろしい世界へと足を踏み入れていく。

 冒頭からしばらくは、映像センスこそ素晴らしかったものの物語が退屈で、面白くないなあ、と思い…しばらくして ようやく、『CUBE』の監督らしい悪夢のような世界が展開し始める。
 逃げようにも逃げられず、そもそも既に帰る所が無い絶望感には引き込まれたが…
 後半に入り、アクションシーンや変な秘密基地( ザボーガー基地?)が出てきた辺りからは、地味な007みたいになってしまい、閉塞した危機感が薄れてしまっている。
 ラストのオチなど、「そこまでは誰でも分かってたと思うんだけど、それで?え?コレで終わり?」と感じさせてしまうものなので、見終わった気分が「安っぽいなあ」方向に傾いてしまう。

 映像センスの鋭さだけでも、見て損したとは思わないが…
面白かった、満足、とは言えない内容で、残念。
 次回作に期待。
シナリオの出来さえ良ければ、面白い作品を撮れる監督だと思うので。



『凧になったお母さん 』

 昨年に続き、野坂 昭如原作による戦争童話集の一編をアニメ化したテレビスペシャル。
 終戦を間近に控えた日本、出征した父親を待ち、空襲の恐怖に怯えながら暮らす母子の日常と、非情な最期を描く。

 うーん、もう一つ不満が残る出来。
 死を迎えようとする少年から物語が始まる所など『火垂るの墓』と似通った部分があったが、そこから過去に戻り、更に過去へと遡ったり、また現在に戻ってきたりの構造は、特にメインターゲットであろう子供には若干 分かりづらいだろう。
時系列に沿って並べても問題のない中身だと思うが…何のために こうしたのか?

 少年が見る空想。
自分が巨大化して爆撃機をやっつけるのは まあ良いとしても、続くカッパのイメージは どうだろ。
戦時下の苦労話をカッパに語らせているのだが…この空想の存在で、「逃げ場のない現実感」が薄れてしまっている。
 ラストの爆撃により、少年が辛い現実と向き合う唯一の方法であった空想が無惨にも引き裂かれるシーン…巨大化した空想の自分を突き抜けて焼夷弾が降ってくるとか…があるなら、もっと意味を感じられたんだけど。

 空に向けて昇っていく母親の幻を息子が見送った直後、いきなりその母親が空からまた降りてきて息子を連れて行くシーン。
どちらか一方だけあれば良い訳で、何もこんなモタモタした演出にしなくても済んだはず。
 母子で昇っていく幻だけ、少年の視点を離れて友達の少年が見ている所も不徹底。
死んだ少年の主観のみで終わらせた方がスッキリしただろう。

 効果として…去年のアニメでもそうだったが、意味が分からない上に面白くもないイメージカットが多用されており、子供ならずとも退屈になってしまう。
これは原作の挿絵なのかなあ?
 とにかく、画面の中=戦時中の日本、に視聴者を連れて行かなければならない作品で、画面から興味を失わせるこんな演出は拙すぎ。

 周囲を炎に囲まれ、母親が汗や涙など自分の持ちうる全ての水分を息子に与えようとするシーンには、迫力があった。
 「どうしても死ぬのなら、苦しみ少なく」「どうしても、その分の苦しみは私に与えて下さい」という必死な母親のモノローグにしても、声優さんの熱演が相まって、心を動かされるものに出来ている。
 それだけに、そこに向けて全てを集約する事が出来なかった物語の弱さが残念。

 去年も書いたけど、戦時下の日本をアニメで描くのなら、『火垂るの墓』という、巨大であり驚くほど完成度が高い存在を抜きには考えられないと思う。
これに負けないためには、企画の最初期の段階から、明確に差別化しようという強固な意志が必要。
 今回の作品のように似た部分のある内容では、優位性を主張する事が出来ず、「新作を作らなくても『火垂るの墓』をもう一度 放送すればそれで良いんじゃないの?」と思われ、否定されてしまいかねない。

 「戦争」について親子で話をする切っ掛けにはなったかも知れない、というのだけを この作品の存在意義と考えるなら、別にこのままでも構わないが。


2003年8月20日 水曜日

『機動戦士ガンダムSEED』45.「開く扉」

 フラガとクルーゼの因縁、そしてキラ誕生にまつわる顛末が明かされた。
 …が、前者は「何かつながりがあるらしい」という段階のまま現状に到っており、チラチラと明かされていくヒントから真相を視聴者に予想させる、というステップをまるで踏んで来なかったため、「ああ、そう」としか思えず。
 物語をジグソーパズルに例えると、謎の解明は、周辺がほとんど完成したパズルに一片をはめ込む作業に似ている。
恐らくはこういう形のモノが来るのだろうな、という予想・期待に、あるいは応え、あるいは裏切る事で感心や感動を演出するのだが…
 四隅が出来た程度でしかないパズルの中央部に、ポツンと1つパズル片を置かれても、納得など出来ようはずがなく。

 キラ、やっぱり特別だったのか。
その「特別」を示す演出が弱かったからなあ。
 いや、見ていればもちろんキラの強力さは理解できたが、それが「優秀なコーディネーターとしては、数万、数十万に1人ぐらいは居るレベル」なのか「コーディネーターとしても、化け物」なのか、はたまた「物語の都合により強く見せているだけの存在」なのかが判断できなくて。

 この両方とも、明かさなければ「ならない」設定だったのかね?
知らさないままでも、平気で最終回を迎えられたような気がするが。
 終結に向けて、ドラマの中で大きく活きてくるのならイイけど。
 ヒネた見方をするなら…
今回は脚本が1人だけだった。
これがもし、ココの所 続いているように複数名による脚本だったなら、物語の都合にキャラが必ずしも従わず、「今更そんな事を聞かせてどうしようっていうんだ!」とか何とか、否定的な見解を述べていたのではないか。

 ナチュラルとコーディネーターの関係は、映画『ガタカ』を思わせた。
もっとも、あの映画にはブルーコスモスのような武闘派勢力が無く、DNA改造を受けないで誕生した人間は、劣等種としてまともな職にも就けないほど冷遇されていたが。

 何らかのキーアイテムを持たされ、解放されるフレイ。
 …どーいう理由で、長い間クルーゼの側に居させたの?
アークエンジェル内で面白いポジションだったのを、わざわざ遠ざけてまで、これは起こすべきイベントだったのだろうか?
もうすっかり「終わったキャラ」としか思えなくなってしまったが…
 この不在に、生じた大きなマイナスポイントを埋めるだけの意味を持たせられるのかどうか、次回以降が見物。



『宇宙のステルヴィア』20.「みらいをきみに」

 迫るコズミックフラクチャーの脅威。
 科学的設定が語られたようだが、正直よく分からない( ^_^ )。
「ディラックの海」「ボソンジャンプ」などと同じく、「なんかそーゆーモノらしい」程度の理解で構わないんだろうけど。

 依存しきっていた精神状態から脱する事で、逆に光太との間に距離を感じてしまう志麻。
 でもまあ、この2人は何となく上手く行くに決まっている訳で心配になどならず(笑)、光太に相談されて「私もそーゆーの苦手」としか答えられない初佳の方が興味深かったなあ。

 荒れる対策会議をまとめ上げようと、娘の映像を会議場に流す りんな父。
 それを見て、「大人」の義務と責任に目覚める参加者達は「気持ちよい奴等」だけども…
 ちょっとこう、皆さん せいぜいで思春期ほどの精神状態にしか達してないのでは?という気にもなってしまう。
 理想は理想として理解しつつ、どうしようもなく背負った現実に体を絡め取られて思うように動けないのがリアルな「大人」かと。
国の経済がメタメタなのに、まだ要らない道路引いたり大赤字確定の巨大施設を作ろうとする 現世の官僚・政治家を見ていると…彼らは子供の映像を見せられた所で「それが何か?」とか「彼らのためにこそ道路が必要!」とか、破滅の時が訪れるまで(訪れた後も)言い続けるはずで、目が覚める事など無さそうに思うな。

 会議の様子は、「揉めたが何とかまとまった」程度の報告に留めて、具体的に描かない方が説得力があったと思う。
 ただ、ここで描こうとしているのは「会議のリアリティー」ではなく、それを方便としての「親子の絆」なので、構わないかな。



『グリーングリーン』06.「体育倉庫であっちっち」

 バカ三人組による、灼熱環境下で、お互いを女の子に見立てて繰り広げる地獄絵図の下らなさには笑った。
 笑ったけども、その代わりに主人公側のドラマが実に「どうでもイイ物」に見えてしまう。
薄い味付けの料理と、強烈に辛いか甘いかの料理を同時に食べさせられているようなもので、薄い方は、味どころか存在そのものさえ感じ取れなくなってしまいそう。
 いや、このアニメの「主人公」はバカ三人組なんだな。
仮初めの主人公が見せる、割とパターン気味な恋愛模様なんか、製作者自身からして さほどの興味を抱いていないのだろう。



『D.C.〜ダ・カーポ〜』07.「水越家にご招待!」

 ぼ〜〜〜っとした鍋好きお嬢様の お話。
 「鍋」を「皆(家族)でつつくもの」として、薄まりつつある家族の絆をつなぎ止めるため、鍋にこだわり続ける彼女の切ない気持ちが語られる…などという事は全然無い(笑)。
 他の回でメインに据えられたヒロイン達と同じく、キャラの基本設定をサラリと紹介されただけ、としか感じられないのは残念。
 魅力のあるキャラであり、テンポの良い演出と相まって今回も気持ちよく見られはしたが…ぼちぼち、もう一歩 踏み込んで欲しいなあ。


2003年8月19日 火曜日

 あーうー、ようやく お仕事が一段落。
今回はまた特にキツかった。
 取りあえず、寝ます。
起きてから ぼちぼち更新したい、と。

 体調は、「さほど良くない」レベルをキープ。
時間が取れるようになったのだから、明日あたり病院でもう一度 診察を受けるのがベストだろうな。


2003年8月16日 土曜日

 咳が出る症状、完治せず。
遅れた原稿もまだ出来上がっておりませんので、非常に残念で無念ですが、今夏のコミケ会場行きは断念致します。
 うちのスペースを訪れて下さる予定のあった方、誠に申し訳ありません。

 冬にまたスペースが頂けましたなら、今回の分も頑張りたいと考えておりますので、平に平にご容赦の程を。


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